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【滋賀・近江の先人第26回】医師であり有能な商人・売薬の先駆け・正野玄三(滋賀県日野町)

2019年04月27日 07時24分09秒 | 滋賀・近江の先人
正野 玄三(しょうの げんぞう、1659年(万治2年) - 1733年(享保18年))は江戸時代中期の近江日野商人、日野売薬の先駆け・売薬の祖。日野薬品工業の遠祖。

正野家について
正野家の祖は1504年(永正・大永)頃より関東方面に商いをしていた旧家で鎌倉に店舗を持ったが数年で近江国神崎郡佐生村(旧能登川町う・現東近江市)に居住した。代々製茶業を営み、1533年(天文2年)宮中へお茶の献上を行い、1534年(天文3年)に正六位下の官位を得た「玄友」を初代とする。
三代「友斎」まで献茶を行っていたが、四代「宗悦」は1573年~(天正年間)大阪難波で眼医を生業とし名声を博した。1595年(万治2年)生まれの5代「丸右衛門」は4代宗悦の子で、滋賀県愛知川(現愛荘町)に居住し1659年(万治2年)65歳で没した。
1620年(天和6年)、5代「丸右衛門」の嫡男6代「源左衛門」が生まれ帰農した。これが称の玄三の父源左衛門で正野家第六代家主である。
(別の資料においては正野家は代々農業を営むと記されている)

略歴
初代正野玄三は、
1659年(万治2年)、6代目父源七郎・母シノの三男として近江日野の村井(現滋賀県日野町)に誕生し、7代目を継承した幼名「萬四郎」は家業の農業に従事していた。若くして父を亡くし、1676年(延宝4年)数え18歳の時に、名を「源七」と改め、「財を得るには商売に限る」と郷里の近江日野に帰り、日野漆器や茶、布を持って東北地方の行商を始める。当初は次兄丸右衛門と共に行商を行い商いを学んだ。
1684年(貞享元年)29歳、行商人としての独立が認められた。
(別の資料においては、農業の利益が薄いことから越後に赴き商売を習い、父の死去に行商を始めたと記されている)

正野源七(後の玄三)が行商を行った地域は信州・越後・江戸・桑名・京・大阪・堺に及び、京・大阪・堺で仕入れた木綿・古類(古着や中古の装飾品等)・衣料品を信州・越後で売り、信州・越後では縮・たばこ等を仕入れ上方で売り捌いていた。
この間、商売の元手の7割を母や兄弟より借り入れて商売の拡大を図った。また、自身が兄から学んだように、自分も弟安兵衛と一時期共に行商を行い商いを弟に教えた。

1693年(元禄6年)34歳の時、京の医師、名古屋丹水の下で医術修業を始める。
理由は不確かであるが、母シノの病を名医名古屋丹水の治療を受け全快し、医術の有り難さを痛感した。また、先祖に眼医者がいたことから医療に関心を元々持っていたとも考えられる。
医療修行中は、それ迄の売掛金回収や貸付利息収入があり、加えて元禄十年代には手代2名を雇い行商を行わせていたため十分家族を養い、医療製薬修行に励むことができたという。

1697年(元禄11年)39歳、剃髪し僧籍に入り、「玄三」と称した後、高齢となった玄三は1701年(元禄13年)41歳の時、京都を去り、帰郷し近江日野で医業を開業し繁盛したが多くの人を救済するには優れた薬剤を広く頒布ことと悟った合薬を製造して、これを全国販売することにした。
これが近江日野売薬の始まりである。玄三は医術と売薬業を兼務し、神農感応丸、萬応丸を創製した。日野の製薬は日野漆器に代わって日野商人の重要な行商品として全国的に有名になり、その後の発展に寄与し、日野の合薬は瞬く間に全国に普及した。

日野の製薬業の起源は玄三が行商を通じ諸国を見た結果、治療を受けることができず命を落とす人が多く、薬さえあれば多くの人の命を救うことが出来ると考えたことによる。
翌年、近江日野の店に薬調剤を行う室を設け1703年(元禄16年)44歳、には製薬卸業も軌道に乗るに至った。薬種を堺で仕入れ、日野で調合し、合薬として手代等雇い人に行商を行わせた。
また、他の行商人や各地の薬売への卸売りを行った。従前の商い品に比べ合薬は携行し易く行商向きであると共に、通常の行商の利益率(1割~2割り)に比べ合薬は(3割~4割)収益性も高いことから、玄三の財産はこれ以降飛躍的に伸びていった。
財産は、大名貸しの焦げ付き等があったにも係わらず、製薬卸業に転換して25年目の1725年(享保10年)66歳、には82百両超(約3.3億円)の資産を持つまでに伸張した。

1705年(宝永2年)46歳、「法橋」に任じられ、法橋の地位を得た後、自らを律すべく全十二条の家訓を定めた。
特記すべきは相場取引の禁止と大名貸しへの注意である。
この内大名貸しは、元禄時代の物価上昇から巨利に目が眩み多くの商人が多額の貸付を大名に対し行ったが、元禄終焉と共に大名の返済が困難となり、結果多くの商人が商売廃業迄に至っていた。
このことから玄三は大名貸しは身代の二割以内と定めた。実際、正野家においても玄三生存中に近隣領主である仁正寺藩市橋家(近江日野藩主)からの申し出を断り切れず貸し出しを行った結果、1709年(宝永6年)50歳、には市橋家では返済困難に陥り多額の損失が生じた。
商売の発展と共に家訓・規則は雇用人の規則や店運営上の規則、分家と本家間の規則など複雑かつきめ細かな内容へ変化していった。

1732年(享保17年)73歳、資産を長男名古屋伯由は医師名古屋家に入家させ京都の屋敷に貸家等の不動産を、次男猪之五郎には自家の跡目を相続させ日野の本宅・店を譲渡した。
明治維新後の西洋医学全盛において日野の売薬業は不振に陥り、当時の正野家家主第八代玄三が中心となり、日野の中小売薬事業者救済のため江州日野製剤株式会社(現日野薬品工業)を設立し、同社初代社長に就任し日野の売薬を守り抜いた。

また、正野玄三家は、明治26年(1893年)、中井源三郎・小林吟右衛門・阿部市郎兵衛といった湖東・日野方面の錚々たる近江商人と共に協力し、東海道線彦根駅から高宮・日野など内陸部を通って関西鉄道深川駅を結ぶ近江鉄道会社の創設にも寄与している。 
その他、綿布製織(明治22年)、日野製薬(明治23年)、八幡銀行(明治23年)、伊予紡績(明治25年)、堺煉瓦(明治29年)、日野銀行(明治29年)、日野町製薬(大正3年)の創設に関与し、地方教育、奨学制度、貧民救済にも寄与した。

日野まちかど感応館(旧正野玄三薬店)

萬病感応丸
萬病感応丸は正野家で代々扱われてきた合薬で、初代玄三の頃は「神農感応丸」と名づけられていたが万病に効くことから、万病の二字が商品名に付くようになった。
効能としては「熱病・感冒・吐瀉・魚鳥食中毒・心臓病・腹痛・胃腸病・眩暈・昏倒・流行病・下痢・産の前後」と謳われている。現在も「正野萬病感応丸」として販売されている。

日野薬品工業・正野萬病感応丸

<Wikipedia等引用>


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