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【滋賀・近江の先人第18回】白木屋 (デパート)創業者・大村彦太郎(長浜市)

2019年03月16日 06時59分55秒 | 滋賀・近江の先人
初代大村 彦太郎可全(おおむら ひこたろう、寛永13年(1636年) - 元禄2年1月20日(1689年2月9日)53歳没)。江戸時代初期の近江国坂田郡長浜村(現滋賀県長浜市)生まれの近江商人。百貨店白木屋(しろきや)の創業者。


滋賀県人である私も「白木屋」のことを良く知らなかった。ましてや創始者が江戸期の近江商人「大村彦太郎」だと言うことも知らなかった。また、商売の最後が百貨店であること、近江商人の多くが繊維、呉服で身を起こしていることから同類かと思ったが何と材木商から始まっていた。あまたいる近江商人でも大変珍しい。

明治から昭和初期まで一世を風靡した「白木屋百貨店」は、東京、大阪などの大都市で大型店舗を構え、流行の先端を走る革命的なデパートとして君臨した。その創設者が近江長浜出身の大村彦太郎だったのである。
白木屋百貨店は戦前頃まで三越、高島屋、大丸、松坂屋、松屋などと肩を並べる業界の老舗であった。創業は三越よりも古い300年の伝統を誇ったが白木屋は戦後の経営の沈滞から1967年(昭和42年)、東横百貨店(東急百貨店)に吸収され、白木屋は消滅した。しかし、白木屋創業以来336年の歴史を誇ってきたその東急百貨店日本橋店も売れ行き不振で、1999年(平成11年)に閉店している。

ヒストリー(Wikipedia等参照)
白木屋創業者である初代大村彦太郎は、寛永13年(1636年)近江国坂田郡長浜村(現滋賀県長浜市)に生れた。幼名は彦四郎、諱は可全(よしまさ)。父は「大村孫右衛門(道与)」、母は長浜の材木商河崎源兵衛(定幸)の娘「辰」と言い、弟に四郎三郎がいた。父は京都で「菊屋」の名で材木商を営んでいたと伝えられている。

父孫右衛門は寛永17年(1640年)に没し、彦太郎は数え7歳で父を失った。彦太郎と弟四郎三郎は、母辰と共に母の実家河崎家に引き取られ、母の弟、河崎源兵衛(定利)に養育された。河崎源兵衛(定利)には鍋と夏と言う二人の娘がおり、後に夫々彦太郎と四郎三郎に嫁いだ。

独立(京都白木屋開業)
彦太郎は良疇寺(現長浜市下坂浜)の法山和尚について学んだ。
彦太郎は母の里である近江長浜の河崎家で同家家業を手伝い、材木屋としての修行をしたが商才に長けており、和尚より商人として身を立てることを勧められた。
彦太郎が数え17歳の頃(慶安4年-5年(1651年-1652年)、河崎家の援助を得て、京都で材木商売を始めた。河崎家からは資金・商品の支援に加えて「白木屋」の屋号も贈られた。
開店後、彦太郎は材木商「白木屋彦太郎」として諸国に材木販売で回る傍ら、綿布の行商も行った。京都の材木店「白木屋」は木綿類や日用品の販売も行い、大いに繁盛したという。

江戸白木屋出店
江戸幕府開府以降の江戸の繁栄を聞くにつけ、彦太郎は江戸への出店を考えるようになり、
寛文2年(1662年)、江戸で人気の上方小物を商う小間物屋「白木屋」を間口一間半(約2.7m幅)のささやかな店だったが日本橋通り2丁目に出店した。
寛文5年(1665年)には更に地の利が良い、日本橋通り1丁目に移転し、後に江戸屈指の呉服店「白木屋」の礎を固めた。

江戸日本橋の新店舗では裂地類(和織物)を仕入れるほか、
寛文8年(1668年)には羽二重地を扱い始め、徐々に扱い品を増した。
延宝6年(1678年)には縮緬・毛氈・紗・綾等を販売
延宝7年(1679年)には晒木綿(さらし木綿)販売
天和元年(1681年)には木綿羽織地に着尺麻(きじゃく麻)販売
貞享元年(1684年)には太物(綿織物や麻織物)店を拡張
貞享3年(1686年)には郡内縞(グンナイジマ=絹織物の一つ)販売。

商売の方法は新しい商品を扱っては売れ行きを見、資金回収をした上で新しい商品に手を出すと言う、極めて手堅い商売を行い、徐々に店は拡張していった。江戸時代、「白木屋は手堅い店」と言われ、大いに商売上信用に値する店と評価された。
これは、「商いは利益を取らず、正直に、良きものを売れ、末は繁盛」との白木屋家商業精神によるものと言えるだろう。

初代彦太郎隠居
貞享元年(1684年)48歳の時、寛文元年(1661年)生れの嫡男彦太郎安全に家督を継いだ。しかし、二代目彦太郎安全は貞享3年(1686年)まで京都の店で仕事をしていたため、初代彦太郎は隠居をしたと言っても、息子安全の江戸到着まで実質日本橋の店を経営していた。
2代目彦太郎安全の事実上の初年度である貞享4年(1687年)には、
白木屋は手元予備金だけで2万9千5百両の大店となっていたという。元禄2年(1689年)、53歳で初代彦太郎は死去した。

白木屋百貨店へ転業とその後
その後も白木屋は発展し、元禄10年(1697年)には東京日本橋本町通りの大呉服店17軒の一つに挙げられ、後に江戸の代表的な呉服問屋として江戸三大呉服店(三井越後屋、大丸屋/下村大丸、白木屋)の一つで、かつ日本の百貨店の先駆的存在であった。

明治初年(1868年頃)、洋服の普及を洞察し洋服店開店。婦人服を作り、鹿鳴館時代の貴婦人の洋服一手に扱った。明治23年、初議会の代議士の洋服の大部分が白木屋製だった言われる。明治36年(1903年)、日本初の洋式白木屋デパート完成。
以降、白木屋は百貨店業に変化していった。東京、大阪、神戸らにも多数店舗を設け、かつて日本を代表した百貨店(白木屋、三越、髙島屋、松坂屋、松屋)の一つである。

顧客本位の商法(家訓「商いは利益を取らず、正直に、良きものを売れ、末は繁盛」)は白木屋300年の誇るべき伝統であった。
しかし、白木屋は戦後の経営の沈滞から脱することが出来ず、1967年(昭和42年)、東急百貨店日本橋店への吸収により消滅した。
また、白木屋以来336年の歴史を誇ってきた東急百貨店日本橋店も売れ行き不振により1999年(平成11年)1月31日に閉店している。


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