ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅        遠い道・逃亡・・・・・32

2014-12-26 | 4章 遠い道・逃亡

      国境へ・・・4

 
 列車がスピードを落とし始めた。停車駅が近い、ぼくはパケを持ってトイレへ向かった。列車が走っていると窓から風が吹き込みパケは開けられない。停車している間に今日、最後のスタッフをスニッフで吸い込んだ。スタッフを入れると少し身体が温かくなる。ベッドに戻ると皆は横になっていた。バッグを枕にしてぼくは横になる、がどうせ眠れないだろう。

 昨日、マリーと別れた後ぼくはフレッドの部屋へ行き、最後のスタッフ5gを手にした。その後、8時頃までジュース屋でネパール人からのコンタクトを待った。諦めてはいたが一縷の望みは捨て切れなかった。だが無駄だった。近寄って来たのは背丈190㎝はあるアフリカの野蛮人(そうぼくは呼んでいた)がフィリップスとフレッドには話してある、スタッフ3gを買ってくれ。次はガニ股男アシュラムだ、マナリのチャラスどうだ。こんな奴ばかりだ。二ナには会いに行かなかった。後に心が残る。今、スタッフの手持ちは10gだ。カトマンズからの出国準備が遅れると20日頃の出発になるかもしれない、そこで5gは使ってしまう。帰国ルートはカトマンズ→バンコック→成田になる。バンコックでは空港から外へは出ない。乗り継ぎの接続時間をできるだけ短くしたい。空港内でもスタッフの手持ちは危険だ精々、小パケ3個が限度だろう。時間待ちの間に空港内で1度、搭乗ロビーで1度と最後は成田着陸前に機内トイレで入れる。5gは国内に持ち込むつもりだ。この程度だったら100パーセント安全に持ち込める。帰国して10日以内で神奈川にある住所と銀行預金を九州へ移す。住まいを決め区役所で住民登録をして健康保険証を入手する。生活必需品を揃えて精神科の病院の所在を確認しておく。デリー精神病院のドクターから貰った処方箋がある、その薬以外に痛み止めと睡眠薬を手に入れる。闘病生活は時間との闘いだ、生活費用は今の預金で何とかなる。今回は禁断治療だけでなく、薬物による後遺症からの回復まで治療を続ける。
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ジャンキーの旅        遠い道・逃亡・・・・・31

2014-12-16 | 4章 遠い道・逃亡

   国境へ・・・3

ホームを過ぎデリー駅を離れると、窓外は闇になった。ぼくは闇を見続けた。闇の中に逃亡の道筋が描かれている、ぼくはそれを見つけださなければならない。
 列車内に目を移すと、前の座席に若者が座っていた。それとなく彼らの服装を見ると、どうも違和感がある。高級な物ばかりを身に着けている。革ジャン、ズボンと靴それらは全て新品だ。それにシャツは重ね着をしている。ネパールにも当然カースト制度がある。顔を見ると大体どのクラスのカースト出身者か、ある程度は分かるがどうもおかしい。ネパールへ帰るというのに楽しい話や、はしゃいだ雰囲気が感じられない。目立たないように抑えた素振りをしている。間違いない、奴らはネパール人の運び屋だ。衣服は身に着ければそれだけ荷物は少なくなる。黒い革ジャンを着てぼくの横に座っている奴がボスだろう。奴は少し前からぼくと接触する切っ掛けを見つけ出そうとしているように思える。荷物の少ないぼくを取り込みたいのか、ぼくがパスポートを持っていない事を奴らは知らない。お互い手の内を隠して腹の探り合いか、それぞれにやばい傷を持っている。これから先どうなるのか、お互いにまだ何も分かっていない。
 夜9時頃、ベッドを作りたいのだが、とネパール人のボスがぼくに言う。ぼくは勘違いをしていたようだ。列車の進行方向を向かって座っている座席の下段と中段がぼくのベッドだと思っていた。マリーは前後の下段のベッド2枚を買ってくれていたのだ。向かいの3段ベッドは既に用意されている、その下段にぼくは荷物を移した。列車の後方を向く座席側に替わり、これでかなり隙間風から逃げられそうだ。状況は良くなった。
「2人の予定だったが、1人が来られなくなった。この切符を使ってくれ」
1人で2台のベッドは占有できない。ネパール人は4人で3ベッドの切符しか持っていない。インドの列車では乗車券2枚で1ベッドでも問題はない、1台のベッドで2人が寝れば良い。3人で1ベッドでも構わない。
「良いのか、助かるなぁ」
とボス、皆も喜んでいた。この事があってからぼくとネパール人の間はかなり接近した。各人のベッドが決まり寝床の用意をしている。革ジャンは脱いで奇麗にたたみ枕元に置いていた。
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ジャンキーの旅        遠い道・逃亡・・・・・30

2014-12-11 | 4章 遠い道・逃亡

   国境へ・・・2  

ヴィシャーリ急行。何度この列車に乗ったことか、10回は下らない。時にはベナレスに回ることもあった。デリーから夜行列車でベナレスへ行き、暫らく滞在してビザが切れる2日ほど前にネパールへ向かう。ベナレスからゴラクプールまでバスで4時間ぐらい、そこから国境の町スノウリまでが2時間だ。国境を抜けその日の夜行バスに乗れば翌朝にはカトマンズに着く。今回は最短時間でカトマンズに着かなければならない。疲れたからホテルで1泊はできない。今夜の夜行列車と明日の夜行バスの2晩を乗り継いでカトマンズへ行く。
 汽笛が聞えた。頑丈で鉄の塊りのような列車がゆっくりとホームに進入してきた。インド人のざわめきと人が動く気配がしぼくは立ち上がった。列車が止まると我先にインド人達は乗り口に急いだ。何もそう急ぐ事はないのに、出発まで30分はある。人の動きが落ち着いた頃、ぼくは列車に入って行った。ベッド番号を確認し、冷たく硬い木製の座席に座った。見ると進行方向に向かった下段のベッドだ。列車が走り出すと窓の隙間から冷たい風が吹き込み今夜は眠れそうにない。大きなバックパックを担いだヨーロッパ人が乗ってきた。ハーィと形だけの挨拶を交わすと彼は荷物を上段のベッドへ置いた。彼は直ぐ寝袋を出し寝床の用意をしている、几帳面そうな奴でぼくと馬が合いそうにない。寝袋に潜り込んだらトイレに行く以外、下りてくることはないだろう。通路側に頭を向ければ本ぐらいは読める。向かい合わせの6台のベッドはデリー駅国際予約センターが確保していたものだろう。外国人は大体、1ケ所に集められる。ぼくが持っている切符2枚と彼で3名だ、後の3ベッドは空きかもしれない。この季節カトマンズは寒い、インドへ下ってくる旅行者はいても逆へ行くものは少ない。発車間際になって、どかどかとネパール人が乗ってきた。20代が2名と40代が2名で荷物の量はかなり多い。お互いに目は合ったが挨拶はない、何となく気が合いそうにない人種だ。窓側に座って駅構内を見ていた。出発の合図であるピィーと汽笛が鳴るとゴトンゴトンと列車が動き出した。もう戻ることはできない、逃亡という道を終着まで逃げ続けるのだ。


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ジャンキーの旅        遠い道・逃亡・・・・・29

2014-12-09 | 4章 遠い道・逃亡

    国 境へ・・・1

  出発
 夕方、6・30分バッグを持ってホテルの部屋を出る。ぼくはもう一度部屋の中を見た。心が残る。いつまでもこの部屋にいたい、だがそれは出来ない。ドアを閉め真中の吹き抜けから階下を見ながら廊下を回った。2階へ下りると受付カウンター内にマネージャーがいた。まだ身体の調子が良くない、もう1度病院へ戻るが良くなったら帰って来る、彼にそう言ってホテルを出た。外は宵の口でバザールの通りは大勢のインド人達で賑っていた。早くホテルを出て良かった。革ジャンにジーンズそれに靴を履きバッグを持てば、どこから見ても旅仕度で目立ってしまう。駅の近くで良かった、アフリカンに会う事はないだろう。インド人達の流れに乗って早くデリー駅の中に入った方が良さそうだ。見張られてはいないだろうが時々、後ろを振り返る。少し神経質になっているのが自分でも分かる。通りや駅構内に立っているポリはインド人の取締りであって、外国人に職務質問やパスポートの提示を求める権限はない。
 駅前の大通りを渡ると駅前広場だ。タクシーやオートリ力車それに旅行客で混雑している。デリー始発の夜行列車は何本もある。南へはデカン高原を48時間で突っ走るマドラス急行や、東への幹線は聖地ベナレスや仏教聖地ブッダガヤ等を通ってカルカッタへ続く。この東北方面幹線はベナレス手前から、ネパール国境の中継地ゴラクプール駅へ北上するのがバイシャーリ急行だ。インドの夜行列車の2等寝台は一部を除いて硬い木製のベッドだ。上中下の3段が向かい合って並んでいる。ベッドの上と下は固定されているが中段だけ折り畳み式で夜になるとベッドが作られる。駅ビルに入ると正面の上の壁に大きなボードがある。そのボードに行き先や列車名、出発時間と出発プラットホーム番号などが書いてあり、それで自分の列車を確認する。
 時間はまだ早いがプラットホームへ向かった。インドの駅には地下道はない。全て高架陸橋だ、そして高い。陸橋通路には冷たい風を避けて座り込んだインド人達で通りは狭くなっている。目的のホームへ下りると全席指定のはずだが既に多くのインド人がホームに敷物を広げ家族ごとに身を寄せている。インド人の家族といえば殆どが3世代だ。適当な場所に座り込みぼくは煙草に火を点けた。ネパールとの国境の辺地へ行く列車だからか派手な服装のインド人はいない。
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ジャンキーの旅          No5 Ward・・・・・9

2014-12-05 | 4章 デリー中央第一刑務所No5Ward

 今日、サンジと久し振りに会った。アシアナで7週間、一緒に薬物の治療を受けた。ドラックはやっていないと言う彼の身体は健康そうだった。オールドデリーのティスハザール裁判所で審理されている外国人は少ないし知っているインド人もいない。そんな時アシアナで知り合った顔に出会うとちょっと懐かしく話をする。行き帰りのバスではぼくの座席を取ってくれたり、留置場でティーを買ってくれたりと助かる。サンジに15ルピーのクーポンを渡してビリ2本と留置場の定番トーストのカレー衣揚げを買って来てもらった。2人でビリを吸いながらそれを食べた、美味しい。だがぼくにはとても買えない。通路側の鉄格子にはインド人が鈴なりに張り付いていて通路を連行されていく知り合いを捜しているのだ。その間に頭から突っ込んでビリや食べ物を買うのは至難の業だ。とにかくインド人は煩い、留置場の中はウォーワァーと大声で喋っている。刑務官の呼び出しの声も聞こえないぐらいだ。そんな喧騒が普通だから刑務官も静かにしろとは言わない。騒音に負けない大声で何度も刑務官は呼び出しを続ける。最初、ぼくは自分の名前を聞き逃すまいと神経を尖らせていたが今では諦めている。留置場の壁に凭れてスタッフの効きで居眠りをしていてもインド人が知らせてくれる。
「ジャパニー、チョロ」
と、インド人にはない名前だし外国人はぼく1人だから。
 今日も2時頃、戻って来た。このくらいの時間に帰って来られると楽だ。当然、昼食はない。裁判所からお腹を空かして帰ってくるからと食器に残してくれる事などあり得ない。バナナかビスケット等があるので夕食までそれで我慢する。3時のティーは旧Cバラックに行ってスリランカ人と飲んだ。一緒に居た時は嫌だと思っていたが今ではここにいると気が楽になる。それはショッカンがスタッフを止めているからだ。以前のように中毒者の目の淵を黒くして猜疑心の顔をされたらぼくはここに来ないだろう。ショッカンは禁断から抜けて心が安定し人の良いスリランカ人の顔になっていた。いつもお金とスタッフを無心する奴とは思えない。今の状態だったら一緒に生活しても良い、ただこの状態がいつまで続くかだ。今このグループは誰もスタッフをやっていない。そこにぼくなりアミーゴが入って来ると空気が一気に崩れてしまう。久し振りだからちょっとだけやるか、と粉を入れると中毒者はもう後戻りは出来ない。何度もそれを見てきたし、ぼく自身も体験してきた。中毒者の心理は良く分かる。
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