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【滋賀・近江の先人第13回】明治富豪26人の一人にも数えられた近江の豪商・薩摩治平衛(滋賀県豊郷町)

2019年02月22日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
薩摩 治兵衛(さつま じへえ、天保2年(1831年) - 明治42年(1909年)、幕末-明治時代の近江商人。極貧から身を立てた豪商。屋号は丁字屋。


薩摩治兵衛は、天保2年(1831年)近江国犬上郡四十九院村字南町(現滋賀県犬上郡豊郷町四十九院)に生まれ、幼名を与三(惣)吉と言った。
父茂兵衛は農業を営んでいたが、治兵衛が9歳の時に死去、田畑と家も売却し、母と弟と3人で村外れの茅屋に住い、僅かばかりの田畑を小作して極貧の生活を過ごした。
再三再四、母に江戸に行き商人になりたいと申し出、
天保12年(1841年)、10歳の時、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)の外池太右衛門の店へ出仕する。一人で野宿をしながら十数日かけて武蔵国まで向かったという。
嘉永2年(1849年)、18歳の時、近江国小田苅村出身で江戸日本橋堀留(現東京都中央区日本橋堀留町)にある、呉服木綿商の豪商「小林吟右衛門」(通称丁吟(ていぎん))の店に丁稚奉公に入った。

治兵衛はよく働き、盆暮れの休みも仲間の丁稚が遊びに行くところ、家で読み書きの稽古に励み、また給金・小遣いも主人に預け、1両、2両と母に仕送りをし、28歳で店の若衆頭となったが、煙草も酒もやらず、朝早く起きては丁稚と共に拭き掃除を行い、夜は燈火の下で仕事に励み、羽織も毎晩たたみしわ伸ばしをし清潔な装いを守っていた。

誠実な仕事ぶりから取引先からも絶大な信用を得、主人は雇い人の模範と一目置き、娘を嫁がせ別家を立てさせ通い番頭として取り立てた。しかし、妻の我儘が原因で離縁となったが主人は罪は娘にあるとして、引き続き番頭として遇した。ただ、治兵衛は既に離縁となった事から別家を返上し、住み込み番頭と自らなった。
2番番頭にまで進み仕入れの一切を任されるようになり、38歳の時に治兵衛は主人に暖簾分けを願い出、許された。

慶応3年(1867年)35歳、江戸日本橋田所町(現中央区日本橋富沢町)に和洋木綿商店『薩摩屋』「丸丁字」を開いた。
しかし、新たに店を立てるに際し、主家の小林吟兵衛からの資金支援はなく、先輩奉公人であった杉村甚兵衛より2千両を資本として借り入れた。毎朝3時に起き、仕事に東奔西走した結果、杉村からの借り入れは1年程で返済する事が出来た。

新しい商品仕入れにも敏感で、横浜で金巾(かなきん、キャラコ)を目にし、世の中に流行ること事間違いなしと、未だ攘夷の雰囲気が残る中、外国商人より積極的に仕入れ大いに利益を得たと言う。
また、横浜、東京にも支店を設けた。幕末の混乱期を商才と努力で乗り切った。
明治15年(1882年)50歳、大阪紡績会社(東洋紡績の前身)の設立に参加。
明治19年(1886年)に駿河台北田賀街に本邸を置き、
明治21年(1888年)には東京日本橋に本店(薩摩商店)を新築し、「木綿王」と呼ばれ長者番付にも名を連ねるほどの豪商になった。
明治32年(1899年)には『薩摩屋』は996千円の売上税を納め、日本一の大店となり、明治富豪26人の一人にも数えられた。
商いの利益が莫大なものとなってからも母や郷里を思う心は変わらず、飢饉のたびに郷里の人々を救う。彼の姿勢は生涯変わることがなかった。
明治32年(1899年)68歳、長男に家を譲り隠居後は治良平を名乗った。隠居後も店務を指揮監督し、多額の公益事業に寄付し郷土の村民を助けた。
明治42年(1909年)2月22日、心臓麻痺のため神田区駿河台袋町の別邸で死去。78歳没。

二代目薩摩治郎八
明治14年(1881年)に初代治兵衛が51歳の時の後に二代目になる治郎八が誕生。明治33年(1900年)19歳で治兵衛を襲名した。
2年後には大阪に支店を開業し事業拡大を図ったが、金融恐慌などの影響で昭和9年(1934年)53歳の時、薩摩商店は閉店した。

初代薩摩治兵衛とその末裔
数多ある近江商人の栄光の中で、薩摩治兵衛と薩摩商店の名前が取り上げられることは余りない。
その孫であり「バロン薩摩」として知られる「薩摩治郎八」も、近江商人という系譜の中で語られることは少ないようだ。薩摩家は、「近江商人」として忘れられた存在と言えるのだろう。
薩摩治兵衛は、天保元年(1830年)、犬上郡四十九院村(現在の豊郷町四十九院)の貧しい農家に生まれた。
早くに父を失い、極貧の家族を助けるために10歳で奉公に出て、勤勉に働き、暖簾分けされて木綿商として日本橋に店を構えた後も、幕末の混乱期を商才と努力で乗り切り、明治期には「木綿王」と呼ばれ、長者番付にも名を連ねるほどになる。

そんな薩摩治兵衛が忘れられたのは、薩摩商店が、戦後まで生き延びることができなかったためだろう。
明治42年(1909年)に初代薩摩治兵衛が亡くなり、世界恐慌が訪れた後、商売を存続することができず、昭和9年(1934年)頃には廃業を余儀なくされたのである。


薩摩 治郎八(さつま じろはち、1901年(明治34年) - 1976年(昭和51年)、初代薩摩治兵衛の孫は、日本の実業家、作家で大富豪として知られた。
その華麗で洒落た浪費ぶり(フランスにて、10年間で約600億円使ったという)から、「バロン薩摩」と呼ばれた。

「薩摩治郎八」は、大正9年(1920年)に渡英。のちにパリに移り、父である二代目薩摩治兵衛から潤沢な仕送りを受けながら、戦前のパリ社交界で華々しく文化人と交流した。その豪華さから、爵位があったわけではなく、渾名として「バロン薩摩」と呼ばれたという。
昭和4年(1929年)には、薩摩家の資金でパリ国際大学都市に日本館を建立し、フランス政府から叙勲を受けるなど、日仏の文化交流においても活躍し名を残した。
第二次世界大戦中も含む約30年間の殆どをフランスで過ごした治郎八は、昭和26年(1951年)に帰国。その後は、本場ヨーロッパで培った豊富な知識を活かした執筆活動などをしていた。また、浅草で踊り子をしていた女性と結婚、晩年は夫人の故郷徳島で暮らし、昭和51年(1976年)に世を去った。

尚、その破天荒な人生は、生前には獅子文六や瀬戸内晴美によって小説化され、2000年代に入っても「『バロン・サツマ』と呼ばれた男 薩摩治郎八とその時代」(村上紀史郎著・藤原書店)などの書籍が発刊行され、知る人は多い。
しかし、治郎八については、近江商人の後裔としてではなく、日本橋の富豪の御曹司として語られることが多いようである。
成功後、貧窮者を救済する制度をつくるなど地元にも貢献したため、初代治兵衛の故郷である豊郷町四十九院には、主に初代と二代目治兵衛の遺品や資料が多く残され、同町の「先人を偲ぶ館」に保管されている。
本書は貧しい中から近江商人として成功した初代、それを受け継ぎ、息子の豪奢な生活と文化事業を支えた二代目、そして「バロン薩摩」と呼ばれた三代目までの約150年を一つにまとめた初めての書籍である。

薩摩治兵衛の出身地である豊郷村(現滋賀県豊郷町)は、伊藤忠の伊藤家をはじめ、現在に続く成功を収めた近江商人を多く輩出した土地だ。
「初代が築いたものを、企業として軌道に乗せられたかどうかが、後の成功を分けた。成功した伊藤家と薩摩家のような対照的な家がこの豊郷にあるということが面白い」。

<Wikipedia、近江を築いた人びと・上引用>


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