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【滋賀・近江の先人第8回】ワコール創業者・塚本幸一(東近江市)

2019年01月28日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
塚本幸一」、1920年(大正9年)9月17日-1998年(平成10年)6月10日)はワコール創業者。滋賀県神崎郡五個荘町(現・東近江市)出身。
塚本二代目粂次郎(くめじろう)、母信(のぶ)の長男として宮城県仙台市花壇川前町(現在の青葉区花壇)で生れた。
塚本幸一の父、二代目塚本粂次郎は滋賀県神埼郡五個荘村川並(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の出身である。粂次郎というのは祖父の名前でもある。

塚本幸一は、呉服商から転じ、戦後、女性下着、特にブラジャーがヒットさせ、一代で世界のトップブランド「ワコール」を築き上げた近江商人である。

  

1946(昭和21)年6月15日、第二次世界大戦の過酷な戦闘から奇跡的に生還した青年・塚本幸一は、京都の自宅へ帰り着いたこの日から、婦人装身具の商売を始めました。これが、ワコールの創業日となっている。
創業当初の商号は『和江商事』。1949(昭和24)年に、創業者塚本幸一の「日本の女性を美しくしたい」という強い思いと、『ブラパット』が出会い、事業に決定的な飛躍をもたらし、世界を視野に入れた婦人洋装下着メーカーを実現する和江商事を設立した。
翌1950(昭和25)年に総勢わずか10人の会社だった。
日本女性のファッションが和装から洋装へと大きく転換してゆく時代。和江商事(1957年からワコール)は、それまで日本女性になじみがなかった婦人洋装下着を自らデザインし、自社工場での大量生産を実現し、下着ショウをはじめとする独自のPR活動を展開した。
欧米の先進的な下着メーカーに学び、そのすぐれたデザインや生産技術に磨きをかけ、京都で今日のワコールを築いた滋賀の先人である。

塚本幸一ヒストリー
1920年(大正9年)9月17日、仙台生まれ。
1927年(昭和2年)、仙台の片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)に入学。この学校は明治6年(1873年)創立の名門校である。細菌学者の志賀潔や西澤潤一・元東北大学総長もこの学校の出身で、文化勲章受章者を3人も輩出していることで知られる。
以後、7年間仙台にいて、一時父母の里滋賀に移る。近江八幡の宇津呂尋常高等小学校に転入。
1933年(昭和8年)、京都の翔鸞(しょうらん)尋常高等小学校を卒業、
1933年(昭和8年)13歳、滋賀県立八幡商業学校(現在の八幡商業高校)入学。当時の八幡商業は“近江商人の士官学校”と呼ばれた、全国で十指に入る商業学校であった。
幸一はここで商売の基本を学ぶことになる。京都からは遠いので、母、信の実家に下宿しながら通うことにした。後年、人に出身地を聞かれると“近江八幡”と答えるのを常とした彼の原点がここにあった。
1938年(昭和13年)18歳、八幡商業を卒業
1938年(昭和13年)3月、八幡商業を卒業後、京都に戻って父親の経営する嘉納屋商店を手伝いはじめる。呉服関係の商人として実績を上げ始めた矢先に、戦争によって夢を中断された。
1940年(昭和15年12月1日)20歳、京都伏見の連隊(歩兵第60連隊)に入隊することになり、中国戦線へ。
1941年(昭和16年)6月、中国蕪湖の連隊本部で幹部候補生教練隊に入る。
1945年(昭和20年)25歳、インパール作戦に従軍する。
1946年(昭和21年)26歳、5年半にわたる兵役で、中国からビルマ(現ミャンマー)へと苛烈な戦争を体験した。
「多くの人の犠牲のうえで、自分以外の何かの力によって“生かされている”のだ」という、悟りにも近い思いがありました。“生かされた生命”として、戦争で荒廃した日本を再建する一助となる……
その決意を胸に、25歳の青年・塚本幸一が京都の地から、新たな夢の実現に向けて歩み出した。この日、1946年6月15日を、ワコールは創業の日としている。
1949年(昭和24年) - 京都百貨見本市でブラジャーを出品。和江商事株式会社設立。代表取締役社長に就任。
1951年(昭和26年) - 京都の縫製業者、木原工場と和江商事を合併。専務に就任。
1952年(昭和27年) - 再び社長に就任。
1957年(昭和32年) - 社名をワコールへ変更。
1964年(昭和39年) - ワコール株式上場。
1983年(昭和58年) - 京都商工会議所会頭就任。
1985年(昭和60年) - 米国や中国など海外進出を拡大。
1987年(昭和62年) - ワコール社長を退任。
1990年(平成2年) - 勲二等瑞宝章受章
1997年(平成9年) - 日本会議初代会長
1998年(平成10年)- 没(78歳)

塚本本家の歴史やその背景
塚本家など近江商人が仙台で活躍したのは、仙台藩の御用商人だった近江日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)出身の豪商中井家(中井源左衛門)の存在が大きかった。中井新三郎が蔵元(藩御用商人筆頭)を務めるなど、維新前まで仙台藩の財政を支え続けた。
そのため仙台市の中心である芭蕉の辻には伴 伝兵衛など近江商人の出店が多く集まり、仙台藩御用菓子匠も近江出身の九重本舗 玉澤が命じられるなど、近江商人の進出が盛んな土地だった。仙台を代表する藤崎デパートも日野出身者の創業によると言われている。

塚本商店(初代塚本定右衛門を創業主とする本家)は、“太物商”と呼ばれる綿織物や麻織物を扱う商家であった。明治から大正、昭和にかけて東北六県を商圏におさめ、繊維の卸業者としてはこの地方の最大手になっていった。仙台市の商工業者の高額納税者に名を連ね、大正期の仙台の呉服太物組合の三人の幹事の一人として「塚本呉服店」の名が残っている。

塚本家歴代当主
塚本定右衛門 (初代)定悦:江戸時代後期の近江商人。浅右衛門教悦の三男。若くして行商を行い、甲州甲府、京に小間物店を出店し、屋号を『紅屋』と称した。塚本本家。
塚本定右衛門 (2代)定次:五個荘の呉服太物店を継いだ2代目塚本定右衛門は、明治22年に日本橋伊勢町を本店として塚本商社を設立し、現在のツカモトコーポレーションの基礎を築いた。

塚本幸一家の歴史
初代塚本粂次郎(幸一の祖父)
初代粂次郎は兄弟にあたる塚本定右衛門や粂右衛門は東京で活躍したが、その兄弟の一人で、1889年(明治22年)、仙台市大町(現在の青葉区大町)に分家として塚本商店の看板を掲げた。
初代粂次郎は仕事はできるが暴れん坊として知られていた。おとなしくなるようにと19歳のころ、近江八幡の西川家の「せい」と結婚した。
初代粂次郎は進取の気性を持ち、大陸に雄飛する夢を抱いて日露戦争の折、軍属を志願して朝鮮半島に渡った。ところが過労がもとで病気となり、1895年(明治28年)、32歳の若さで亡くなった。妻せいも暫くして亡くなった。

二代目粂次郎(幸一の父)
初代粂次郎が没した時、幸一の父となる二代目粂次郎はまだ5歳でしかなかった。最初は母方の近江八幡の西川家(ふとんの西川)で育てられたが、その後、初代粂次郎の兄であり、五個荘村字川並の塚本本家を継いでいた塚本仲右衛門(叔父、養父)に引き取られた。
二代目粂次郎は長じて、1907年(明治40年)、設立されたばかりの滋賀県立神崎商業学校(現在の県立八日市高校)に入学し、同校の第一期生だった。
神崎商業卒業と同時に本家塚本商店に入社。入社9年目の大正8年(1919年)に滋賀県蒲生郡宇津呂村(現在の近江八幡市)の岡田伝左衛門の三女「信」(幸一の母)と結婚する。
二代目粂次郎の妻「信」は四男五女の三女。日野高等女学校(現在の県立日野高校)では寄宿舎生活をし、良妻賢母の教育を受ける一方、テニスを楽しんだりもする活発な女性だったらしい。
信の実家である岡田家は13代続く大地主で、宇津呂村で代々村長を務める家柄。幸一が八幡商業に入学した年に同村は八幡町に編入されているが、岡田伝左衛門はのちにそこの町長を務めている。
信の男兄弟も優秀で、長男の一郎は京大経済を出て住友信託銀行に勤め、次男の正次は神戸商科大学(後の神戸大学)を出て、五個荘出身の豪商中江家の五男準五郎の養子となる。
中江家は朝鮮に本社を置く三中井百貨店を経営していたが、この百貨店は戦前、中国、朝鮮、満州に18もの店を戦前に持っていた一大百貨店だった。

二代目粂次郎は幸一と違って顔もふっくらし、恰幅が良かった。おしゃれで、西陣の着物に当時流行のフェルトの草履を履くというハイカラな格好をしていた。商売の腕も大したものだった。
しかし、二代目塚本粂次郎は商才に恵まれていたが、同時に彼の父・初代粂次郎同様、“一攫千金”を夢見るところがあり、本家の従兄弟たちと一緒に三品(さんぴん)=綿花、綿糸、綿布のこと、仙台の先物取引所に出入りし始めた。一時は大きく儲けたが、だが、そうそううまくいくものではない。
幸一の生まれた1920年(大正9年)は、第一次世界大戦後の戦後不況の時期にあたり、相場は急落し、一転して大きな損失を被った。粂次郎はその後も相場を続けていたが、ついに再び大損害を出してしまう。多額の使い込みをしていることが本家にばれるに及んで、一時、塚本商店から追い出される。
二代目粂次郎は、幼い時に両親を亡くし塚本本家に引き取られたが、もともと彼の父初代粂次郎の家には大きな財産があった。長じて後、本家の蔵の中に初代粂次郎の屋号が入った道具類を見つけた時、自分の財産を取られてしまっていたことを知る。養育費だと言ってしまえばそれまでだが、この時の恨みにも似た複雑な感情が、彼の心をすさませていた。

1927年(昭和2年)、幸一の母が結核になり療養のため別居する中、そんな折も折、粂次郎が再び店の金に手を出して相場につぎこみ、大きな損害を出してしまう。伯父であり養父でもある本家の4代目塚本仲右衛門の跡を継いでいた息子から、「仙台を出ていけ!」と言われるに及んで荷物をまとめて塚本商店を飛び出すきっかけとなったのである。

二代目粂次郎一家はひとまず信の実家である近江八幡の岡田伝左衛門邸に身を寄せることにした。一方、幸一も、近江八幡の宇津呂尋常高等小学校に転入した。
粂次郎は単身名古屋に出向き、つてを頼ってなれない文房具の商いをするなど将来の生きるべき道を模索する日々が続いた。
名古屋で文房具の商いをはじめていた粂次郎は思うようにいかず、再び慣れた呉服の卸の仕事に戻った。そうなると、東北地方に商圏のある本家の地盤が勝手知ったるエリアだ。元の商売なら彼の商才は冴えた。知人や縁戚の援助も得て、見る間に商売を拡大していった。

幸一が小学校4年生の時、粂次郎は仕入れ先の集まっている京都に仙台から家族を呼び寄せ、一家は京都北野天満宮近くの平野鳥居前町に居を構えた。粂次郎はここに「嘉納屋商店」という看板を掲げた。


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