靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

中心の様相、子育ての目的、書くということ

2013-12-01 10:54:07 | 思うに
私自身の中心にある様相を、整理してみました。


私は「ある感覚」と共にあることで、今この瞬間にもこうして生きていられます。

この「ある感覚」なしでは、私は「闇」に瞬く間に呑まれるという「実感」と共に暮らしているのです。

これは私にとってあまりにも現実的な感覚であるため、「信仰」という言葉でもあまりしっくりときません。それは、「目の前のコップ」と同じくらい、具体的に触れることのできるものなのです。


この「ある感覚」は、十年ほど前、精神の不安定さがピークになった時に見出したものです。毎晩恐怖と不安感に襲われ、パジャマで裏庭を徘徊し、このままでは私は廃人になってしまうという絶望を通して。「発狂」というものは、論理的な手順や思考が通ずる状態ではなく、「正常」な時に手にした、様々な「落ち着く方法」なども、瞬く間にことごとく潰されます。どこからか「とてつもない力」が加わっているという感覚。脳の仕組み的には、何らかの理由で、そうなるしかない構造となってしまっている、といったことなのかもしれません。どうしてか、そうなるしかない道筋をなぞらされてしまう。「精神障害」によりとんでもないことをしてしまうという人の状況が、私にはよく分かります。もうそれは「その人」ではないんです。

私は自分が自分でなくなるという恐怖と絶望に毎晩震えました。それでも日が昇り始めると、すっかり「正気」に戻るのです。そして夜が再び来るという恐怖と共に一日を過ごす。

この恐怖と不安に呑みこまれ闇に向かう自分と、徐々に正気が戻る自分との間を何度も行き来する内に見出したのが、「ある感覚」です。「ある感覚」を意識することで、呼吸が変わり、温もりと静けさが訪れます。闇は確かに常にあるのですが、もう呑まれることなく、明るく静寂の内にあれるのです。「きた」と感じるのなら、この「ある感覚」を意識する、そうすることで、徐々に、真夜中恐怖や不安に襲われることがなくなっていきました。

この「ある感覚」を言葉で表すのなら、一番近いのが、「温もり」です。



「ある感覚」をはっきりと意識してから十年近く、子育てを通し様々感じ思うことを、箇条書きにしてみます。

1.この「ある感覚=温もり」の原型は、子供時代、親から愛情を受けることで、培われるものでもあるということ。

転んで膝をすりむき泣きべそをかいても
お友達と玩具の取り合いをしたと泣きじゃくっても
温かい腕の中で 「大丈夫よ」と声をかけられることで
笑顔で遊びに戻っていく

一生懸命作った工作が壊れちゃった! そうしかめっ面で家に戻っても
駆けっこ競争で転んじゃった・・・ そうしょげていても
髪をなでる手の温もりに包まれ眠ることで
また元気一杯に歩きはじめる

初めての場所に足を踏み入れ不安一杯だとしても
見知らぬ人々に囲まれ心細くても
振り返り温かい微笑が見守ってくれると認めることで
未知の冒険へと飛び立っていく

笑顔を取り戻したあの腕の中、頭をなでられ眠ったあの柔らかい手、よしいくぞっ!と勇気の湧いたあの微笑み。そんな「親の温もり」に何度も何度も包まれる体験を通して、培われる。


2.子供時代の「温もり」の体験から、自身の内に「温もり」を見出す方向へと向かうことで、人は安定する。何が「温もり」を見出す助けになるかは、人によって様々。日常生活の中で、無意識にこの「温もり」に触れ続け、何が「助け」となるかをはっきりと自覚する必要ない人が、ほとんどなのだろうと思う。私にとっては、宗教的テキストが、この「温もり」を、様々な形で表していると感じている。それは、聖書であり、ゾーファー(カバラ)であり、スーフィーの詩であり、マントラであり、神道の祝詞でり、ネイティブ・アラスカンの神話であり。


3.幼少期の「温もり」体験が十分でない場合、自身の内に「温もり」を見出すことがなかなかスムーズにいかなくなる。それは「親の愛情の不十分」という単純なものでもなく、親子の相性、その子の感受性の強さ、不安感の強さ(私のように底なし沼のような不安感を持つ子もいるもの)などが絡み、結果としてそうなってしまうもの。そんな場合は、後に「助け」に極度に依存してしまったり、宗教的方向の中でも、カルトや偶像崇拝へと向かってしまうこともあるかもしれない。


4.その子の人生で起こることは、その子に必要だからこそそうなってしまうのであり、親が全てをコントロールはできない。それでも、親としてできるのは、できる限りの愛情で包んでやること、「大丈夫」という温もりの体験を何度も何度もさせること。それは、その子が、より良い方向へと進むための、強力な道しるべとなる。


親の愛情による「温もり」の体験 → 自身の内に「温もり」を見出す。

この移行のサポートが、私の子育ての最大の目的といえます。

そしてその「ある感覚=温もり」をより具体的に表していくこと、それはその「温もり」を日常生活の隅々に行き渡らせるという感覚でもあるのですが、それが私の「書く」ということの、ミッションでもあるのです。

何だかよく分かりにくい抽象的な話ですが、私の中心にある正直な気持ちです。お付き合いくださってありがとうございます!

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2 コメント

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Unknown (mirumiru)
2013-12-02 22:20:26
マチカさんが言われている「温もり」を文字にされていることにより、感覚でのみですが、少し理解しているように思います。私なりに理解している「温もり」を私なりに捏ねて捏ねて、私の家庭でも活かさせてもらっています。とても重要なことだと思うからです。
生まれたばかりの赤ん坊が、お母さんの胸にすっぽりと抱かれスヤスヤ眠りに落ちるようなそんな感覚。その子が幾つになってもそのような感覚を持ち合わせていられると強く優しい子になっていけるような気がします。
シェアしてくださり有難うございます。
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mirumiruさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2013-12-07 11:37:03
文字にすることで、こうして何かをmirumiruさんに感じていただけること、とても嬉しいです。こうして伝わる形(コード)にすることで、「それ」自体とは少しずれることもあるのでしょうが、きっと、mirumiruさんが捏ねて捏ねてされることで、より近づくのだと思います。

「生まれたばかりの赤ん坊が、お母さんの胸にすっぽりと抱かれスヤスヤ眠りに落ちるようなそんな感覚。」
この表現、とても心に響きます。また新しく表現する形に触れた、そんな気持ちです。私もこの雰囲気を思い出していきたいです。

「強く優しい子」
本当ですね。優しいためには強くある必要がある、そう思います。子ども達に伝えていけるよう、私も精進していきたいです。

いつもmirumiruさんのコメントに学ばされています。本当にありがとうございます。週末お楽しみくださいね。
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