ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・49

2012-09-27 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
 夕食と投薬が終って、いつものように日記を書いているとシスターが病室に入って来た。昨日に比べるとシスターの表情はちよっと硬い
「クリスマス・パーティーを始めるので来て下さい」
気が進まない、ぼくが愚図っていると
「ドクターがお呼びです」
そう言って待っている。一緒に連れて来るようにドクターから言われているのだろう、ぼくは渋々ベットから下りシスターの後ろについて行った。事務室を通り過ぎた別の部屋の前で、どうぞとシスターがぼくに合図をする。ノックをしてドアーを開けると部屋の中は色紙を使ってクリスマスの飾り付けがなされていた。
「ハッピー・クリスマス」
ドクターと奥様そしてシスター達が一斉に立ち上がってぼくを迎えてくてた。
「ハッピー・クリスマス」
そう言ったが、ぼくは照れてしまった。奥様に椅子を勧められ逃げて帰るわけにはいかない、観念してお付き合いをすることにした。テーブルの上にはショートケーキやビスケット等の食べ物に、コーヒーとミネラルウオーターが置かれていた。いつも煩いラウラシカ等3人の使用人は落ち着きがなく入口に立っていたが、食べ物を貰うと早速逃げ出した。若いシスター達も恥かしがってケーキに手を出さず奥に集まっている。ドクターが立ち上がると皆も立ち、祈りが始まった。シスター達の賛美歌が終わると雰囲気は少し和らいだ。奥様は東京に来られた時の様子をぼくに話される、ドクターはぼくの裁判の事を心配して状況を聞かれた。本当の事は言えない、後1ヶ月くらいで裁判は終るだろうと、ぼくはドクターに嘘をついてしまった。ぼくが逃亡した新聞告示の記事をドクターは読まれるかもしれない。ぼくは大切なインドを裏切る、身から出た錆だ。1週間後には出発する、身体は動いてくれるだろうか。
デリー、クリスマスの夜。   
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・48

2012-09-24 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
   12月25日(月)(入院して22日)

 明日、Bさんが来る。退院の日が決まるだろう、27か28日の2日しか残されていない。ネパール行きをBさんに話すべきか、そればかり1日中考えていた。
 アルコール中毒だった父の血を受け継いだのか、ぼくはスタッフ中毒で薬物が止められない。金だらいに激しく吐血した父の濃い小豆色の液体をぼくは見た。もう吐き出す力はなかったのか、胃壁に開いた穴から出血した血液は腹膜に流れ出していた。最後のアルコールを口に含んだ時、父は何を考えていたのだろうか。スタッフでブラック・アウトしたぼくは父と語った
「親父さん、あんたは偉いよ。アルコールに飲まれたのではない、飲み尽くしたんだ」
父は黙ってぼくを見ていた。
 裁判を終らせてネパールへ行きたい、だがいつ終るか分からない。その間にまたスタッフをやりだすに違いない。奴との関係を断ち入院している今でさえ、抜け切ってしまえば吸いたいと思っている。体重も50kgに回復してきた、スタッフを断った今しか帰国するチャンスはない。退院してもすぐには手を出さない、2週間ぐらいなら何とか我慢できるだろう。その間にスタッフが吸えない日本へ帰ろう、奴への依存症から逃れるにはそれしか方法はない。国境で再逮捕されデリー中央刑務所で薬物死するならそれでも良い。国境を無事通過し日本へ帰ることが出来るなら、それも良い。
 カトマンズで土産物店をやりながら学校へ通う、ネパールの子供を養子として育て、平穏なネパールの生活を考えて出国した5年前、何もかも狂ってしまった。人生とはそうしたものなのか、ぼくには分からない。明日、ぼくは本音でBさんに話そう、話すだけで良い。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・47

2012-09-21 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録


 夕方、シスターが笑顔でぼくの病室に入ってきた。何かあったのか、いつもとちよっと違う雰囲気が彼女の周りに漂っている。彼女はぼくの目を見ていたが悪戯っ子が我慢できないといった感じで
「ハッピー、パッピークリスマス」
と楽しそうに弾んだ声で笑った。
「パッピークリスマス」
彼女につられてぼくもつい、そう言ってしまった。ぼくはあまりハッピーな状態ではないが、彼女のからっとした明るさがそう言わせた。彼女はクリスマスの飾り付けをぼくに見せたかったのだろう、どうしても見に来てくれと言ってぼくの傍を離れない。インドはヒンズー教の国だからクリスマスに関心を示さない、この病院で誘えるのはぼくしかいない。
外には点滅する照明で飾られたクリスマス・ツリーがあった。シスター達がそれを囲んで楽しそうだ
「綺麗でしょう」
「うん、とても綺麗だ」
東京で見た飾りとはあまりにも細やかな灯りであるが、ぼくには彼女達の清らかな心の灯火のように見えた。事務室には手作りの色紙で飾らていた。1995年のクリスマス・イブは、彼女達の思い出に大切に記憶されていくのだろう。ハッピー・クリスマス。

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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・46

2012-09-19 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録
   12月24日(日)(入院して21日)
 
 下痢と歯痛が続いていた、昨夕ドクターに症状を話していたので薬が追加され体調は良くなっている。病院に体重計があったので計ってみた、50㎏ちょうど。入院する前と比べて2㎏増えて順調に回復している。スタッフによって低下していた消化器系が活発に動いている証拠だ。保釈された夜、鏡に写った自分の身体を見て情けなかった。薬物は恐い。
 偽名を使うというマリーの意見だが、どう考えても無理だ。日本ではすべての情報がコンピューターで管理されている。アフリカでは可能だろうが、偽名でパスポートを作るなんてとんでもない話だ。彼女は日本の現状を知らない。
 マリーは度々、Bさんが暗にぼくのネパール行きを進めているような言い方をするがどういう事なのか。Bさんは直接ぼくに逃げろとは言えない、マリーを通してぼくに伝えているようにも思える。単なる彼女の作り話なのだろうか。ネパールへ行けばパスポートでもトラベル・ドキュメントでも大使館は交付する事が出来る。2度も問題を起こし、これからも厄介な問題を起こす可能性のあるぼくに、どういう形であろうとインドから消えて貰いたいと思っているのかもしれない。
 1月2日に出発すれば15日までは100パーセント安全だと思っている。ぼくが1度、出頭をキャンセルした時、その週の木曜日に裁判所に行ったがまだ動きはなかった。
 問題はそれ以前にある、無事に印・ネの国境が抜けられるかだ。国境で捕まったら全てはそれで終わりだ。100パーセント成功するという保障はどこにもない。何度もバックパックを背負って通ったスノウリの道はぼくを通してくれるだろうか、どうなるのか誰にも分からない。ぼくは1度インドのイミグレの前を通り過ぎた事がある、見逃してしまいそうな小さな事務所だ。そのままインドに入って行けば密入国になる。パスポートとビザを持っていたぼくは引き返し事務所で入国のスタンプを押して貰った。
素通りするぼくに気づかなかったのか、故意に通したのか、ノープロブレムのインドでは何が起こるか分からない。
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ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・45

2012-09-16 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録

南インド、ミナークシ寺院 奥の院ダンシング・シバ

    12月23日(土)(入院して20日)
 
 夕方になってマリーが来た。ばくは昨日考えたことを詳しく彼女に説明した。裁判所への出頭日は26日と1月2日だ。退院後、直ぐに出発するより準備もあるので1週間後の方が良いだろうと意見は一致した。同行してくれるネパール人はフィリップスに頼んで捜してもらう、彼への連絡はマリーがする。退院後、直ぐネパール人に会えるよう手配を頼んだ、心当たりがあるらしい。
「カトマンズでパスポートを作る時、偽名を使った方がいいよ」
彼女のアドバイスだ。以前、ネパールへ逃げた奴が同名でパスポートを作り、カトマンズでネパール警察に逮捕されたらしい。捕まった奴はデリー中央刑務所へ護送された。高い金を払って保釈され無事ネパールに着いて、刑務所へ逆戻りしたのでは堪ったものではない。ネパールはインドの一部と考えておいた方が良い。
 1月4日、カトマンズに着いたらスンダルに会い、直ぐ警察署へ行き盗難証明書を発行してもらう。デリー裁判所による逃亡者の新聞告示はたぶん2週間以後になると思われる。告示があった時には別名でパスポートを作りビザを取っておけば心配はない。しかしあまり長くカトマンズにいるのは危ないかもしれない。最近、2ヶ月の間に3名がネパールへ逃亡している。以前の国境は甘かったが国境警備は厳しくなっているだろう、予測できない問題がありそうだ。
 マリーは偽名を使えというが、そんな事が簡単に出来るのだろうか。名前や生年月日と本籍の確認が出来なければ大使館はパスポートを交付しないだろう。彼女の話ではネパール・ジャッジ(とマリーは言った、イミグレの事務官の事か)がどこでビザを収得したか、どこから入国したかを確認するらしい。ビザの発行記録と入国記録を調べるのか、これはまずい。ビザは外国語学校の手続きのときカトマンズで収得しているが有効期限は切れている。入国記録だが密入国した場合は入国記録は残らない。パスポートが手に入ってもビザがなければ出国は出来ない。次々と難しい問題が出てくる。いろいろ考えていると心臓がどきどきしてきた。今から、そんな気の弱いことでは何も出来ないぞ。何だか今夜も眠れそうにない、上手くいくと良いのだが。

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ジャンキーの旅             逮捕・・・10

2012-09-14 | 1部1章 逮捕
それをやろうとするとガクガクと震えが来た。手も、顎から頭も禁断者特有の震えだ。紙の一部を破り細いパイプを作ろうと焦る。垂れた鼻水を袖で拭い、粉を入れようとしたが鼻が詰まって上手く吸えない、何度もやった。パイプの元が鼻水に濡れふやける。その部分を破りまた吸った。息苦しくなって吐いた息で粉の一部を吹き散らかしてしまった。ずるずると粉の付いた鼻水を飲み込む。粉が鼻の粘膜を通して脳に作用していったのだろう、息が通るようになった。注意深く粉を吸い込んだ。吹き散った少量の粉は舐めた指の唾液に付け舐めた。数分後、全身にエネルギーが注入され不安が薄らいだ。ほっと落着きを感じ始めた時、奴がついて来いと言ってぼくを別室へ連れていった。ドアーを開けたテーブルの向こう側に2人の日本人がソファーに座っていた。向かい合うようにしてぼくがソファーに座ると私服はドアーを閉め外へ出て行った。どういう風に話が始まったのか、その人たちはどういう資格を持って面会に来たのか、最初ぼくには理解出来なかった。彼らとどのくらいの時間、何について話したのか心に残ったものはなかった。ただ次の言葉だけは今日に至るも忘れる事が出来ない。
「あなたのケースはミニマムで10年の刑に相当します。10年の刑ですがお金があれば良い弁護士に弁護を依頼する事が出来ます。そうすれば少しは刑が短くなるかもしれません。希望を持ってがんばって下さい」 
彼らは大使館員であることをぼくに告げた筈だ。面会中、私服が呼ばれぼくの黒い手帳を持って来た。必要な内容を日本人が手帳に書き写している場面の記憶が残っている。 
1日目の取調べが終わり1階の薄暗い留置場に戻された。昼も夜も食事や飲み物の支給はなかった。空腹感もなかった。2人のインド人がぼくが作っていた寝場所で横になり小声で話をしていたがぼくを見て一瞬黙り込んだ。黒い塊から毛布を引き摺り出し乱暴に寝床を作った。重い疲労感に蹲るように横になり、私服がくれた粉の余韻にすがり付いていた。明日の朝、再び始まる禁断の苦しみへの恐怖感はあった、だが今夜は少し眠れるだろう。
 激しい禁断症状に苦しみながらぼくは2日目の取調べを受けた。フロアーに座らされ壁と長椅子にぐったりと凭れ掛かり遠くなるような時間に耐えていた。許可なしに自分の意志で動く事は出来ない。そんなぼくを奴らは弄んだ。ぼくのバックパックからウオークマン、スピーカー、テープ、時計などを取り出した。これは何だどうして使うのか、奴らはにやにや笑いながら説明をぼくに強要した。小型バックからリング、ストーン、ネックレスなどを我先に争って奴らは取り合った。どうでも良かった。1人にして欲しかった。
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ジャンキーの旅             逮捕・・・9

2012-09-10 | 1部1章 逮捕
何時頃なのか時間の感覚はない。ただ廊下を動く気配が多くなった。朝になり署内の勤務が始まっているのかもしれない。1人になり色んな事を考えていた。今日のフライトタイムは10時だ、乗れるのだろうか、もし乗れたとしても粉なしでカトマンズに戻ってどうする、やっと手に入れた120gの粉を没収されて。天井の一点を見続けながらどうしても、どんな方法を使ってでもここから逃げ出さなければならない。それ以外生きている理由は何もない。そんな妄想に耽っていた時、昨夜の私服がやって来た。様子を見に来たのだろうか、少し経ってから鉄格子越しの廊下にティーとトーストが置かれた。
「ジャパニー、ティー」
ちらっと見ただけで手が出ない。禁断の始まりで全く食欲はない。暫らくして留置場の外に出され二階の取調べ室へ連れて行かれた。机の横のフロアーに座らされ壁に凭れ掛かっていた。粉がない以上どうなろうと良い事など一つもない。私服が来て取調べが始まった。
どこで、誰からスタッフを買ったのか。目的は。二ナ、フレッドの名前、隠れ家を話すことは出来ない。私服の調べの中心は新たなプッシャーの特定と逮捕にあった。
「誰から、売った奴は誰だ」
リンという女性からコンタクトを取ってきた。バザールの裏路地をぐるぐる回らされたので場所の特定は出来ない。
「目的は?」
「パーソナル・ユースだ」
身体がだるく、もうどうでも良かった。横の長椅子に延ばした右腕に頭を乗せ凭れ掛かっていた。とろんとした目の先でぼくの指から指輪が抜かれていたが抵抗する気力もなかった。テーブルの上の書面にサインをしろと言う。何枚にサインをしたのか何の書類なのか、確かめようにも視線が定まらず身体は動かなかった。   
ドアにノックがあり私服は出て行った。戻って来ると私服は自分の執務室にぼくを連れて行き、中にいた警察官を追い出しドアに鍵を掛けた。フロアーに座り込み見るともなく奴の動きを目が追っていた。鍵の掛かった机の引き出しから紙包みを取り出し机の上に置き、同時に一枚の白い紙もそこに置いた。その包みは昨夜ぼくから押収したスタッフだった。何をしようというのか奴は。スニッフ一回分としては多い量のスタッフが白い紙の上に置かれた。
「早くやれ」
粉への欲望がそう聞き取らせた。自分の耳を疑った。ぎょろと眼をむいて奴の顔を見た。もう一度
「早くやれ」
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ジャンキーの旅             逮捕・・・8

2012-09-07 | 1部1章 逮捕
スタッフの隠し場所をホテルのボーイが知っている訳はない。暫らくして警察官がぼくを呼びに来て私服の執務室に入れられた。私服はスタッフの計量を行っていた、120g、20gぐらいフレッドに抜かれていた。犯罪者は取調官と同じ高さの椅子に座ることを許されない、その事を初めて知らされ、それは保釈されるまで続いた。フロアーに直接座らされ真夜中まで荷物の調べが続いた。一応の調べが終わったのだろうか警察官に連れられ1階の鉄格子の留置場に入れられた。廊下の裸電球の光が暗い留置場内にぼんやりと差していた。後ろで鉄格子の扉が閉じられ鍵を掛ける金属音がした。暗い留置場内に目が慣れるまでその位置に立っていた。人の気配はない。10畳程の広さ、右奥がむき出しの土間に穴を掘り便器を置いたトイレ、左奥に無造作に積み上げられた毛布の黒い塊り、左側には鉄格子で区切られた小監房があった。毛布を引き摺って来て寝床を作り横になった。これから如何なるのか何も分らなかった。目を瞑っても眠ることなど出来はしない、だが他にする事もなかった。この苦境から抜け出す手立てはないのか。このまま何時間か過ぎると如何なるのかそれだけは分かっていた。禁断が始まるのだ。涙、鼻水、下痢、身体の痛み、不眠、頭の中を切り裂くように電気が走り出す。両膝を抱いた腕に顔を伏せ、ただ時間が過ぎていくのを待つしかない。過ぎ去っていく時間、日数分だけゆっくりと身体の中から痛みを引き摺りながら薬物が抜け出していく。1時間の長さを24時間耐え続けなければならない。眠りはその時間だけでも苦痛から解放してくれるのだがスタッフの禁断はそれを許さない。   
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ジャンキーの旅             逮捕・・・7

2012-09-05 | 1部1章 逮捕

1日の内、ジャンキー達が動き出す夕方の時間帯、プッシャー達が網を張っている筈なのだがマリー、キシトー、フィリップス達には会えない。3月、カトマンズのビソバーサ・キャンパスの入学手続きは全て終った。7月始業までの約3カ月間、ネパール人のスンダルを連れ北インドへ旅をした。避暑地ムスーリ、聖地リシケシやハリドワールを旅して5月末、熱風の吹くメインバザールへ戻って来た。標高1000mのネパール、カトマンズ郊外の山育ちのスンダルにとってその熱さは耐え難いものであったに違いない。早くカトマンズに帰りたいと言う。その時フィリップスからスタッフ50gを買った。奴に会ったのはそれが最後で以来会っていない。10月ぼくがデリーに入った時、既にフィリップス、キシトー達は逮捕されデリー中央第1刑務所、第2収監区、Aバラックに収監されていた。94年12月、ぼく達はそこで再会することになる。
 ホテルのベットの上、取調べの為に広げられた荷物をぼくはバックパックに再び詰めさせられた。それを背負って私服のスクーターの後部シートに乗せられパールガンジ警察署に連行された。明日のカトマンズ行きは如何なるのだろうか、朝、帰してくれるのだろうか、そんなありそうもない事を粉で効いた頭でぼんやりと考えていた。2階の広い会議室のような部屋で待たされた。何故だかホテルのボーイも連れて来られている、奴が密告したのだろうか? 
チェンマイで銃を構えて踏み込んで来たタイ・ポリスの姿が頭をよぎった。昼飯でも食べに行こうと友人のホテルに寄った時、廊下に脚立を立て何か作業をしている1人のタイ人を見た。部屋に入ったぼくはそれまで開けたままになっていたドアーを粉を入れる為に閉めた。どの部屋にも高い通気用の小窓があり、そこから粉を入れていたぼく達は覗かれポリへ通報された。その夕方、チェンマイから夜行列車でバンコクへ戻る事になっていた。列車の切符、少しのタイ・バーツと旅行小切手を残してドル・キヤッシュ約2000ドルぐらいを巻き上げられて放免された。タイ・ポリスの目的は逮捕ではないお金だ。密告者との配分比率も決まっているらしい。密告者は熱心に何時も獲物を物色している。
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ジャンキーの旅             逮捕・・・6

2012-09-02 | 1部1章 逮捕
二人とも話すことが山ほどあって話の食い違いなど関係なく喋り合いながら身体をぶっつけ合うようにして暗い路地を歩いていった。入り組んだ路地の奥、インド人の子供の門番がいる家の前に着いた。鍵束をガチャ々させながら大きなドアーを開けてもらい暗い建物の中に入る、外で鍵を掛ける音。2階の一室にフレッドがいた。スタッフをやると筋肉が落ちる。5月に会ってから5ヶ月しか経っていないのにフレッドの強靭な肉体は削げ落ちていた。
「ハーィ・フレッド」
「ハーィ・トミー」
握りあった手を大きく振り大声で笑った。
「カトマンズに出した手紙を読んだか?」
ぼくはその手紙を手にしてなかった。
(在カトマンズ日本大使館にその手紙は届いていた。30・SEP・1994 の赤いスタンプ。もしその手紙をぼくが読んでいたら事情は少し変っていたかもしれない)
「スタッフを100g至急用意してくれ、何日くらい必要か?」
「3~4日だ」
ぼくはその時点でもフレッドが何故こんなにも厳重な見張りを立て、隠れるようにして生活をしているのかさえ疑問を持たなかった。久し振りに再会しトリップしたぼく達はボブ・マーレィに酔った。その日ぼくは50gを手にした。残り100gは印・パ国境近くまで行くので4日後になるだろうと言う、奴は信用できる、もう心配する事はない。フリップスは売人だが一切粉をやらない。その為、量と値段は信用できるが粉の質は自分で見分ける事は出来ない。フレッドはジャンキーの売人だ。量と値段を誤魔化すが質は自分で確かめているだけ信用できる。一長一短だ。
 デリー滞在はいつも長くなる。気長に良質で異なった粉を半々ぐらい買っていた。中卸しが異なるとタイプの違う粉が手に入る事もある。中卸し1g・200ルピー。小売値は質にもよるが300~400ルピーが相場だ。支払いはドルのブラック・マーケットの相場が高い時はドル紙幣、100ドル紙幣や1万円紙幣は少しレートが高い。インド・ルピーは日本円3円ぐらいに換算して取引をしていた。               
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