今までの自分の苦しみの極限の状態は、精神を病んだときのことなのだけれど、発狂という「あちら」から、穏やかに安定した「こちら」へ戻ってくる感覚というのが、今の自分にとって大きな力となっていると感じている。
大きな発作は7年前に治ったのだけれど、発作への「小さな芽」までもが消えたと思ったのは本当にここ1年そこらのこと。
大きな発作から戻る、小さな芽が消えていく、それらを繰り返す内につかんだ感覚。それは机上の理論ではなく、自身の身体に染み付いた感覚。
「こちら」へ戻ってくる瞬間を繰り返し体験するうちに、自身の中心には自身の枠を超えた場があると、感じるようになっていった。自身の本質はその自身の中心であると。自身の中心に近づけば近づくほど瞬時に癒される。
一連の苦しみが、今はありがたい。
「全てはよくなるためにある」
苦しみの渦中ではとんでもない言葉だけれど、今は心の底からそう思える。
これからも色々なことが起こるだろうけれど、
それらもまた気づきがもたらされる機会なのだと、信じられることに感謝。
大きな発作は7年前に治ったのだけれど、発作への「小さな芽」までもが消えたと思ったのは本当にここ1年そこらのこと。
大きな発作から戻る、小さな芽が消えていく、それらを繰り返す内につかんだ感覚。それは机上の理論ではなく、自身の身体に染み付いた感覚。
「こちら」へ戻ってくる瞬間を繰り返し体験するうちに、自身の中心には自身の枠を超えた場があると、感じるようになっていった。自身の本質はその自身の中心であると。自身の中心に近づけば近づくほど瞬時に癒される。
一連の苦しみが、今はありがたい。
「全てはよくなるためにある」
苦しみの渦中ではとんでもない言葉だけれど、今は心の底からそう思える。
これからも色々なことが起こるだろうけれど、
それらもまた気づきがもたらされる機会なのだと、信じられることに感謝。
足場をしっかりととらえているのなら、「あちら」と「こちら」を自由に行き来することも可能なのかもしれません。
私はまだまだへなちょこなんですよ。日常での些細にみえることに取り乱したり。それでも昔に比べたら本当に鍛えられました。ありがたいです。これから起きていくこと、「越えられない試練は与えられない」、そして「全てはよくなるためにある」と信じていきたいです。
ありがとうございます。
すると次の展開が楽しくなるかもね。
「よくなる」は短い時間の流れのなかでは理解することができないのかもしれません。ひょっとすると死ぬまで分からないこともあるのかもしれません。それでもああそういうことだったのか、と腑に落ちる時が必ず来るのだと思ってます、ひょっとすると死ぬ間際なのかもしれないし、次のまたは次の次の次の世代になって分かることなのかもしれない。
そして目の前の試練に懸命に向き合っているということ自体が「よくなっている」という流れを既に生み出している、そういう意味では「もう既によい」ともいえるのかもしれません。
「次の展開が楽しめる」、確かに。どんなことが起ころうとも、起こることの中で例え苦しもうと、底のところでは常にこの一生を楽しんでいる自分がいるのかもしれません。
ありがとうございます。