ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・6

2013-01-31 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward
   12月20日(火曜日)
逮捕されて約2ヶ月が過ぎようとしている。毎日が退屈になってきた、ビリと少しのスタッフだけだから。スリランカ人との関係もちょっと鼻に付きだした、毎日同じ事のくり返しだ。奴らの気持ちも同じだろうが仕方のないことだ。ワードが替わる噂が出ている。第2ワードは外国人用なのだがインド人収監者が増え過ぎていた。ゲートを入ると広い中庭を囲むようにして凹形にバラックが建っている。実際はそれぞれ独立した建物だ。左側はAバラックでフィリップス、キシトーと数名の外国人の他は全てインド人が収監されていた。その数約50名。中庭をはさんで右側がCバラック、内監房の90%約40名は外国人だが残りと外監房に収監されているインド人は約20名。Bバラックは本来独房なのだが各房3名が入っていた。真ん中の通路を挟んで左右各5房があり収監者は全て外国人だ。ここに収監されている者はBクラスと呼ばれ既決と中長期刑が多い。第2収監区の外国人収監者数は全体で70~80名くらいではないだろうか。
 第1収監区は女性専用ワードだがそこもインド人女性犯罪者が増加しているらしい。インド人女性が刑務所に収監される犯罪とはどんな種類なのかぼくには分からない。第2ワードのぼく達を他へ移動させ第1~第2ワードを女性専用にするという噂が流れている。インドのことだからどうなるのか分らない。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・5

2013-01-30 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward
 長い間、危ない橋を気付かずに渡っていた。今まで何とかそれで済んできたがこれからはそうはいかないだろう。自分の人生も残り少ない2~3年、刑務所内で過すことは出来ない。かといってスタッフを止める事は出来ない、だとしたらまず安全を第一に考えていかなくては。今回一年ぐらい我慢すれば何とか100万円ぐらいの出費で出所出来そうだ。その後カトマンズに戻って、ちびちびスタッフをやって無理のない生活をしよう。
 あるアフリカンが200ルピー貸してくれた、何故なのか。フィリップスは冬用の着る物から弁護士の件やスタッフのこと等助けてくれている、それらはすべて何らかの見返りを当然考えてのことだ、彼らに親切心などない。それはそれでいい、フィリップスの裁判と弁護費用は全部で1000ドルぐらいだろう。奴が今ぼくに用意してくれているスタッフは刑務所内外のアフリカン・ドラック・シンジケートから流されている。奴から受取ったスタッフの代金はいずれ大使館に日本から送金、保管されるぼくのお金で支払う。麻薬売買で刑務所に入りその客から出所費用を稼ぎ出す、支払い能力のある客は大事にされる、金づるは麻薬だけなのだから。合理的な考えだ。
 日本のことは如何なっているのか情報が欲しい。どうしても早く大使館員と会いたい。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・4

2013-01-28 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward
アシアナやCバラックではありません まじめにヨガを学んでいたアシュラムのメジテーションホールです

施錠後、房内では狭くて小さいが自由があった。入口と奥に白黒だが小型テレビがありいつでも見ることができる、消灯はない。夕食後チェスなどゲームをする者、テレビを見る者、ビリを吸いながらノートを書いているぼくの様な者もいる。クリスマス前、恋人や家族にカードを書いている人もいた。
 食事は毎日同じだ。昼はサブジが付いてダルとライスかチャパティ、夜の副食はダルだけだ。ミルクもヨーグルトもない。貧しい食事だがそれでも毎日、十分なライス、トースト、アフリカ人にはアフリカ・フード、アタが配給されていた。少し高いが10ルピー出せばビリを1本吸うことが出来る。もっと高いがクーポンで70ルピー、現金だと50ルピーを払えば1回分としては十分な量のスタッフを買う事が出来る。
 アシアナからここに移って来て約10日、量は少ないが毎日スタッフを吸い続けてしまった。ほんの微々たる量だが今では吸わないとシックになる。刑務所内で情けない話しだ。一銭のお金もないそんなぼくをフィリップスが助けてくれ毎日2パケとビリ3本を持って来てくれる。すでに支払いは1500ルピーぐらいになっているだろう。ここでは吸う事ぐらいしか楽しみはない。遅い時間の流れに時々抑えきれない気持ちが爆発しそうになる。ストレスからくるものだろう特に若いアフリカンの収監者にとって性欲の処理は難しい問題であったに違いない。長い1日がくり返される。それを正常な意識で耐え続ける苦痛と本来あるであろう性欲をスタッフは解放してくれる。当然リスクを伴っているが1度入り込んだら抜けられない。
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ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・14

2013-01-26 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 ぼくの禁断症状も少しずつだが日を追って回復に向かっていた。食事もかなり食べられるようになりぼくの食事を狙っていたサンジの取り分が少なくなった。この時期、監督官マダムは患者を次々と退所させ一般監房に送り出していた。虱に悩まされていたぼくはもう少し清潔そうなベッドに替わりたいと思っていた、日当たりの悪いトイレ側のベッドだったから。それとインド人の盗みに閉口していた。シーク教徒のハルジュダムが横のベッドが空いるので移って来いと親切に誘ってくれた。彼は古参で何かとぼくを助けてくれた。
 アシアナには小部屋はなく大部屋だけで常時約40名の患者がいた。症状の回復具合にもよるが毎日2~3名の退所者がいた、と同時に入って来る者もいた。彼らはドラッグの常習者であると同時に盗みのプロでもあった。日本人のぼくはスキだらけなのだろう狙われていた。大切なサンダルが盗まれた。退所者が盗み履いて出て行ったのだろう、病棟内を探したが見つからなかった。早朝の地面は冷い、ぼくは裸足で過ごすしかなかった。トイレに行くときだけサンジのサンダルを借りた。事務所に預けさせられていた貴重な二ナの差し入れのお金でサンダルを買おうと思った、刑務所内に売店があるのは聞き知っていたから。ぼくはゲートの外には出られない、一人の模範囚にお金を渡し頼んだ。2~3日が過ぎても奴は買ってこない、品切れとかサイズがないと言うだけで。ぼくは頭にきて事務官に報告した。奴は渋々サンダルを買ってきたがぼくの踵の半分が出てしまうような小さなサンダルだった。本当にサイズがなかったのかもしれない、それでもぼくは自分のサンダルをやっと手に入れた。そんなぼくをハルジュダムは見ていたのだろう、彼には時々家族の面会がありそんな日はバナナやりんごを
「食べろよ」
と言ってぼくに分けてくれた。
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ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・13

2013-01-24 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ

 2回目の二ナの面会は女性らしく差し入れは下着や衣類、洗面用具、食べ物等と精一杯の現金インド・ルピーだった。
「トミー第一刑務所へ戻ってもアフリカンを信用しないで、スリランカ人グループにトミーの受け入れの手筈はとってあるわ」
とアドバイスをしてくれた。
 12時の施錠後二ナから差し入れられた衣類や食べ物を整理していた時、1人のネパール人が近寄って来た。
「少し着る物を分けてくれないか」
彼は半袖シャツ一枚しか持っていなかった。デリー刑務所では収監服のような衣服の支給はない。ぼくも逮捕されたときに着ていた長袖のシャツと薄いインド綿のズボンしか持っていなかった。アシアナに収容されて1週間は過ぎただろう下着の洗濯も身体を洗う道具もなかった。今日やっと下着や冬用のジャンバー等が手に入った。人に分け与える程の余裕はない、断った。
 ネパール人の後姿は淋しそうに見えた。誰も自分のことで精一杯なのだ。ある寒い朝、毛布で身体を覆い外へ出て来たネパール人は模範囚からそれを剥ぎ取られた。毛布をそのように使う事は禁止されていた。デリーに出稼ぎにでも来ていたのだろうか、家族や知人の面会もない、刑務所での生活は彼にとって厳しいものであったに違いない。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・3

2013-01-23 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward
 Bバラックのアフリカンの話しではもう少しぼくも長くなりそうな気もする。それでも1年で出所出来ればパッピーと言わなくてはなるまい。ここにいる収監者で長いのは6年、7年、10年の刑の満期を待っている人間もいる。
 AとCバラックは幅10m長さ20mぐらいの大部屋だ。真中の通路を挟んで両サイドに10台のベッドが並んでいる。そこに60~70人の収監者が放り込まれていた。ベッドを確保しているのは古参アフリカン、ベッドの間、房内の通路に寝床を持っているのは欧米日ぐらいだ。インドでも12月~1月の夜は冷える、鉄格子だけの外房で毛布に包まり冷たい風を凌いでいるのはインド人だった。
 18時、施錠されるとぼく達は夕食の準備を始める。毎日17時頃には配給されているのだが監房が施錠される前、誰も入りたがらない。ワードの塀に沿った小道を運動を兼ねて散歩したり施錠後、必要なビリやスタッフの仕入れに急がしかったりする。施錠を知らせる鉄格子を打ち鳴らすガン・ガンと金属音がすると各A,B,Cバラックの入口に収監者達が集まって来る。集まっては来るが中々入ろうとしない、毎日の事である。刑務官が輪を絞りこんで入れようとすると逃げる。ちょうど夕方、鶏を鶏小屋に入れようとしている風景に似ている。鶏は入りたくないのだが最後には入れられてしまう、そんな感じだ。全員入れられてロックの金属音がした。
 ぼくが身を寄せているのはスリランカ人グループ、リーダーはディクソン他はショッカン、サンダー、セガ、それにポーランド人のダニエルだ。アミーゴは別のベッドの間に寝床を持っており食事やティーの時にやって来る。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・2

2013-01-21 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward
 ノートとボールペンの支給について申請書を出していたが今日ジャクソンが持って来てくれた。アシアナからここ第2監房区に来て10日程が経っていた。今は健康になり体重も少し増えたと思う。しかし「塀の中の懲りない」人々の1人となったぼくはここでもう毎日ビリやスタッフを吸っている。アシアナから移って来たその夜ショッカンが用意していたスタッフを何の躊躇いもなくぼくは吸った。約7週間振りのスタッフは身体の細胞に満ち快感に包まれた。
 危ない橋を渡っている。昨日、トイレで粉を入れているのをチクられ危なく捕まるところだった。塀の中の刑の加算は致命的だ。24時間ロックの懲戒房が待っている。考えが軽過ぎる。ここを出るまでは慎重な行動をしなければならない、ここを出る事が何より最重要課題なのだから。彼等の話しを信じれば後3~4カ月で出られる。来年インドの猛暑が始まる前にカトマンズだ、そうなりたい。ネパールの友人達も待っているだろう。カトマンズで店を始める話しも学校も全てそのままストップしてしまっている。5月に戻る事が出来れば来年の学校の手続きも出来る。また1年生からやり直しになるがしかたない。
 夕方6時、鉄格子の施錠後ハプニングがあった。1人のイラン人が釈放になった。長い刑期だったのかもしれない、かなりの者が彼を祝福して肩を抱き頬にキスし喜びを現していた。1人ハッピーな人間がいてその他大勢の収監者にとって心穏やかではない。スリランカ人グループの所へ毎日食事に来ていたアミーゴ、いつもは朗らかなスペイン人だ。イラン人の出所を祝って抱擁を交わした後、急に落ち込んでしまった。スペイン人42歳のアミーゴ、クリスマスを前に子供や妻それに祖国のクリスマスの風景などが浮かんで来たのだろうか、涙を見せまいとバラックの奥トイレへ歩く彼の背中が震えていた。彼も収監されて1年は過ぎていた。ここから出たい気持ちを抑え切れなかったのだろう、それはぼくも同じだ。
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ジャンキーの旅          No2 Ward・・・・・1

2013-01-20 | 3章 デリー中央第一刑務所No2Ward
  デリー中央第一刑務所第二収監区
 
  1994年12月19日(月曜日)
約7週間、デリー中央第4刑務所アシアナでスタッフ中毒の治療を受け90%ぐらい回復したぼくはデリー中央第1刑務所第2収監区Cバラックに移送された。驚いた事にワード・ゲートの中に入ったぼくを迎えてくれたのは今回ぼくの逮捕に重要な役割を果したであろうと確信していたスリランカ人ショッカンだった。奴もスタッフ所持でここに収監されていた。フィリップス、キシトーに会った。5ヶ月振りの再会だがまさかこんな場所で会うとは思わなかった。奴は自分の置かれている状況に全く無頓着でぼくの手を握り
「トミーやっと来たか」
と言って手を叩いて大声で笑いやがった。愉快な奴だ、深刻に考えていたぼくは拍子抜けした。メインバザールで良く見た顔が数名いた。
 デリー警察はドラッグの取締りを強化しジャンキー、プッシャーの一斉検挙を行っていた。デリーは非常に危険な都市に変っていた。世界中で安心して吸える場所は次々と消えていった。カトマンズは吸えるが良いドラックがない。自分だけは安全だと考えていたがそんな甘い状況ではない。ポリの目はいつもどこからでもターゲットを捜している。インド人、タイ人それにジャンキーも幾らかのお金と自己保身の為に密告者になる。今は少しでも早くここを出ることだ。一緒にいるスリランカ人やフィリップスも
「お前のケースはドント・ウォーリ早く出られるよ」
と言ってくれる。大使館は
「あなたのケースはミニマムで十年の刑に相当します」と言う。
その違いが今はまだはっきりと理解できない。彼等は来年の4月頃迄には出所可能だと言った。
「2ラークも払えばノー・プロブレム」
そんな事が本当に出来るのか、信じられない。約6ケ月ぐらいで出所出来るなんて夢のような話しではないか。一度は首を吊ろうしたがインド人に見つかり未遂に終った。10年の刑とヘビーなシックはぼくから生きる望みの全てを奪っていた。だが今は違う少しだが生きてここを出る望みを持ち始めた。儚い夢かも知れないがとにかく早く出る事に全力を尽くす。早く、早く出て自由になりたい。鉄格子に囲まれ禁止された規則が沢山ある生活が毎日続いている。不自由も慣れてしまえばそれ程感じなくなる。今日まで色んな人々、インド人、スリランカ人それにアフリカ人に助けられ毎日退屈だが何とか生きている。
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ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・12

2013-01-17 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ
 

 アシアナに収容されて数日が過ぎた。朝のティーが終わって前庭の掃除を手伝っていると事務官からメイン・ゲートに行けと指示された。アシアナのゲートの中から外を見たことはあるが出るのは初めてだ。ゲート前の堀には橋が架けてあり下は小さな水の流れがあった。門を出ると左右に延びる一本道、どの方向がメイン・ゲートなのか分からず戻ろうとすると刑務官が手振りで道を教えてくれた。どうしてメイン・ゲートに行かなければならないのか不安があった。警察に逮捕され刑務所に入った経験は今までない、パールガンジ警察署での取調べは2日間だけでその夜デリー刑務所に護送された。本格的な厳しい取調べはここで行われるのだろうか。そんなことを考えながら歩いて行くと第4刑務所のセンター前広場に出た。大きな鉄扉の左端下に潜り戸がありその前に立ち扉を叩いた。覗き窓が開く
「ジャパニーだ」と言うと直ぐに潜り戸が開けられた。
中に入ったぼくに刑務官は一つの通路を指して「チョロ」と言った。
通路を進むと別の刑務官が中に入れと顎で合図をした。薄暗い部屋の中に入ると前面に金網が見える、注意深く見るとそれは床から天井まで鉄格子に張り付けてあった。警戒しながら部屋全体の状況を判断しょうとしたとき左の方に人の気配を感じた。小さな声で
「トミー」とぼくの名を呼ぶ、初めて聞く声ではない聞き慣れた声だ。声の方に目を向けた。声は少しずつ大きくなり
「トミー、トミー、トミー」
とぼくの名を呼びながら近づいて来るのが分かった。
「二ナ」
そう言ったきりぼくは言葉を失った。二ナの面会だった。1ヤードを隔てた二重の金網の向こう、ニナは身体をあずけた金網を両手で握っていた。涙が頬に流れ
「何故、どうしてなのトミー」
「どうして、どうして、分からないわ」
「二ナ、ぼくの事は心配するな。二度とここへ来てはいけない。君の事は何も喋ってはいない」
二ナにとってぼくとの面会は非常に危険な行為である。ジャンキー・ニナ、ぼくの大切なガールフレンド。
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ジャンキーの旅          アシアナ(医療監房)・・・・・11

2013-01-16 | 2章 デリー中央第4刑務所アシアナ



「寝ろ」
と指示を受けていたから眠ろうと努力をするが周囲のざわめきは終わりそうにない。消灯になれば静かになるだろうと思っていたが決まりがあるのだろう2~3ヵ所消しただけで全体の明るさに変化はなかった。皆、眠れないのだろうあっちこっちで話し声が続いていた。
 何故、扇風機を止めないのだろうか、そう思いながら毛布に包まって寝ていたぼくは何やらもぞもぞと動くものを感じた。蚤か、その程度の虫だろう大した事はないと思ったが翌日、英語が分かりそうなインド人に聞いてみた
「ライスだ」と言う、虱か。
蚊、蚤、南京虫、咬みつく蟻、サソリそれに蛭、嫌な虫は一応体験済みだ。虱は初めてだがそれほどの事はないだろうと思っていた。だがこの日から毎夜、虱の攻撃に晒された。身体中赤い斑点だらけになり掻き破った皮膚から汁が出だした。日中、日向に座ってインド人がズボンを裏返し縫い目の部分を爪で潰していた。近寄って見ると白っぽい卵が隙間なく産み付けられていた。それは想像を超えている、あり得ない現実に鳥肌が立ち吐きそうになった。
 ぼくは薬務員に事情を説明し患部を見せ改善と薬を支給してくれるようお願いしたが何もなされなかった。翌日ぼくは事務室に呼ばれ
「お前は外国人だから特別だ」
そんな意味の言葉の後、処方された薬を渡された。ドラッグに溺れアシアナに収監されている多くのインド人は低カーストの出身者だ。一人だけ肌の色がそんなに黒くないインド人がいた。首の皮膚まで症状がでているのを見てぼくは
「薬を貰ってこいよ」
と言ったが奴は首を横に振った。後で奴を見ると何処で手に入れたのか消毒液のようなものを塗っていた。
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