年末に気仙沼市でプロジェクト第25次となる活動を行いましたが、年始から私事で多忙な時期を送り、あまつさえ引っ越しまですることになり、ついに活動の詳しい御紹介ができませんでした。活動内容についてはブログにアップした活動報告書・決算報告書をご参照下さい。
さてその後も活動は継続しておりまして、去る3月11日に仙台市若林区の荒浜と名取市の閖上にて活動を行いました。
どちらも震災後に何度か視察には訪れている場所ではありますが、プロジェクトとしては初めての活動となる地区です。そのうえ3月11日。。4回目となる震災の日に活動できたことは大変意義深いことであります。実現には関係各位の並々ならぬご尽力を頂きました。改めまして御礼申しあげます。
【3月10日(火)】
ぬえは午前中師家にて稽古、午後から千葉県松戸市で稽古があり、その後松戸より仙台市に向かい、仙台市内に宿泊。笛の寺井さんは東京でのスケジュールのあと夜行バスにて仙台へ。
このとき ぬえは携帯電話を忘れてしまって。。現代で携帯電話という通信手段がなくなると、ここまで不便なものか。。活動の間ずっと関係者にはご迷惑を掛けてしまいました。幸いにもパソコンは持っていたのでホテルでWifiにつなごうと思ったのですが、なんとホテルには無線LAN設備がなく。。活動費を抑えるために毎度安価な宿を探して泊まっているのですが、その選択が裏目に出た格好です。幸いにもホテルのフロントで事情を話したところ、業務用のWifiを使わせて頂けることになりました。これはホテルのフロント周辺。。つまりロビーでしか電波が届かなかったため、宿泊の間 深夜にも何度かロビーに下りてメールで関係者との通信をすることになりました。
【3月11日(水)】
朝、宿を出発して仙台市若林区の荒浜へ。このあたりは震災3ヶ月目に ぬえが初めて被災地を訪れた際には、通行止の規制があちこちにあって、まったく近づくことが出来なかった場所です。東北といえばリアス式の複雑な海岸線が有名ですが、石巻あたりから南は砂浜が広がっています。荒浜は震災前は仙台市民にとって身近な海水浴場で、付近には広大な仙台平野の恵みにより、仙台の都会の至近にありながら多くの水田が作られて稲作が行われていました。また貞山堀(ていざんぼり)という運河が海岸線の近くに古くから造られていて、宮城県の内陸から運ばれた米などの輸送が盛んに行われていました。農業・漁業・海運など、この地区は仙台藩にとっても重要な地域であったようです。
しかしその一方、高台が付近にほとんどないという地形が災いして、震災の際の津波では仙台平野の広い範囲で多くの犠牲者を出してしまいました。付近で高台といえば数mの盛り土をして作られた仙台東部道路。。我々が石巻や東松島で活動するときは通い慣れた道路ですが、これがある程度。あとは所々にある公民館とか学校など2~3階建ての建物がいくつかあるだけで、車で避難した人々が渋滞に巻き込まれて犠牲になった話は何度となく ぬえたちも聞かされました。
震災当時、テレビでも仙台平野を一面に呑み尽くす津波の衝撃的な映像が流されましたが、震災後の仙台市の発表によれば津波の高さは仙台港で7.2mで、奥に行くに従って湾口が狭くなるリアス式海岸を襲った津波よりも幾分低かった傾向が窺われます。にも関わらずこの地区で大きな被害を出してしまったのは、高台が少ないこの地域の地形が大きな原因になったのであろうと思われます。
荒浜に到着すると、前夜から未明までちらついていた雪は止んで青空になりましたが、あまりの強風にびっくり。かつて岩手県・釜石市の鵜住居の仮設商店街で活動した際に強風に見舞われて困ったことがありましたが、この日の風はそれ以上で、能の上演の際も扇が開けないばかりか、シテが吹き飛ばされてしまいそう。。
荒浜には慰霊碑のほか海岸に背を向けて津波被害に遭った住宅地の方へ向いて観音像が建てられています。これは震災の2年後に地元住民さんにより建立されたもので、石材店が全面的に協力したものだそうです。ぬえたちは視察でここを訪れた際にこの観音像を見ていますから、一昨年の夏、観音像が建立されて半年後くらいにここを訪れたことになります。周囲にはまだ津波によって損壊したままの建物がいくつか残されていました。
この日荒浜に楽屋入りするのは正午過ぎの予定でしたが、荒浜での上演のあとにすぐに名取市・閖上でも上演することになっており、その移動がかなり忙しいことが予想されましたので、まずは荒浜の会場を見て、それから移動の状況の確認を兼ねて閖上に打合せに向かいました。
閖上は旧閖上中学校の敷地内北側が会場となっていました。荒浜からの交通は一本道しかないためかなり渋滞があって、ちょっと上演時の移動には困難が予想されました。会場ではすでに追悼式典の準備が着々と進行しています。正午頃に閖上の関係者さんと打合せをしたところ、上演時刻はそれほど厳密でなくても良い、とのありがたいお返事を頂き、駐車スペースの打合せや上演の段取りなどを打ち合わせました。
すぐにとって返して荒浜へ。笛の寺井さんとは現地集合という約束でしたが、仙台から荒浜までの交通は不便そうだったので(新しい地下鉄が建設中で、これが完成すると便利になるそうです)、途中までお迎えに行こうかと思ったのですが、なんせ携帯電話を忘れたため寺井さんとも連絡が取れず。。仕方なく荒浜の会場に一人で戻ることにしました。
さてその後も活動は継続しておりまして、去る3月11日に仙台市若林区の荒浜と名取市の閖上にて活動を行いました。
どちらも震災後に何度か視察には訪れている場所ではありますが、プロジェクトとしては初めての活動となる地区です。そのうえ3月11日。。4回目となる震災の日に活動できたことは大変意義深いことであります。実現には関係各位の並々ならぬご尽力を頂きました。改めまして御礼申しあげます。
【3月10日(火)】
ぬえは午前中師家にて稽古、午後から千葉県松戸市で稽古があり、その後松戸より仙台市に向かい、仙台市内に宿泊。笛の寺井さんは東京でのスケジュールのあと夜行バスにて仙台へ。
このとき ぬえは携帯電話を忘れてしまって。。現代で携帯電話という通信手段がなくなると、ここまで不便なものか。。活動の間ずっと関係者にはご迷惑を掛けてしまいました。幸いにもパソコンは持っていたのでホテルでWifiにつなごうと思ったのですが、なんとホテルには無線LAN設備がなく。。活動費を抑えるために毎度安価な宿を探して泊まっているのですが、その選択が裏目に出た格好です。幸いにもホテルのフロントで事情を話したところ、業務用のWifiを使わせて頂けることになりました。これはホテルのフロント周辺。。つまりロビーでしか電波が届かなかったため、宿泊の間 深夜にも何度かロビーに下りてメールで関係者との通信をすることになりました。
【3月11日(水)】
朝、宿を出発して仙台市若林区の荒浜へ。このあたりは震災3ヶ月目に ぬえが初めて被災地を訪れた際には、通行止の規制があちこちにあって、まったく近づくことが出来なかった場所です。東北といえばリアス式の複雑な海岸線が有名ですが、石巻あたりから南は砂浜が広がっています。荒浜は震災前は仙台市民にとって身近な海水浴場で、付近には広大な仙台平野の恵みにより、仙台の都会の至近にありながら多くの水田が作られて稲作が行われていました。また貞山堀(ていざんぼり)という運河が海岸線の近くに古くから造られていて、宮城県の内陸から運ばれた米などの輸送が盛んに行われていました。農業・漁業・海運など、この地区は仙台藩にとっても重要な地域であったようです。
しかしその一方、高台が付近にほとんどないという地形が災いして、震災の際の津波では仙台平野の広い範囲で多くの犠牲者を出してしまいました。付近で高台といえば数mの盛り土をして作られた仙台東部道路。。我々が石巻や東松島で活動するときは通い慣れた道路ですが、これがある程度。あとは所々にある公民館とか学校など2~3階建ての建物がいくつかあるだけで、車で避難した人々が渋滞に巻き込まれて犠牲になった話は何度となく ぬえたちも聞かされました。
震災当時、テレビでも仙台平野を一面に呑み尽くす津波の衝撃的な映像が流されましたが、震災後の仙台市の発表によれば津波の高さは仙台港で7.2mで、奥に行くに従って湾口が狭くなるリアス式海岸を襲った津波よりも幾分低かった傾向が窺われます。にも関わらずこの地区で大きな被害を出してしまったのは、高台が少ないこの地域の地形が大きな原因になったのであろうと思われます。
荒浜に到着すると、前夜から未明までちらついていた雪は止んで青空になりましたが、あまりの強風にびっくり。かつて岩手県・釜石市の鵜住居の仮設商店街で活動した際に強風に見舞われて困ったことがありましたが、この日の風はそれ以上で、能の上演の際も扇が開けないばかりか、シテが吹き飛ばされてしまいそう。。
荒浜には慰霊碑のほか海岸に背を向けて津波被害に遭った住宅地の方へ向いて観音像が建てられています。これは震災の2年後に地元住民さんにより建立されたもので、石材店が全面的に協力したものだそうです。ぬえたちは視察でここを訪れた際にこの観音像を見ていますから、一昨年の夏、観音像が建立されて半年後くらいにここを訪れたことになります。周囲にはまだ津波によって損壊したままの建物がいくつか残されていました。
この日荒浜に楽屋入りするのは正午過ぎの予定でしたが、荒浜での上演のあとにすぐに名取市・閖上でも上演することになっており、その移動がかなり忙しいことが予想されましたので、まずは荒浜の会場を見て、それから移動の状況の確認を兼ねて閖上に打合せに向かいました。
閖上は旧閖上中学校の敷地内北側が会場となっていました。荒浜からの交通は一本道しかないためかなり渋滞があって、ちょっと上演時の移動には困難が予想されました。会場ではすでに追悼式典の準備が着々と進行しています。正午頃に閖上の関係者さんと打合せをしたところ、上演時刻はそれほど厳密でなくても良い、とのありがたいお返事を頂き、駐車スペースの打合せや上演の段取りなどを打ち合わせました。
すぐにとって返して荒浜へ。笛の寺井さんとは現地集合という約束でしたが、仙台から荒浜までの交通は不便そうだったので(新しい地下鉄が建設中で、これが完成すると便利になるそうです)、途中までお迎えに行こうかと思ったのですが、なんせ携帯電話を忘れたため寺井さんとも連絡が取れず。。仕方なく荒浜の会場に一人で戻ることにしました。