靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、「私は自分のしていることを愛している」

2013-04-21 05:04:03 | 今週の整理
1.日中0度を上回る晴天続き。夜も朝も太陽の光(六時半日の出、九時半日の入り)! 毎日きもちよ~く、外を走り回ってます。スノーパンツなしで外遊びができる! そりも公園遊びも、まぶしくて。アラスカは冬の暗さ(一日の大半が暗闇)と、この夏(一日の大半が明るい)に向けてのギャップがすごいです。太陽の光に熱に、元気をもらい、力みなぎり。太陽ってすごい!とつくづく。

2.長男は陸上(走って飛んで)にロボティックスに、長女はダンス。今のところ、したい!と熱をあげているもの。長女のはまっているのは、ダンスというより、アクロバティックというか、~雑技団といったようなもの。週五日レッスンを取りたいと請われているのですが、学校がある日々はなかなか難しく。夏は少しレッスンを増やす予定。子供達を見ていると、生まれつきの身体の柔らかさというのがあるのかなと思ったり。毎日酢を飲んでいたわけでもないのですが、(笑) 長女は他の子たちに比べ、くねくねです。

3.去年の今頃は「レゴリーグ世界大会」でセントルイスにいたんだよね、今年は「レゴリーグ」したいなあと言う子供達。そんな中、夫の同僚から「これあなたの子供達?」とメールをいただきました。 アラスカのレゴリーグのプロモーション・クリップ(こちらhttp://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=Ah8efHI2UoM)。「子供達の可能性を伸ばすことが、長い目で見た社会への投資。私は自分のしていることを愛している(I love what I do)」そうクリップの中で、目を輝かせるレベッカ・パークさん(アラスカ「ファーストレゴリーグ(FLL)」担当。the Juneau Economic Development Council)。去年の大会会場で忙しく動き回り、参加者・ボランティア一人一人に、声をかけていた彼女の姿を思い出します。長男長女次女の参加した2011-12年は148チーム、2012-13年は154チームと、アラスカのレゴリーグ参加チームも増えているよう。
 クリップの最後の方に、長男がロボットのセンサーなどについて説明する様子、その後ろに長女が。長男、声も高く、顔つきも小学生で、12歳から13歳までの1年というのは、こんなに変化するものなのだと感慨深かったです。いい思い出をいただきました。さて、今年の「レゴリーグ」、どうしましょう。

今日は早朝長女水泳、次女友人宅、長男NPO活動、夕方は散歩、明日はハイキングにでも。夏休みの予定決めも大詰めに。今日も晴れ渡ったアンカレッジより。

Have a wonderful week!

日常風景:

長男、週末のロボティックスワークショップ。


長女ダンス。


こんなだったり、


こうして、


くるりんと起き上がったり。
そり


まだまだそり!

三女に次男。

よいしょっと。


それ~!


じゃんっぷ!


友人の息子君二人も乗せて。


それ~!


第二次世界大戦時の軍倉庫後。


スノーエンジェル描き。

こうして寝て手足を動かし起きると、真っ白な雪にエンジェルのような形出来上がり。

スナックタイム!


楽しかったね。



長女ビーズ。


床にこんな人。

算数の教材、三女と次男の遊び道具に。

町で出会うまぶしさに、感謝をこめて

2013-04-21 05:03:00 | 思うに
木曜日の夜、長女のブラスバンド・コンサートがあった。アンカレッジ市の公立小学校は、六年生になると皆、ブラスバンドかオーケストラかの練習をすることになっている。この日は、アンカレッジの東地区にある小中高校が合同で発表会。

それまで楽器に触ったこともなく楽譜が読めなかったような子も、皆立派に演奏していた。全ての子にこんな機会が与えられ、ある程度なかなか聞けるような演奏ができるようにしてしまうなんて、すごいことだなと感心した。

小学校数校を合わせた小学校部門、三十代くらいの男の先生が指揮を取る。この先生がまた素晴らしかった。曲の雰囲気に合わせサングラスをかけてみたり、一旦終わったと観衆が拍手を始めたところ「じゃじゃ~ん」とエンディングを入れてみたり、トロンボーンの子達に立ち上がってリズムに合わせた動きをさせてみたり、その表情や仕草一つ一つが生き生きとエネルギーに溢れ、先生自身が心から楽しんでいる。そして子供達の笑顔も生き生きと輝いていた。

自分がしていることを、楽しんでいる人は輝いている。

自分がしていることに、喜びを見出している人はまぶしい。

演奏に合わせ、座席の一番前に座っていた小学校高学年くらいの体格のいい男の子が踊り始めた。ダウン症のその子の隣で、お母さんが、その子の動きの一つ一つに大きく頷きながら、一緒にリズムを取っている。そのお母さんの笑顔が、まぶしかった。

こんなまぶしさが、はっと私を中心に戻してくれる。

ああ、また随分と逸れてしまっていた、そう我に返る。

町で出会うまぶしさ。小学校の廊下ですれ違う掃除夫のおじさんの笑顔、「私に任せたら学校中ぴっかぴかになっちゃうよ」と胸を叩いていた。スーパーのレジで、勢い良くキーボードを打ち、レシートを渡しながら「今日もよい日を!」と歌うように言うおばさんのまぶしい笑顔。

喜びを見失わない人々。喜びは、常に幾層にも重なり、目の前に溢れている。

そして人から借りたメガネでは、そんな溢れる喜びを見出せない。

あのまぶしい笑顔に、感謝を込めて。



高校の体育館にて


日本太鼓の演奏も!

この高校生バンドを率いる日本人女性、先生としての他にも個人的に西洋と東洋の音を合わせた音楽活動をしている。昔私が働いていた職場の同僚男性の娘さんでもあり。元同僚夫婦を思い浮かべながら、その子育てを想いながら。こうして大好きなことに生き生きと取り組む彼女の姿、輝いてました。

子育てノート、喜びを見出す

2013-04-21 05:02:35 | 子育てノート
何でも嫌々するより、楽しみながら取り組むのならば、歩き始めた地点からいつの間にかはるか遠くにたどり着いている自分に気がつきます。長い電車旅行も、稜線にゆっくりと沈む太陽のグラディエーションを眺め、徐々に増える民家の灯りを数え、一つ一つの灯りの中でどんなドラマが繰り広げられているかと想像することで、豊かに楽しむことができます。山道を行く車の中でも、言葉遊びに夢中になることで、あっという間に目的地にたどり着くものです。じっと我慢して揺られているよりも、少し発想や視点を変えるなどの工夫次第で、楽しみを見出していくことができます。

苦手なマッシュルームも、自分で育ててみることで口に入れるのが嬉しくなり、山積みの宿題も、細分化し小さなゴールを散りばめることで、達成感の嬉しさを積み重ねていくことができます。気が向かない仕事も、愛する家族に健やかな環境を与えられるようにと思えば、有難い機会に見え、掃除も、家族やゲストが気持ちよくくつろぐ笑顔を思い浮かべると、嬉しくなるのです。だだをこね言うことを聞かない子供も、自我が育っている証拠、家が散らかるのも、子供が元気に遊んでいる証しと思うのなら、余裕を持って子供達に接することができるでしょう。

目を凝らせば、目の前のあらゆるものに、「喜び」を見出せます。喜びを見出し続けるのならば、努力を努力とも思わず、はるか遠くに進んでいくことができます。

小さな子供が、片づけが嫌だというのならば、「この電車は車庫に帰る時間だね、しゅっぱ~つしんこ~、しゅっしゅっぽっぽ」「お人形さんもう眠いみたいだね、ミルクをあげてベッドで寝かしてあげよう」などと声をかけ、お風呂が嫌なら泡遊びの楽しさを思い出させます。「イヤイヤ」と首を振る幼い子にも、「楽しみ」や「喜び」を並べることで、しかめっ面に、輝く笑顔が戻り、喜んで取り組み始めます。 

 小中学生の子供でも、より現実的論理的に「喜び」を思い出させることで、前向きに物事に取り組み始めることがあります。部屋の掃除をなかなかしないのならば、整理整頓し、窓を開けフレッシュな空気を取り入れたときの気持ちよさを思い出させ、ジャンクフードを好んで食べ続けるようならば、ヘルシーな食べ物がいかに身体の糧になるのかを共にリサーチしてみるのもいいです。



子育ての「喜び」

 毎日やるべきことが山積みの子育て生活。五人の子供を抱える我が家でも、分刻みで時間が過ぎていきます。早朝から六人分の弁当作り、寝ぼけ眼の子等の背中を押し着替えさせ、朝ごはんを食べさせ、学校に送った後は、人数が多いだけ汚れ方も半端ではない家中の掃除、山積みの洗濯、夕食の準備、日用品や食料の買出しに、小学校のボランティア、次男の図書館での読み聞かせやプレイデートなどのアクティビティーもあります。四人の子供が学校を終える昼過ぎからは、水泳やダンスなどの習い事の送り迎え、車の中で昼間に用意したおにぎりなどのスナックを食べさせ、帰宅した後は一人ずつ宿題を見、予習復習をし、弱い部分を補強し、得意な部分には次のレベルの課題を与え、順番に見てもらうのを待っている子や終わった子にはくつろいだ時間を持たせてやり。一段落したら揃って夕食です。食後も後片付けはひとまず横に置き、引き続き勉強を見つつ、下の子達を風呂に入れ寝る準備を整えさせ、そうしていると就寝時間です。毎日私は家事育児従事者兼、送迎運転手に家庭教師です。

こういったスケジュールに組み込まれたこと以外にも、子供の世話は次から次へとノンストップ。駄々をこねる子をなだめ、無理難題を主張する子を諭し、気のそれた子を揺り起こし、境界を越える子を叱り、その日あったことを延々と話し続ける子に耳を傾け、友達関係の相談に乗り、ままごとで店を訪ねた客になりプラスティックのベーコンをかじり、ちょっと何度目の「もう一回!」だっけ? と思いながらカードゲームを続け。

ああ、自分の時間なんてこれっぽちもない! しかも毎日毎日自分の持てる力をこれほど出し尽くし続けたとしても、世間に何ら認められるわけでもない、それに寝てる時以外はほとんどノンストップで労働力もかなりなものであるはずなのに、贅沢できるお金が手に入るわけでもない、社会の隅で誰の目に留まることもなく日々年を取って行く、ああもう嫌だ。そうしゃがみこんでしまうことが今まで何度もありました。

それでも進み続けるための力を与えてくれたのが、「喜び」でした。はるか遠くを見上げ、そこにあるだろうと想像する「喜び」などよりも、今この目の前に「喜び」が溢れている、徐々にそう感じるようになっていったのです。


1.生活の中に散りばめられた喜び

朝焼けに、スヤスヤと眠る子供達の寝顔。薄暗い台所に響く包丁の音に目を覚まし「ママおはようと」抱きついてき、切ったばかりのオレンジをまだ半分閉じた目で嬉しそうにほお張り、幼い下の子のぐずる声に寝室へ行き抱き上げると、「ママあ」と肩に顔をうずめ。上の子が下の子の朝食を手伝ってやる姿、「今日のお弁当美味しそう!」と叫ぶ表情、学校の前で車から降りる時に交わすハグ、「いってきま~す!」と手を振る満面の笑み、手を繋いで校舎に歩いていく背中。朝日の差し込む居間には白木の積み木が重ねられ、物干し竿には手の平に乗るほどの靴下から私のよりも大きな靴下が並び。文字が読めるようになったと大はしゃぎのちびっ子とABCの歌を大声で歌いながら掃除し、膝に座らせ絵本を読み聞かせ、絵本に登場するウサギの真似をして一緒に部屋中飛び回り、買い物に出かけたスーパーで「あと一つ何買うか忘れちゃった」とつぶやくと「牛乳!」と大きな目をして教えてくれ。駐車場を歩きながら握る小さな手、車から「よいしょよいしょ」と荷物を降ろし一生懸命冷蔵庫に詰めようとするピンクの頬、夕食を作り始める傍でミニカー競争に夢中の小さなつむじ。学校に迎えに行った車に勢いよく乗り込む上の子達のほっとした表情、水泳のバタフライができるようになった、なかなかできなかったステップが踏めるようになったと習い事の帰り道の車で興奮して話し、食卓に向かいぺこぺこのお腹をさすりながら「いっただっきま~す」と勢いよく食べ始め、目を合わせ「美味しいね」と頷き合い、その日あったことを話しながら皆で椅子から落ちそうになるくらい笑い転げ。額をくっつき合わせうんうん唸りながら英文法や算数の図形問題に取り組み、窓の外の銀世界を眺めながら蜂蜜入りホットミルクを飲み、小さな歯を一本一本磨き、ベッドの上に皆でくっ付きあって感謝の言葉を言い合い。

日常に喜びの瞬間が溢れています。


2.限られた時期を共に過ごしているという喜び

長いスパンで見たら、こうして密に共にいられるのは、本当に限られた一時のこと。子育てを終えられた先輩方が、「ああ今が一番いいときなのよ」と目を細めて言うことがありますが、そんな視点から今を眺めてみる。ものすごいスピードで成長を続ける子供達、今こうして過ごす一瞬一瞬は、二度と戻ってこない。


3.子供達の思い出作りをしているという喜び。

子供達が大きくなり、懐かしく思い出すのは、自分自身を振りかえって見ても、大好きな玩具を買ってもらったり、、豪華なクルージングの旅といったものよりも、一つ一つの何気ない日常風景なのではないでしょうか。共に過ごす一時一時が、子供の内に思い出を築く限られた機会、そう思うのならば、また日常の一瞬一瞬が輝き始めます。


4.未来の世界作りの喜び。

そしてこれからの世界を創っていくのは、子供達だということ、その子供達の土台となる大切な最初の一時を、共に過ごしているのだという子育ての原点を思い出すとき、またはっと目が覚めます。未来の世界を創るという壮大な計画の片隅に、日々こうしているのだという緊張感、それもまた深い喜びの一つではないでしょうか。


子供達と過ごす一瞬一瞬に、「喜び」が溢れています。状況はアップダウンを繰り返し、次から次へと課題にぶちあたり、子供の世話というのは目の回るような毎日。それでもその大変さばかりに気を取られ、喜びを見出す目を曇らせてしまったら、何とももったいないこと。

また、ああだったらこうだったら喜びが手に入るに違いないと想像の世界に浸り、今この目の前にある喜びに気がつかないのでは、本当にもったいないことでもあります。

は~とため息をつく横には、未来を見つめキラキラと輝く瞳があります。

日常に溢れる一つ一つの喜び、それらの「喜び」にフォーカスするのならば、先にそびえるどんなに高い山も、どんなに険しく深い谷も、力強く越えていけます。



「喜び」には様々な層が

 一つの物事を前にしても、幾層もの喜びを見出すことができます。例えば夕焼けを前にして、空に描かれるオレンジやピンク、ゆっくりと流れるくもの形など、まずは五感で捉えられる造形的な喜びがあります。そして目の前に広がる夕焼けの美しさを、大好きな人々と分かち合うといった他者と感動を共有する喜びもあるでしょう。この美しい景色を次世代に残していきたいと、目的や意義を持つ喜びもあるかもしれません。感動を絵に描いたり、言葉に表現してみたりと創造の喜びを持つこともできるでしょう。また太陽が光を放ち、その周りを地球が自転と公転を繰り返しているという、夕焼けの背後にある壮大なスケールの「不思議」に触れる喜びもあります。何層もの喜びに目を向けるのなら、あらゆる物事は喜びに溢れたものになります。

十年ほど前、精神と身体を病んだ時のことです。強烈な恐怖と不安感に、毎晩眠ることができず、パジャマで裏庭を徘徊し、頻繁に起きる回転性めまいに運転もできず、三歳と一歳の乳幼児を抱え、お腹の中には新しい命。日常生活もままならず、世界がひっくり返ってしまうような苦しみでした。それでも今振り返ると、あの体験がいかに自分を強くし、今生きる上での支えになっているかを思います。

あの体験があったからこそ、今こうして普通に暮らせることへの感謝の気持ちに溢れ、何を選択することで自分の精神と身体を傷つけてしまうのかを学んだのです。あの辛い体験があったからこそ、どちらの方向へ進んだらいいのかが見え始めたのでした。それまでの私は、すぐに心が折れてしまい、病気がちで、あのままでは五人の子供を育てることなどできなかったかもしれません。子育てというのは、日々様々なことが起こります。病気になる以前の私だったら、心配と不安とでとっくに動けなくなっていたでしょう。

 今困難や試練に出会うと、辛いながらも、ああ今度は何を学ぶ時期なのだろう、そう思うことができます。目の前にそびえる壁は、また乗り越える術を学ぶ機会です。一つ壁を乗り越える度、次の壁を乗り越えるための智恵と筋肉がつくのです。今では、難しい状況の中で、悲しみ苦しみながらも、よしまた鍛えられ力がつく機会だ、そう心の底で喜びにも似た気持ちを持つ自分がいます。

「喜びを見出す」とは、例え目の前の状況に涙を流しながらも、深く心の底から湧き上がるこんな喜びも含まれます。そしてこんな喜びこそが、どんな状況に置かれても、また進み続ける力を与えてくれます。



「喜び」にフォーカス

サッカー場をイメージしてください。端に置かれたゴールからゴールまで、かなりの距離があります。サッカー選手は試合中、ジグザグや円や直線や、様々な軌跡を描きつつ何度も何度もこの間を行き来します。それでももし「ボール」がなかったのならば、動きはすぐにストップしてしまいます。「ボール」なしで、これらと同じ動きをすることはできません。「ボール」があるからこそ、「ボール」を手にする前には想像もつかなかった動きを、想像もつかなかったほど長い時間、続けることができるのです。

この「ボール」こそが、「喜び」です。目の前のあらゆる物事は、幾層もの喜びの宝庫です。「喜び」にフォーカスすることです。そうすれば、「喜び」を手にする前には想像もつかなかった距離を、行くことができます。

「隣人を愛す」、「自転車の車輪」という世界観

2013-04-21 05:01:09 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナー・トピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


隣人を愛する、について。


・聖書の「自分自身を愛するように隣人を愛せよ(You shall love your neighbor as yourself)」(Leviticus, Chapter19)がオリジン。


・「愛する」と一言で表されるものの、現実的実用的に、隣人を愛する「行為」とは?(HaKav V’HaKabbalah[1785-1865])より
1.尊敬をもって他者に接する(Treat others with respect、)
2.他者の最善を求める(Seek the best for them.)
3.他者の痛みを共に感じる(Join in their pain.)
4.好意をもって親切に他者に挨拶する(Greet them with friendliness.)
5.真実かどうか不確かでも相手に有利に解釈する(Give the benefit of the doubt.)
6.物理的に金銭的に援助してやる。(Assist others, physically or monetarily.)
7.相手より自分がより良いとみなさない(Don’t consider yourself better than others.)


・ユダヤの世界観
 人は自転車の車輪のようなもの。車輪の中心から枝分かれした部分が互いに異なる個人。それでも異なる個々人それぞれが奥深くに潜ったところでは、一つ。実際に触れられるもの見えるもののみに拠っているのならば、「違い」しか見えない。



・昔読んだルドルフ・シュタイナーの著書に、「最も自身と相容れないと思う考え方価値観信条を持つ人々、自身が最も憎む人々に、『繋がり』を感じることが、魂を成長させる」というようなことが書かれていたのを覚えている。これは、目の前に見えるものを超え、奥深く「自転車の車輪の中心」を見出すことに似ている。


・心理学者ユングが唱えた「集合的無意識」。「一人一人の心の奥深くに、個々人・集団・民族の違いを超えた普遍的な場がある。」


・「もし人が肉を切っていて、ナイフで手を傷つけてしまったからと、仕返しにナイフを持っていた手を傷つけるだろうか?」(タルムードより)

もし、個々人の心の奥深くに、違いを超えた普遍的な場、「車輪の中心」があるとするのならば、相手に嫌なことをされたり、相手に傷つけられたから、やり返してやろうと思うことは、同じ自分自身を傷つけるようなもの。もし、心の奥底で、普遍的場に出会うのならば、他者に対して投げかける言葉も、行為も、自分自身に対してしているのと同じこと。




「隣人を愛す」とは、自分や他者に対し、間違いや過ちを愛し受け入れあるがままにしておけばいいということではない。与えられた「違い」「個性」、それらの欠けた部分は、より良くしていこうと励まし合い、改善へ向け努力し続ける。

それでも、それらの間違いや過ちなどの互いに欠けた部分が、「隣人への愛」を何ら損なうものではないということ。車輪の広がり部分は、何ら隣人に対する尊敬や愛に影響を与えるものではない。

「自身を愛するように隣人を愛す」とは、互いの違いを超えた「車輪の中心」、個々の心の奥深くで繋がる普遍的な場に対する、尊敬であり、愛。

心の奥深くにそんな場を感じられるのならば、どんな隣人をも愛することができるのかもしれない。

子供言葉

2013-04-21 05:00:07 | 子供言葉
お絵かき大好き三歳次男。
日々ああでもないこうでもないとぶつぶつ言いながら何やら描いています。

この日も嬉しそうに紙を差し出し。


次男: できた!




私: うわあ、いっぱい描いたねえ。これな~に?

次男: イラン

子育てノート、テキスト交換にはまり込んだら

2013-04-21 05:00:03 | 子育てノート
こちらの小中高校生に人気なテキスト交換アプリケーション、「Kik」。中一長男、小六長女のクラスでも、今ではスマートフォンをもっていない子を探すほうが難しいほどなのですが、持っている子のほとんどがKikを入れています。

そんな中、日々膨大な数のテキスト交換に、学校の課題が手つかずになったり、常にテキストが気になり普通の日常生活が送れなくなったり、夜遅くまで止められなくて寝不足になったり、少しでも離れたら仲間はずれになるんじゃないかと心配になったり、そんな問題も出ているよう。

家では、長男長女が、電話回線のないスマートフォン(これをフォンと言うのはおかしいかもしれませんが)を持っているのですが(WiFiのあるところでのみ通信可能。家でのリサーチなどに使ったり、アプリを試してみたり)、Kikを入れたいというので、少し調べてました。

その中で、子供がKikにはまりこんで困ったという親が、解決策としてうまくいった例をあげていた記事がありました

ネットワークに入っている相手の親達子供達皆で話し合いの場を設け、全員が守られそうな時間リミットを決めたというもの。この日の何時から何時までをKikタイムとしてしまう。自分の親だけなく、何人もの親の目が見ている。自分の子供だけでなく、他の子供も見守る。Kikに入っている皆で、コミュニティーを作ってしまうというもの。

Kikを始めて三ヶ月ほど、今のところ、長男はほとんど関心なし、学校から帰ってまずはテキストをチェックをする長女も、するときしないときをうまくコントロールできているよう。

それでもこのコミュニティー作り解決法、将来、もし問題にぶつかったときに参考にしようと思ってます。