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【滋賀・近江の先人第5回】滋賀県を代表する菓子メーカー「たねや」・山本久吉(近江八幡市)

2019年01月20日 07時55分46秒 | 滋賀・近江の先人

現代滋賀県を代表する菓子メーカー「たねや」は、1872年、七代目当主 山本久吉が、京都亀末にて修業の後「種家末廣」の屋号で、旧八幡町池田町(近江八幡市)に、菓子業の初代として創業。後に、屋号を「種家」と改名した。九代目当主 山本徳次は1966年9月にたねやの三代目を継承した。創業地、本店は滋賀県近江八幡市。

    

↑たねや、クラブハリエの店舗群

元々は和菓子店であるが、洋菓子の製造・販売にも力を入れ、バームクーヘンの「クラブハリエ」が有名であるほか、イタリア菓子専門店「ソルレヴァンテ」、フランス菓子専門店「オクシタニアル」、洋菓子道具専門店「ボンヌ シャンス」を展開している。特に、バームクーヘンが過去、歌手松田聖子によりTVで取り上げられ、一躍全国的に話題となった。今や全国的にも有名ブランドになった「たねや」「クラブハリエ」ブランドは滋賀県を代表する菓子メーカーである。


私が小さい頃の「たねや」はまだ、一介の近江八幡の菓子屋だった。今日の「たねや」の隆盛は実質、昭和40年代初め、近江八幡駅前に出店後から始まったと言ってよいだろう。当時はまだ、近江八幡の和菓子屋のイメージが強かった。クラブハリエブランドのバムクーヘンの大ヒットと雰囲気のある店舗作りで一気に拡大が進んだ。


特に、現在の「ラコリーナ近江八幡」(イタリア語で「丘」という意味)(本社も入っている)は、元簡保の広大な施設だったところでバブル崩壊時期、「たねや」が頼まれて引き取った場所である。「ラコリーナ近江八幡」は「自然を愛し、自然に学び、人々が集う繋がりの場」として「たねや」が営む素晴らしい自然景観の菓子の殿堂である。今や毎日人が溢れるほどの客で近江八幡市の1大名所となっているすごい施設・店舗である。

ヒストリー
「種屋」の元は江戸時代に材木商を生業とした家系で、のち、近江国蒲生郡八幡池田町(現近江八幡市)で、穀物類・根菜類の種子を商う「種屋」を創業した。


1872年(明治5年)、7代目山本久吉が京都の和菓子店「亀末」で修行を積み、栗饅頭と最中を製造販売する和菓子店に商売替えし、屋号を「種家末廣」とした(のち「種家」に改称)。1921年(大正10年)、東京「塩瀬総本家」で修行を積み宮内省大膳寮に2年奉職していた8代目山本脩次が種家2代目を継承。物資不足の太平洋戦争直後には栗饅頭が人気を博し、たねやの基本づくりとなったと言われている。

明治末期から昭和初期にかけて、種家の近所にはアメリカ人実業家のウィリアム・メレル・ヴォーリズが住んでいてヴォーリズの勧めで、
1951年(昭和26年)、山本脩次(種屋2代目)は洋菓子の製造を開始し、これがのちの「クラブハリエ」の基となった。
1958年(昭和33年)、種家は有限会社「たねや菓舗」に改組し、脩次が代表取締役社長に就任した。
1966年(昭和41年)に脩次の死去に伴い、長男の傳一が有限会社たねやの社長に就任。
1967年(昭和42年)、近江八幡駅前への出店。
1972年(昭和47年)、株式会社「たねや」を設立、次男の徳次が社長に就任。
1976年(昭和51年)、大津西武に百貨店初進出、1984年(昭和59年)には東京営業所(現・東京支店)を開設して日本橋三越本店と銀座三越に県外初進出を果たすなど、滋賀県を代表する菓子メーカーに成長した。


2006年(平成18年)にはグループ本部を近江八幡市から愛知川町(現・愛荘町)に移転したが2016年(平成28年)には本部を近江八幡市のラコリーナ内に再度移転した。
2011年、株式会社は徳次の長男・昌仁が代表取締役社長に就任し。徳次は代表権のある会長に就任、その後名誉会長。

たねやの歴史HP
https://taneya.jp/group/company/history_taneya.html



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