goo blog サービス終了のお知らせ 

靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「心の現実」という救い

2012-05-16 00:00:18 | 思うに
電話口から懐かしい声。しばらく近況を話し合った後、

「実はひとつお願いがあってね」
少し低いトーンで友人が言い出す。何事だろうと耳を澄ます。
「話をね整理するの手伝ってくれないかな」
「話?」
「うん、今朝ぐらいから湧き上がってくる風景や情景があってね、何だかものすごくリアルでね。こういうの退行現象っていうのかなと思ったり」
「子供時代のこととか?」
「もっと前かな」
「・・・。生まれる前のこととか?」
「そうかもしれないな。それを整理するのを手伝ってもらえないかなと思って」
「・・・。書き留めたりすればいいのかな」
「う~ん、書き留めるというよりも聞いてくれて質問とかしてくれたら」
「今そこに何が見えますか?その目の前の扉を開けたら何がありますか?・・・こんな感じ?」
声音を変えゆっくりとした口調で少しおどけてみせる私に、
「そうそう、そんな感じそんな感じ」と吹き出しながら答える友人。
「三十分程かな、時間取れない?」


頼みごとをしてくるなんて昔からめったになかった彼女のこと、よほどのことなのだろう。隣の部屋から三女と次男がミニカーで遊ぶ声が聞こえる。引越し準備のダンボール箱の山に背を向け、ノートと鉛筆を掴み、少し暗めの部屋の赤いソファに座った。

最初は一人で話し続けていた友人、言葉につまると質問してみる、また話し始める、質問、そんな繰り返しを三十分程、2つのストーリーを紡ぎだした。声の調子から随分と疲れた様子の友人。

その後何日かして、この二つのストーリーのおかげでそれまで抱えていた心理的な悩みがスカンと解消したと友人が嬉しそうに電話口で言った。大きな悩みが嘘のように消えてしまったのだそうだ。二つのストーリーを胸に抱き暮らすことで、大きな支えになっていると。


私自身は「前世」が本当にあるかどうかということは「分からない」としか言えないと思っている。もしあるのだとしても、「前世」を知ったところで「だから何?」としか言いようがない、今を生きていく上でどんな必要性があるというのか、そう思っていた。

それでも今回の体験で少し見方が変わったかもしれない。内に湧き上がるストーリーを紡いでいくこと。そのストーリーが「救い」になるということはあり得る。それが「前世」であろうとなかろうと、それは関係なく。フロイトはクライエントの語る「前世のストーリー」を「サイキック・リアリティ(心の現実)」と呼んだという。人の奥底の深層意識が紡ぎだすストーリー。それらを形にすることで、今もつ悩みに納得する解釈を与え、前向きに次へと進むことのできる力が湧き上がることがある。

人の心は幾層にも重なっているのだろう。一つ一つ層をはがしていくことで奥底に立ち上がる「現実」があるのかもしれない。そんな心の紡ぎだす「現実」は目の前の「現実」の枠組みをずらし、がんじがらめになった自身を解放してくれることがある。単一の「現実」に繋ぎとめられた足かせ手かせを断ち切り、自由に羽ばたくことを可能にしてくれることがある。友人との体験を通し、そんなことを思っている。

こんな体験に連れ出してくれた友人に感謝しつつ。

祭行事を通して

2012-04-11 00:01:20 | 思うに
今年も過ぎ越しの祭と復活祭を祝った。過ぎ越しの祭はユダヤ教徒が「出エジプト」を思い出すための行事。復活祭はイエス・キリストの復活を祝うものだけれど、キリスト教徒以外にも広く行き渡っている。この時期アラスカでもウサギや卵をイメージしたパステルカラーのデコレーションが街中に溢れる。多産と再生を象徴するウサギと卵は、元々ヨーロッパ土着の春の祭りから復活祭に組み込まれていったとされる。

過ぎ越しの祭について去年まとめたもの

過ぎ越しの祭は、「自由」ということを見つめ直すための儀礼でもある。奴隷であるということ、自由になるということ、出エジプトの歴史を思い出しつつ体験していく。それは今現在誰にでも当てはまること、今あなたは何の奴隷になっているのかと問われる、自由の獲得に終わりはないのだと。

そして復活祭。木々が芽吹き始める春、再生のイメージが街に溢れている。

子供は祭り行事大好き。いつも指折り数えて楽しみにしている。子供たちと楽しみつつ、最近、毎年繰り返し儀礼や季節の行事を祝うことの貴さ大きさをひしひしと感じている。子供たちの内に何層にも積み重ねられた思い出として残っていくのだろう、私の内にあの夜店の並ぶ神社の祭りやお寺での盆踊りの風景が鮮やかに残っているように。

祭りや儀礼を終えた後には、いつも見慣れた風景がまた少し違って見える。節目を越え、何だかすっきりと軽く新しい気持ちで足を踏み出している。

こうして今年も心優しき友人達と家族と共に祭りを祝えたこと、感謝を込めて。


過ぎ越しの祭り準備。

レタス拭いて、


ナッツ砕いてアップルソースと混ぜて。


一つ一つ象徴的食べ物。一番上はマッツア(イーストを用いないパン)。

「カフェテリア宗教」

2012-04-11 00:00:36 | 思うに
「カフェテリア宗教」、原理主義者の人々が否定的に用いる言葉。あちらこちらから部分的に取捨選択して成る宗教のこと。

「カフェテリア宗教」でいいじゃないか、と思う。様々な宗教から学び、いいところを寄せ集めて。取捨選択の基準は、自身の良心。一人宗教。

ただ各宗教を守る人々は必要なのだろう、宗教の根幹にある知恵が伝えられていくためにも。日々決まった形をとる儀礼儀式に身を投じ知恵知識のコアを守る人々。縁によってそういった役割を担う人もいる。昔、ある宗教団体の熱心な信者の知り合いに、「あなたがどの神にしようかと選ぶのでなく神があなたを選ぶのよ」と言われたことがある。私なりに分かる、神というか縁のようなものがあるのだろうと。

科学的知識を積み重ねても至ることのない知恵、それはやはり宗教的なるもののコアに見出せるのだと思う。

聖書を読むのは好きだし、ユダヤ教の知恵は腹にくるものが多いし、仏教や父方が代々神官だったという神道については日本に育ち身体に染みついているのだろうけれど、様々な教えについてもっと学んでいけたら、そう思いつつ。

問題を抱えたら「実験の機会」と

2012-04-08 01:35:24 | 思うに
問題を抱えたら、こういった問題にぶつかった場合はどうしたら解決できるのか、何らかの解決策を見つけるよう考え動く。

そのとき、解決策を探していくための大きなモーティベーションになるのが、自身がその問題から抜け出したいからというのももちろんそうなのだけれども、自身で試行錯誤して見出す解決策が、ひょっとして同じような悩みを持つ人にとって何らかの役に立つかもしれないという視点。

問題は「実験の機会」に変わる。

あのメソッドは実際には使えなかった、このメソッドがうまくいった。もしかして様々組み合わせることで新しいメソッドが生み出されることもあるかもしれない。そして自身にうまくいったメソッドが地球に住む何十億という人の内、一人にでもジャストフィットすることがあるかもしれない。

問題は解決策を見つけるためのかけがえのない機会、そう思うと悩み苦しむ暗闇の先に一筋の光が見えてくる。そして解決に向け実際考え動き始めることで随分と軽くなる。

ついに問題の出口から外へ出、まぶしさに瞬きしながら、こんどはその出口への道筋をシェアし合う。一人一人が実際に試行錯誤して解決した方法(こういった問題に解決策はないという解決策も含めて)、私にはこれがよかったあれがよかった、そんな情報を持ち寄りシェアし、自身に合いそうな方法をまたインプットし、共に新しい方法についての話し合いもし。そんな場を思い描きつつ。

痛みの底に

2012-04-02 01:09:00 | 思うに
「痛みはリアル、苦しみは選択。(Pain is real, Suffering is optional)」

心の痛み、まるですりむいたり切ったりしたときのように裂けて血が流れているかのような感覚をもつことがある。現実的に痛い。それでも「苦しみ」とはまた別のこと。

とてつもない痛みを感じつつ、常に底に流れる温もりを感じている。

自身が歩み続けるための設定は整えられている。何一つ欠けることなく。

「すべては良きことのために。(Everything is for good)」

痛みの最中にある人々の放つこの言葉に、どれほど力をもらってきたか。

あの静かな深い微笑を今日も胸に、足を踏み出していきたい。

視界の開けた知恵

2012-03-27 00:13:06 | 思うに
触れることによりパカンと視界が開けたと感じた知恵の一つに、ユダヤ哲学の「二つの魂」という世界観がある。ユダヤ神秘主義カバラなどがよりシンプルに分かりやすくまとめられた経典「ターニャ」(18世紀頃編纂)におさめられている。

「ターニャ」によると、人は二つの魂を持っているという。一つは「神的魂」、そしてもう一つは「動物的魂」。「神的魂」はより「神」に近い存在、「動物的魂」は物質的で欲望に溢れ我侭エゴイスティック。人はこの相矛盾する二つの魂を持つ一つの存在、そしてこの二つの魂のせめぎ合う関係こそが人に成長をもたらすのだと。

面白いのは、この「動物的魂」は排除し抑えつけ駆逐するべき「悪」なのではなく、単に「動物的」だということ。小さくまだ右も左も分からない赤子のようなものであり、お腹がすけば今すぐに食べたいと泣き、今これしたい!すぐあれしたい!欲の赴くまま。

駄々をこねる赤子なのである、抹殺すべき悪なのではなく、なだめすかし子守唄でも歌ってあやせばやがてすやすやと眠りにつく「キュート」ともいってしまえるような存在。

朝目が覚めいつまでもだらだらと毛布に包まっていたかったり、隣の芝生がなんて真っ青だと嫉妬してみたり、締め切りスグなのにまだ手をつけていなかったり、山のような洗濯や皿を前にネットサーフィンしたくなったり、自分が性欲の塊なんじゃないかと思えたり(フロイド的表現で)、他人の成功にチッと舌を鳴らしたり。

なんて自分はダメダメなんだと罪悪感を胸に膝を抱えてしゃがみ込む。

そんな時こそ、このしたい放題の「動物的魂」をひょいと抱き上げる、地団太踏んで駄々をこねる幼子を抱き上げるように。「動物的魂」むき出しの時ほど「神的魂」の出番。幼子の我侭が親の温もりに触れることで静まっていくように。こうして個の内の「動物的魂」と「神的魂」のやり取りを通し人は「超越していく」(transcend)という。

「動物的魂」があるからこそこうして肉体を持ちこの世にリアルに生きている。「動物的魂」は活力、生命力を溢れさす。子ども達が生き生きとしたエネルギーに溢れているように。ただ放任でも過保護でも無理やりの抑え込みでもなく、温もりで包み導く必要があるということ。

もう一つガツンと目が覚めたように感じたのが、二魂のせめぎ合いの鍵は「行為(deed)」にあるということ。自分の快楽だけに浸っていたい、自分の欲だけ貪りたい、そんな内なる「動物的魂」の声を聞きながらも「そうかいそうかい」となだめすかしつつ、親切で思いやりのある奉仕的「善行為(good deed)」を遂行していく。行為をこの世に打ち込む、そのためにこうして肉体をもちこの世にいる。

霊的分裂・矛盾、理想と現実の自身との乖離ギャップ、長い間しゃがみこんで動けなくなったこともあったけれど、この「ターニャ」の知恵はそんな私に進む力を方向を示してくれたと感じている。

じたばたと駄々をこねる幼子をひょいと抱えて立ち上がる、今日も内に刻まれたイメージとともに。


現実的姿勢のヒント

2012-03-27 00:11:01 | 思うに
「真我」と「偽自我」があるとして、

偽自我は幻想にすぎない、それに気づけ、と。

それでもし気づいたとして、ではどう生きていくというのか。

生きている、すなわち肉体を持った物質世界で、

日々の果てしないリアルな自我の欲望を前に。

死でも逃避でも浮世離れでも厭世でも世捨てでもない、このリアルな現実に生き生きと立ち上がる力。この現実世界を変えていく力。

「ターニャ」の知恵は、そんな現実的な姿勢のヒントを示してくれる、そう感じている。

体調調整、エネルギーの流れ

2012-03-21 00:38:45 | 思うに
長女の風邪以来、次女、次男、三女、と順番に回りそれでも症状は長女に比べ随分と軽く皆2.3日で治った。ところが夫だけは一旦治ったと思ったらまたこじらせとうとう気管支炎と診断され抗生物質にお世話になる。週末ようやく回復。長男と私だけ元気、と思いきや今度は私が週末数年ぶりに熱!

金曜日夕方頃から喉が痛い、と思いつつ土曜日早朝ブログに記事をアップし、友人に四輪車に乗せてもらいに。帰宅して調子悪、と思いつつもランチを作り自分は食べる気もせず横になる、熱を測ると39度・・・。頭痛間接の痛み、肺の辺りが重苦しく痛い。ああ、久しぶりこの感覚。う、動けない・・・。

さて、次女サイエンス・プロジェクト締め切り間近、レゴリーグ関係諸事、週末にとっておいた洗濯が山のよう、しかもあさってから夫5日間出張!何とか治さねば・・・。この熱の上がり方はインフルエンザだろうか救急行って早めに薬もらったほうがいいかな。夫3週間ひきずってたし、長女も1週間寝込んでたし、これほど高熱じゃなくても他の子達治るの2・3日かかってたし・・・。熱と痛みのなか朦朧としながらあれやこれや。

昼間からこんなまとまった時間横になれるなんて、子ども達も大きくなったなあ、などと思いながらも、「は~くるし~」と時折もれる声。咳は出てないのに胸周りのこの痛みの強さは一体?と思いつつとにかくどうにかしないととすがる思いで、色々試してみる。

ここからは、ちょっと怪しいと居心地悪く感じる方もいるかもしれませんが、私にとってはとても自然なことなので書いてみます。劇的に効いたのが、頭頂の「百会」からエネルギーをなだれ込ませ、身体の悪いものを足裏から出すという流れに集中するという方法。この「百会」からエネルギーが入ってくる時点で自然と呼吸を深く吸い込みたくなる。吐くと共に足裏から悪いものが出て行くイメージで繰り返す。鼻から吸い口から出す、腹を膨らませへこませ腹式呼吸の要領で。

しばらくして痛みが下へ下へと落ちていく。胸の痛みが腰へ、尾てい骨へ、ふくらはぎ、足首、そして消える。熱をはかると一度下がっている。のどの痛みが残っているものの、あとは軽く。少し眠り起きて夕食。結局夜もぐっすり寝、翌朝平熱。のどの痛みが残りまだ本調子ではないけれど何とかフル回転で暮らせるまでに。夫出張にでかけた2日目も普通に走り回り、3日目今朝、のどの痛みもようやく治りつつある。

何だか怪しい話に聞こえるかもしれませんが、実は数年風邪をひかなかったのも、少しひきかけたかなと思った時点でこの日々の「頭頂の百会からエネルギーがなだれ込み」を感じることで治ってきたと個人的には思っていて。家族以外に今まで具体的に話すということはなかったのですが。今回たまたま「MUGA」の8号の対談で読んだ、「足裏からぬけさせる」というのを試してみたら「入り込んだもののたまったままのものがすっきりとぬけていく感」がありました。

もし興味のある方は是非試してみてください。みけんの力を抜きリラックス、頭頂からエネルギーが流れ込んでくるイメージ、呼吸を深く吸い込みたくなったらエネルギーが流れ込んでます。

私自身この「百会」からのエネルギーに現実的生活の中でかなり助けられてます。疲れが吹き飛びリフレッシュできます。実際に身体に変化が起こることですし、科学的にもいずれ証明できるようになるのじゃないかと。ただ調子に乗って身体を酷使してはいけないと今回の経験から学びました。そして日々の食生活、生活習慣、適度な運動、マッサージ、睡眠、健康診断などで身体を謙虚に労わっていくことがやはり大切だと。

皆様の健やかなること願いつつ。

許すということ

2012-03-18 01:13:35 | 思うに
許す。あんなことをされたと何度も反芻して燻り続ける怒りの炎。相手にとってだけでなく、自分にとってもとてつもなく重い気持ち。許す、その途端目の前の景色が晴れ渡る。見えなかった地平が現れる。

どうしても「許せない」ときの究極の「こつ」は、「全てに意味がある」という考え方。相手は何らかのメッセージを伝えるためにそうしているのだという見方。メッセージを読み取り、次へと生かす。自身と「内の良心・無限」との問題。相手はまた相手自身の学びの過程にあり。

相手に何かをされることで痛みを体験したのなら、今度は自身が他者に対して決して同じようなことをしないと決める機会。そして同じような痛みを体験した人々の気持ちに深いところで共感でき、解決するためor/and同じことが起こらないようにと動き始めこともできるかもしれない。

ジョセフが兄によって奴隷に売られ、雇い主の妻の嘘により牢獄に閉じ込められ、それでも全てのことがあったからこそ結果的に多くの人々を飢饉から救うことになるという旧約聖書の物語を思い出す。それぞれがそれぞれの役割を与えられ動いている。許し、開かれた視界の中で起こり続けることを精一杯最大限生かしていく。

20年後の今、1つの着地点

2012-03-15 01:00:05 | 思うに
学生時代、市民運動団体のドイツ訪問に参加したことがある。ドイツと日本と同じ過ちを繰り返さないために、というのがその団体訪問の主旨だった。地方議員から草の根の活動家まで様々な顔ぶれに囲まれ最年少。現地の市民活動家や政治家との交流を通し、ナチの爪あとの残る様々な施設や旧東ドイツの秘密警察の施設を訪ね、マイノリティーに向けての新しい試み、環境問題への取り組みを見て回った後、被爆した広島の瓦をベルリンの市長に届けた。

その後二週間ほど一人旅をし帰国した後、「新個人主義を目指して」というようなことをその団体の報告記に書いた。欧米の「自分自分」と日本の「まずは人」と、よい部分を組み合わせ真に自分でありながら調和のとれる方法はないものだろうか。ナチや戦中日本、KGBなどの全体主義に陥ることなく、個が生かされつつ全体と調和的に繋がり創造へと向う方法、その方法をまずは勝手に「新個人主義」と名づけてみる、そんなことを19歳の拙い文で書いたのだった。(笑) 

「個と普遍」、「多様性と統合」、人類学の永遠のテーマでもある。

あれから20年近く(あ年が・・・)、自分なりの一つの着地点がこの「内の無限」という感覚だ。個の内での全体への繋がり。そんなことを言う「危うさ」も承知しつつ、希望を込めて。

この個の内で繋がる「全体」は、言語で書かれた教条的なものでなく単なる「エネルギー・温もり」。そのためどんな個の形にも流れ込むことが可能。そしてその個を真に生かす方向へと進む力をもたらす。進み方は個によって違い多様であるけれど全体と調和している。その様々な方向が合わさりあちらこちらに創造が生まれる。

「個人」というのは先祖代々を経て形作られ、この世に二つと無い唯一の形。そこに「内の無限」のエネルギーが流れ込むことにより、この一人一人違った唯一の形が真に生かされ始める。ひっそりと人目につかないところで真に生かされる姿もあれば、世間の注目を集める形で生かされる姿もあり、全くもって多様な表れ。ただこの世的な達成成功とはまた別のこと。その人と「内なる無限」との繋がりはその人にしか分からない。そのため互いに個への畏敬も生まれる。

感覚的確信。まずは自分自身がこの無限からのエネルギーをいかに体現していけるかだろう。結局はこの世でどう「体現」しているかということが大切であって、そこへいたる個人的な仕組みをこうして表す必要もないのかもしれないけれど、実際にこういった形で救われた私みたいなケースもあるということ、それを知ることで少しでも楽になる人がいるのならという願いを込めて。

キーは「自分だけのために」という視点を手放すこと、自分を最大限「使う」という感覚。一歩一歩進んでいきたい。

俯瞰という知恵

2012-03-15 00:59:34 | 思うに
子どもや夫婦や、密に向き合う人間関係に揉まれながら思うのは、相手と自分を超えた視点が必要だということ。相手と自分、だけではがんじがらめで埒があかないのである。

「神の下での契り」という知恵を思う。自身の内に自身と相手を超えた場がいる。究極的には「自分と神との問題である」という姿勢。プリンシプル。「神」は内の良心であり内の無限であり。

「問題が生まれた同じパラダイムで考えていてもその問題への解決策は生み出せない」

黙してグレーへダイブ

2012-03-09 00:41:10 | 思うに
子どもの頃は大人が汚く見えたものだ。世の中を悲しみ涙を流した何分後かには美味しい美味しいと目の前の食べ物に舌鼓を打っている。

生活していくということ。家族があるのなら養う必要もあり。座って見守るキラキラとした瞳の横で、強壮剤でも飲み干しながらカフェインで奮起しながら時にはアルコールで緩めもしながら身体を動かし続ける。やがて身体は汚れ瞳は濁り。

大人になって思うのは、それでもグレーに入り込まないことには何の動きも生まれないということ。グレーから白だけ取り出しいかに素晴らしいかを、グレーから黒だけ取り出しいかにダメかを並べ立てたとしても、実際の動きは生まれやしない。動きを生み出す「実践」はグレーなのである。

望みはそのグレーが向う「方向」。白に向う方向と、黒に向う方向と。そしてどこへ向うかの流れを生み出すのは、グレーに染まった実践者。

黙して頭を垂れグレーにダイブ。時折空を見上げる瞳が今は濁って見えたのだとしても、あのキラキラとした瞳を内にしっかりと抱きつつ。グレーの先の真っ白な光を見つめて。

それでも与えられたカードに向き合い

2012-03-03 00:59:09 | 思うに
コンピュータに向う時間を、レゴリーグのスポンサー募りの書類を整えたりあちらこちらとメールでやり取りしたり、というようなことに費やす今日この頃。書きたいことがたまっていくわけだけれど、今まで全く未知だった体験を楽しんでもいる。

会計士の友人と結構苦労して書き上げた「寄付金趣意書」をファンドレイジングを数多く行ってきた知り合いに見てもらったら赤線だらけで戻ってくる。なるほどこう書くものなのかと感心。内容は全く同じなのに少し言い回しを変えるだけで随分と書面の印象が変わる。言葉の力を改めて思い知る。こうして形にしたものが、様々な人々の意見知恵を盛り込み磨かれていく様、他と共に何かを作っていくことの力もひしひしと感じる日々。

銀行に勤める知り合いに「どれだけのことを成し遂げたのか、それが社会的にどんな貢献となるのか、スポンサーになることでその企業側にどんなメリットがあるのかを明確に」とアドバイスされる。チームのユニフォームやブースにスポンサー会社のロゴを入れるとして、今年の世界大会に集まると予想されている3万人1人1人の目にそれらのロゴが触れるとしたらその宣伝効果は?というような計算をしてみたり。

自分たちが必死で取り組んできたことをまた全く違った視点から捉え直す機会となっている。

スポンサー探しでよく聞かれるのが、「その企業の上層部に知り合いがいればスイスイといく」というような言葉。富は既に富のあるところへ集中するというような構造、を思う。そんな折り昨日レゴリーグとは関係の無い友人と話していて、お金持ちの集まりに出る機会があってね、というような話になる。豪邸に住み自家用機で別荘に出かけ、時に恵まれない子ども達への寄付金集めのためと豪華ドレスを着込んで社交パーティーを開く人々。「社会には勝者と敗者というのがあるんだ、結局はお金があればいい教育もしてあげられる、そしてその子ども達は社会的地位を再び得ることになる」と集まった人々が当然のように話していたと友人。

見方や考え方を変えたところで確かにそんな構造は存在する。生まれつきの社会的な不公平というのは確かにある。ゲームを始める前に与えられたカードがついてなかったりついていたりするように。といって構造は流動的なもの。そしてこれからはますます流動的になるのじゃないだろうか。昔を振り返れば階級ガチガチ構造は随分と崩れてきたもの。内から外からかき回すような面白い動きはどんどん生まれ、自身に与えられたカードで必死に最善を工夫している内に思わぬ結果を生み出すなんてチャンスも増えてくるのじゃないだろうか。

それでも究極的には例え結果がどうであれ、与えられたカードで自身の最善を尽くしたかどうか、が多分最も大切なのだろう。あと外からきらびやかに見えたとしても内には誰もがそれなりの問題を必ず抱えているもの。人のカードに見とれため息をつく時間を自身のカードをどう工夫するかに使う。工夫もままならない状況にある人々のためにも、目の前のカードで何とかできないかと必死に動いていこう、そんなことを話す午後。

こうして様々な話のできる友人に感謝しつつ。

TED、それでも今日も船を漕ぎ出し

2012-03-03 00:58:03 | 思うに
「TED ideas worth spreading(広げるに値するアイデア)」のスピーチをユーチューブなどで時々聞いている。世界中様々な分野で活躍する人々の3分間スピーチ。無駄な謝辞なんかをすっとばし本題に全力投球の3分間。巷に溢れたアイデアではない斬新な意見などが聞けることがあり面白い。

数日前日本人で初めて脳科学者の茂木健一郎氏がスピーチをした。シンプルで深い内容だった。日本の地震の状況、そして東北の漁師の「under the board, there is hell(船の下は地獄)」という言葉を伝える。大自然の恵みそして脅威。いつ何が起こるかわからない、それでも今日も漁師はボートを漕ぎ出す。そんな漁師の姿勢を、いつ何が起こるかわからない「偶有性(contingencies)」の世界へ漕ぎ出す私達に重ねていく。

大漁旗を振りかざし顔には微笑みを浮かべて。
日本の復興を祈りつつ。

「ブリコラージュ(bricolage)」

2012-02-25 02:37:08 | 思うに
「ブリコラージュ」という言葉を初めて聞いたのは学生時代、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの著作『野生の思考』を読んだ時のことだった。

「ブリコラージュ」というのは「その場で手に入るものを寄せ集めて、何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ること」(ウキペディア)。

レビストロースは「未開」とされる人々が、いかに古くからあり現代にも行き渡ったこの普遍的知のあり方「ブリコラージュ」に基づいた思考をしているかを明らかにしていった。そして近代以降の無からものをつくろうとするエンジニアリングの思考と対比させる。

アラスカという手に入るものが限られた地で5人の子どもを抱え経済的にもそれほど自由のきかない主婦という立場に暮らしていると、「とにかくまずはあるもので何ができるか」、そんな「ブリコラージュな姿勢」がすっかり身についていく。限られた素材でどう食べたいものを作るか、限られたリソースの中でどう楽しむか、限られた資料のなかでどう考えていくか、目の前に並べられたものにあーだこーだと取り組みながら工夫していく。既にあるものの寄せ集めから、全く予期しなかったものが立ち上がる瞬間。そんな驚きほど嬉しいことはない。


先日、レゴ・ロボット「マインドストーム」開発者の1人シーモア・パパート(Seymour Papert)について読んでいて、久しぶりに「ブリコラージュ」という言葉に出会った。元々数学者だったパパートは教育心理学者ピアジェとも交流が深く、教育の分野でも活躍。「マインドストーム」の基となるプログラミング言語「ロゴ」を開発し、コンピューターをどう教育に生かしていけるかを60年代から模索してきた人物。

パパートは「挑み(try)、試し(test)、遊びまわる(play around)ことを通して学んだり問題解決したりする方法」を「ブリコラージュ」とする。あれやこれやと目の前にあるものをいじくり回し遊ぶことが、学習・問題解決に繋がる。子ども達をみていてまさしく、と納得すること。


新しいもの新しいものと外へ目を向けずとも、既にあるものをこねくりまわし組み合わせていくことでとてつもなく新しいものができることがある。驚くような可能性の芽は実は身近な周りにもう既に転がっているのかもしれない。