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靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

サルサに沈んだ蓋、曖昧な記憶

2012-08-08 00:28:02 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
「誰だ、こんな蓋の開け方をしたのは!?」

リビングルームの子供達がいっせいに夫の手のサルサの器を見る。上蓋が半開きになり、入れ物の縁にそって半分だけはがされた薄い透明の内蓋が、垂れ下がって赤いサルサに沈んでいる。

「僕じゃないよ」「私じゃないよ」子供達が口々に言う。
「じゃあ一体誰なんだ」

就寝時間間近のこと。誰かが本当のことを言っていない、疲れた夫がイライラし始めているのが分かる。子供が嘘をついている時というのは、その仕草や表情からだいたい分かるものだけれど、どうも本当に知らないよう、横から見ていて思う。

記憶をたぐりよせる。週末に購入して、冷蔵庫の隅におさめて、3日ほど前にサルサを食べようとして見たら上蓋に乗っていた豆のディップが横に転がっていたんだった、それでなんで豆ディップがサルサの上から落ちてるんだろうと思って・・・、そこで記憶がぷつりと切れる。あの時・・・、ひょっとして私がサルサの内蓋を開けた・・・?

パジャマに着替えるようにと子供達を各自の部屋へ送り、夫と話す。

「私かもしれない」
 ぽかんとする夫。
「覚えてないんだけれどね」と言いながら記憶がはっきりあるところまでの様子を説明する。
「その後急いでぱっと内蓋開けて、そのままになっていたのかもしれない。○○(次男)が泣いたとかドアのベルが鳴ったとか鍋が吹き零れたとか兄弟げんかが始まったとか電話だとかでぱっとその場を離れて忘れちゃったとか。全然覚えがないんだけれどね」

普段、あれやこれやと同時に様々なことが起こり、その時取り組んでいたことを途中で忘れてしまうということはある。

「マチカ、フライパン火にかけたまま電話に出て忘れちゃったりとかそういうことあるものね。なんだマチカだったんだ」眉を上げながら夫。
「あのサルサどうもママだったらしい」「ママだったんだあ」「もおママたら~」「ママおっちょこちょいなとこあるものねえ」着替え終わった子供たちと夫が笑いながら話している。

そんな言葉を聞いているうちに、そうだ私だったんだ、と思い始めている。あの途切れた記憶の後に、次男が泣き始めサルサを半分開けたまま泣いている次男のところに駆けつけ抱き上げる自分の映像が繋がっていく。ああ私が開けたんだ。

記憶ってこんなに曖昧なものだったっけ。そんなことを思いながら、自分の内のあやふやな記憶が、いかに周りの状況によって作られていくかということに我ながら驚く。サルサを冷蔵庫の隅に見つけた後の曖昧だった記憶が、今は鮮明に描かれている。思い出したというより、継ぎ足されたという感覚と共に。

記憶の蓄積によって「私」が作られると聞いたことがある。記憶を寄せ集めることによって「私はこうだ」という今の「私」ができあがる。だとしたら、まだ生まれて間もない子供の「私」とは、膨大な記憶を持つ大人の「私」よりも、随分と曖昧なものだろう。子供の「私」はあちらに揺れこちらに揺れている。まだまだ作り始めたばかりの「私」。そんな「私」が周りの状況によって作り変えられるということは容易い。曖昧な記憶が、容易に作り変えられるように。

周りの人々の一つ一つの言葉・態度が子供の記憶に刻まれその子供の「私」(自己意識)を作る。子供に向き合う姿勢、その大切さを改めて思った夜だった。


翌朝、そんなことを長男と話す。

「ママのサルサの記憶みたいにね、周りによって曖昧な記憶が作り換えられるなんてことは、しょっちゅうあるのかもしれないね」
首を傾げながら聞いている。
「『私』というような曖昧な記憶も。これからも周りの色々な人が、色々な『あなた』を差し出してくれるだろうけれど、そんな『あなた』にはまり込まず、『あなた』を作り続けていってね。ネガティブなものもポジティブなものも超えて。毎日リセット。『あなた』になり続ける過程に終わりなんてない」
「サルサの蓋からそんな話になっちゃうの?!まあ僕なりに覚えておくよ、そうだ、ちゃんと『記憶』しておくね」
笑いながら立ち上がると、背伸びしながら寝室を後に。

そんな週末の朝。


(ちなみに、サルサは味見してみたところ少し変、ひょっとして購入する前から内蓋が開いていたんじゃないか、ということで落ち着つきました。)

「修理工」

2012-02-12 01:06:01 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
昨夏からレンジの調子が悪く、何度も業者を呼んで直してもらっている。またうまく熱っせなくなり、一昨日は新しい業者を呼ぶ。

白髪の修理工と杖をついたひょっとして90近いかもしれないと思える父親と、男性2人。父親の方は修理する息子を台所で立って見守りながら、常に携帯しているという犬用のスナックをポケットから取り出しては、嬉しそうに家の犬にあげる。どうぞお座りくださいと言っても、「いや、わしゃ立ってるのが好きでなあ」と。

レンジを吟味し、部品をはずしていく。部品をはずしていくにつれ、吹きこぼれや普段手の回らない汚れが露になっていく。「こういうこびりつきや汚れは火事の元になって危ないですからふき取るようにして下さいね」そう笑顔で横に立っている私に話しかける。

故障の原因が中々わからない。予想していたよりも大掛かりな部分までねじをはずす必要が出てくる。杖を片手の父親は顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに犬や走り回る下の子2人に話しかけている。なかなかうまくはずせないよう。「同じメーカーでも違う型だったら接続はこうなっているはずなんだが」そうつぶやきながら難しい表情になっていく修理工。「馬鹿げてる!(stupid)」というような言葉も聞かれるようになる。ようやく開けようとしていた箇所が開く。焦げのかすがパラパラと表面に落ちている。その途端切れ怒鳴る。

「だいたいなあ、見せる前にきれいにしとくべきだろ!」

一瞬、凍りつく私。子どもが周りにいないのを確認。父親の顔からはあれほどの笑顔がさっと消え私と目を合わさないよううつむいている。

怒りが湧き起こる。元々結構激しい性格なので、手当たり次第周りにあるものを投げつけ棍棒で叩くなりして家から引きずり出したくなる。「あんたにねえ、そんな言われ方をされる筋合いはない、レンジの部品をはずしてかりかりとこびりついた焦げを取るなんて時間ありゃしない、しかも旅から帰ったばかりだっていうのに、5人の子どもに揉まれる生活を経験したことがあるんかい、2人でさえどれほど相手が必要か今だって周りを見回せば分かるだろうに、ああやだやだ目先のことしか見えない想像力のない人っていうのは」内に溢れる怒りの言葉を聞き続ける。

無言で金だわしを手に取り、修理工の横ではずされた部品を磨き始める。当てつけの気持ちもあり、かなり手に力が入る。ゴシゴシカリカリゴシゴシカリカリ。父親は杖を手に固まっている、修理工はしかめっ面で故障の原因を探している、私は無表情で手を動かしている。子ども達のキャーキャーという声が響く。祖父と父と娘くらいの年代の大人達が、口を結び険しい顔をして台所に立っている・・・。

アラスカの風の吹き荒れる島々で長い間肉体労働していたという、ジャケットをハンガーにかけようと申し出たら「汚いからね」と笑いながら床の上の汚れた道具箱の上にさっと落とした、「今日はワイフを仕事に送っていかなくてはならなくてね」そう窓の外を眺めていた、「直らなかったら半額しかお金は取らないから」私の目をまっすぐと見つめて言っていた。いくつか来てもらった業者は当たり前のようにたとえ直らずともこの修理工が提示する何倍もの金額を取っていったのだった。手を動かしながら、修理工が家に入って来てからのそんな様子をぼんやりと思い出す。

確かに直しに来て貰うんだからもう少し時間かけてきれいにするべきだったかな・・・。

そう思った途端、すっと力が抜ける。もう一度切れようものなら帰ってもらおうと決めながらも、修理工の隣で銀色の表面を磨き上げていく。

重苦しい雰囲気が、金だわしのリズムに合わせ少しずつ軽くなっていく。故障の原因が分かり、レンジも輝き始め、父親の顔にもまたあのくしゃくしゃの笑顔が戻ってくる。

一仕事終え、「ああワイフの迎えに遅れてしまう」そう慌てながら靴を履く修理工。立ち上がると、握手を交わした。「Thank you」そう心から言っている自分に少し驚く。大きく頷いた修理工の顔には、父親と同じ笑顔があった。

小説「砂漠の紅」(仮題)5、推敲中

2011-09-04 04:34:52 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
 次第に冷たくなっていく父の横で、工場長は車を貸さなければよかったと泣いた。父と母は高校を卒業してすぐに工場で働き始めたのだった。結婚して、私が生まれ。

 私は六畳が二部屋と台所があるだけの古い長屋の家で大きくなった。学校から帰って鍵を開けると、湿った畳の匂いが鼻をつく。西日が差し込み始めると、父と母が自転車で戻ってくる。リンリン、リンリン、父は私に帰ったことを伝えるために玄関先で自転車のベルを鳴らした。私は持っていたものを全部放り投げて立ち上がる。夕日を纏った父と母が玄関に立っている。私は二人の顔を見て工場での一日を想像する。機械がうまく動かなかったのかな、帳簿の計算が合わなかったのかもしれない、今日の工場長はとびっきりご機嫌だったんだろうな。父は作業着を着替えるとテレビをつけた。父の頭はスクリーンと台所に立つ母の背中を行き来する。夕焼けに染まった畳の匂いが、鍋から立ち上がる湯気に包まれていく。

 リンリン リンリン 

 アリーがベルを鳴らしている。沈み始めた太陽に照らされた自転車が茶色に見える。もう誰も乗ることのないだろうあの茶色い自転車。

アリーとエリックは少し盛り上がった丘の上で立ち止まり、振り返って手を振る。オレンジ色の蛍光ペンでくっきりとなぞったようなシルエットが二つ並んでいる。私は熱の冷めつつある砂の表面に足を踏み出し、真っ直ぐ歩いて行く。

「もうすぐよ」

 二人の体温をかすかに感じられるほどの距離に来ると、アリーはそう言って水筒を差し出した。温度の保たれた冷たい水を飲みながら、アリーの背後からまぶしい光が漏れているのに気がつく。アリーの後ろを覗き込むようにして見てみる。あっ、と声を上げた。オレンジ色の砂の上に大きくあいた光の穴。

「オアシス」

 アリーは嬉しそうに何度か肯くと、少しはしゃいだ声で言った。

 砂漠中の光という光を集めたオアシス。太陽が地平線に近づくにつれオレンジ色だった空はピンクから水色へそして紫へと変わり始めている。それでもオアシスは不思議なほど輝いたままだ。光というのは太陽からやって来るのではなく地球の奥底から発せられるのじゃないだろうか。太陽が沈んで辺りが闇に包まれてもオアシスは光り続けるているのかもしれない。丘の上に立ち続け夜のオアシスを確かめてみたいという気持ちになっている。

 ふと、胸の奥から湧き上がる感覚に気がつく。それは子供のときに走り回った空き地、雨上がりの砂場、長屋の路地で夕涼みする老婆たち、そんな光景を思い出したときの感覚と似ている。あの『懐かしい』という感覚。なんでだろう? 砂漠に足を踏み入れるのだって、オアシスを見るのだってこの旅が初めてなのに。目を凝らしてようやくとらえられる小さな小さな点のようだったその感覚は、次第に大きな円となっていく。そんな感覚はただの思い過ごしなのだと目をそらしてしまうには、もうあまりにも大きくはっきりとし過ぎている。

私はその『懐かしい』という感覚にとまどいながら、オアシスに向かって歩き始めた。

(一章終わり)





小説「砂漠の紅」(仮題)4、推敲中

2011-08-24 03:34:51 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
 父も母もどこへ行くにも自転車だった。母は薄い紫色の自転車、父は古くて茶色のところどころ錆ているのがカモフラージュされたような自転車。母と父の背中にしがみついて後ろに乗るのが好きだった。母はいつも洗いたてのコットンのようのような匂いがした、父は油や塗料の入り混じった工場の匂い。

  あの日、父は工場長に車を借りた。桜の花を見に行くために。白い軽の小さな車。

 二年前に一人暮らしを始めるまで、私も毎年父と母と花見に出かけたのだった。桜並木を父と母に挟まれて歩く。小さな頃はいつも手を握っていた。柔らかくて白い母の手と、角ばって茶褐色な父の手。見上げると木々が淡いピンク色の綿菓子のように見えた。そのピンクのフワフワとした塊は風に揺れ、時々小さな結晶を空に撒き散らす。木々から離れた小さな結晶たちは陽光に照らされチラチラと光りながら地面に積もっていく。ピンク色の布を敷き詰めたような道が、ままごと遊びの始まりを知らせているかのようにも見えた。私は母の手にもたれたり、父の手を引っ張ったりしながら歩いていく。

 歩きながら母はいつも決まって「お父さんとお母さんが初めて約束をした時」のことを話してくれた。私は淡いピンク色に囲まれて聞くこの話が好きだった。母が工場で働き始めてまだ一ヶ月もたっていなかった頃の話。「父さんはね、とても静かな人だったの」母はそう話し始める。私の頭の中には工場の茶色い景色が広がっていく。母が工場の二階にある事務所から階段を下りて行くと、最後の段につま先をつけるようにして父が立っている。父の目は母にぴったりとくっついて一緒に階段を下りていくかのように母の足のリズムに合わせている。母は父の視線の中で普段よりも少しゆっくりと動く。母がちょうど階段の真ん中あたりに来たとき、父は大きく息を吸い込み、工場に響く機械音が一瞬ぴたりと止まってしまったかのような大きな声で「桜を見に行こう」と叫んだ。父はそれだけ言うと母に貼り付けてあった視線を床に落とし、少し後ずさりしてそれっきり黙ってしまう。

「その時にね、初めて父さんの声を聞いたのよ」母は私の顔を見て笑った。
「最後の段に立って父さんと同じ目の高さになったとき、下を向いている父さんの顔を覗き込んで聞いたの、どこの桜?って」
 私の手を握り静かに笑っている父の顔を覗き込みながら母は言う。
 そうして父と母が出かけたのが高田川だった。初めて父と母が出かけてから今年は何回目の桜だったのだろう。私が生まれ三人となり、そしてまた二人となって。

 あの日、あと三十分も走れば高田川に着くという国道で、父と母の車は対向車線を走ってきた大型トラックと正面衝突した。父は飛び出して来た女の子を避けようとしたのだと、まだ歩き始めたばかりの女の子だったと警察の人が言っていた。母は事故の現場で一瞬にして、父は病院で翌日亡くなった。私は病室で意識のない父の手をずっと握っていた。最期に父は少しだけ目を覚ましたのだった。私の顔を見ると「母さんは?」と聞いた。私は何も言わず頷くだけだった。父は私の手を握り締めるといつもの優しい目を向け、そのまま眠るようにして息をすることを止めてしまった。


 砂の表面へ踏み出すつま先を見つめながら、長く長く息を吐き出してみる。砂漠を歩いている私。少し先にアリーとエリックの背中がある。乾いた砂の曲線はどこまでも続いている。この砂が潤うということはない。地球の二分の三が水で覆われているなんて、旅に出たことのない誰かが小さな閉ざされた部屋で夢見た作り話しなのじゃないだろうか。今の私の心の中を覗いてみるのならこんな感じなのかもしれない。私の身体だって二分の三は水でできているという。なのに私の心はどこまでも乾いている、ちょうどこんな砂漠の風景みたいに。

ショートショート『穴の住人』

2011-08-12 23:59:14 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
アラスカをイメージしたショートショート『穴の住人』 (無料メールマガジン「MUGA」掲載)

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『穴の住人』


「ミチにはね、私と同じような穴が開いてる、ちょうど子宮のこのあたりに」

しゃがみこんでベリーを摘む私の目の前に、ヤナは突然座り込んでそう言った。そして私の下腹部を指差すと、その手を固く結んで自分の臍の下あたりに当てた。開いていると柔らかそうなのに、握ったとたんゴツゴツとした石のように見えるヤナの手。まるでヤナと私の身体にぽっかりとあいた穴を、立体的に表しているかのようにも見える。

私は立ち上がり、ヤナの隣に座った。斜面を見下ろすと、はるか下にヤナの赤い四輪駆動の車がミニカーのようにとまっている。ベリーを摘んでいると、距離を忘れてしまう。青紫や黒、時には赤いものも混ざったベリー。まるでカラフルな絵の具がたっぷりとついた筆を辺り構わず振り回したかのように、あちらこちらに散らばっている。その散らばった点をつなぐ様に姿勢を低く低くして進んでいく。一粒一粒をつぶさないようにそっとバケツの中へ入れながら。バケツの中にぎっしりと詰まったベリーは、まるで点を集めて描いた抽象画のよう。

「私が初めて穴に気がついたのはね、父が亡くなった翌日。私が11歳のとき。父はアル中だった。真冬にバーで飲んだ後ね、道端で眠り込んでそのまま。嬉しそうな顔してたのよ。きっと気持ちよく逝ったんだろうね。父が死んで翌朝目が覚めたら、私の身体に穴があいてたわ」

ヤナはそう言うと私の目を見、少し肩をすくめた。

「穴を埋めるために色んなことをしたのよ。少し大きくなってからは何人もの男の子と出かけてみたり、お酒やドラッグも。一瞬は消えたように感じることもあったのだけれどね、セックスの最中や、酔っ払って気持ちよくなってるときなんかにね。でも埋まってなんかいやしないって、すぐに気がつくの」

アサパスカン(※)の血を引くヤナの黒髪が、ヤナの背筋に沿ってまっすぐと伸びている。黒く長いまつげに縁取られた瞳は、澄み切っているのに底が見えない泉のよう。褐色の肌は太陽の光を吸い込むたび、徐々に輝きを増していくようにも見える。

「もう穴を埋めることに疲れちゃってね。もういいやと思って、ある日諦めたの。それでね、穴の中に入ってみたの」

「穴の中に?」

私がそう聞くと、ヤナはいたずらばかりしている子どものような表情をして続けた。

「うん、それまでは穴を無くすことばっかり考えてたんだけれどね。入ってみるとそこは静かで、本当に静かで。ゆったりと穴の中に横たわってるとね、だんだん温もりが体を包み始めて。私笑っちゃったの、何で今まで穴から逃げることしか考え付かなかったんだろうって。私、今では『穴の住人』なの」

ヤナはそう言うと、静かに微笑んだ。

私は真っ白な穴の中で眠るヤナを想像してみる。膝を抱え丸まって眠るヤナ。



山を下った先に海が見える。オレンジ色の太陽が光り輝く水平線に近づいている。水をつけすぎた筆で描いた虹のように、空と海面が赤から紫へのグラディエーションに染まっていく。くっきりとした輪郭を保つ太陽が、色の境界を失った水彩画を切り取った『穴』のようにも見える。

一瞬、そんな太陽の中に、並んで座るヤナと私が見えたような気がした。



この物語は全てフィクションです。

※アサパスカン:アラスカ内陸部に住む先住民。

アンカレッジ周辺では8月に入ると様々なベリーに出会います。ジャムにしたり、マフィンに入れたり。
食べられるベリー種: 青紫 ― ブルーベリー
黒 ― クロウ・ベリー
赤 ― ラズベリー、ハイブッシュ or ロウブッシュ・クランベリー 、
ウォーターメロン・ベリー
などなど

小説「砂漠の紅」(仮題)3、推敲中

2011-08-05 00:03:06 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
「彼がエリックで、私はアリー」

 アリーは私の方へ向き直りそう言うと、目の前に右手を差し出した。握りしめると茶褐色の指がすっぽりと私の手を包む。エリックは私の方を見ながら軽く片手をあげた。

「アリーはここで生まれ育ったの?」

 エジプト人の名前のバリエーションの少なさというのを聞いたことがあった。確か『アリー』は全部で十もあるかないかの名前の内に入っていたのだと思う。

「生まれ育ったのはね、カイロの近く。ここらあたりよりは随分と町ね。ヨーロッパに留学してね、それでエリックに出会って。もう二十五年近くロンドンに二人で暮らしてるわ」

 アリーはそう言いながらエリックの方を見てウインクした。エリックは何も言わず、初めて会ったときから絶やすことのない静かな微笑みを浮かべている。

「エリックは、ヨーロピアン?」

 私はまだ一度も声を聞いたことのないエリックの顔を見ながら聞く。

「ああ、ロンドン生まれロンドン育ち」

 喉に何かひっかかってているようにも聞こえる少ししわがれた声で、エリックは答えた。平たさを感じないイギリス英語の発音が耳に響く。

「君の名前は?」

 肯いている私を見ながらエリックが聞く。

「コウと言います。チャイニーズキャラクターでredという意味のコウ」

 自分の名前を言うたび「色の紅(べに)と書いて」と説明する。その癖でいつもの自己紹介を英語に訳している自分に気がつく。エリックとアリーは、「クオウ?」と、英語を母国語とする友人がいつも私を呼ぶのとそっくりの発音で私の名前を繰り返した。

「あんたはレッドというよりは、淡いピンクという感じよね」

 アリーは少し身体を後ろに引き、私の全体像を捉えるかのようにしながら言う。そしてふいに立ち上がると、大きく背伸びをした。

「そろそろ帰る?」

 アリーはエリックと私を見下ろしながら気持ちよさそうな笑顔を浮かべて言った。エリックは長い枝のような足を伸ばして立ち上がる。私は膝の上の水筒を握り締めた。



 少し丘を上ると、自転車が二台並んでいる。

「ここから歩いて帰ると一時間くらいね」

 アリーはそう言いながらマジェンダ色の自転車を引いて歩き始める。

「あ、私なら大丈夫。歩いて一人で帰られるし」

 私はアリーとエリックを交互に見上げながらそう言い、肯いて見せた。

「夕暮れの砂漠歩いてみるのも、いいものよ」

 アリーは私の顔を見ながらそう言うと、私の返事を待たずにエリックと二人で歩き始めた。二人についていく。二人の背中を見ながら一歩一歩足を踏み出すたびに、胸の奥の窮屈に縛られた部分がスルスルとほどけていくような気持ちになる。

「オアシスにつく頃にはちょうど夕食の時間。乾杯しましょ、よく冷えたワインで」

 アリーは振り向くとそう言い、ウインクした。閉じられなかった片目が、まるで砂漠に暮らす草食動物のように優しく見える。筋肉の硬さより脂肪の柔らかさを感じるアリーの腕や胴体は、痩せたエリックに比べると二倍も大きく見えた。エリックは濃いグリーンの自転車を引きながら、時折空を仰ぐ。降り注ぐ光の源を、確認するかのように。

小説「砂漠の紅」(仮題)2、推敲中

2011-07-29 23:59:28 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
 額に不思議な感覚がする。その感覚は額から両側の耳へと二手に分かれていく。顔の側面を伝う流れに、もう枯れてしまった涙を思い出す。額に感じているのは『水』なのだろうか。砂漠の真ん中で? ああ、境界を越えてしまったのだろうか。こんなにするりと? ここはあちらの世界? 

 まぶたをゆっくりと開いていく。目の前に顔が二つある。

「あらっ、生きてるじゃない!」

 上唇の少し上に髭を生やした男が叫ぶ。そして私を挟んで反対側にしゃがみこんでいる白髪の男と、ほっとした様子で顔を見合わせた。

「あんた、こんなところで何してんのよ?」

 眉間に皺をよせ少し顎を突き出しながら髭の男が言う。

「あ、太陽に当たってて」

 私は瞬きを繰り返しながら、自分でも間抜けな感じだと思いながら答える。

「はあ~?」

 髭の男は大きく開けた口をゆがめてそう言うと、もう一人の初老の男の方を見て肩をすくめた。

「あ、太陽に当たるために砂漠に来たんです。日本から」

 着飾ることを忘れた言葉しか出てこない自分に気がつく。不意に起こされたためか、砂しか見えない景色のせいか、それとも普段しゃべりなれない英語だからか。

「てったってねあんた、死んじゃうわよ、こんなとこでこんなことしてたら」

 髭の男はそう言いながらスチール製の水筒を差し出し、少し頷くようにして私に飲むよう促す。私は上半身を起こし、水筒の中で揺れる水を飲んだ。髭の男は私の横顔をじっと見つめている。

「あんたさ、砂漠で死ぬってことがどんなことか分かってる? 苦しいなんてもんじゃないのよ~、体中の水分が干上がってくんだから、悶えて悶えてやっと死ねるのよ」

 髭の男は砂で覆われた地平線に視線を移しながら言う。

「火にあぶられるよりは楽かな」

 私は記憶の中にじっと佇んでいるような男の表情を見ながら、つぶやくように言った。

「どうなんだろ。私は砂漠の隣で育ったから何人も見てきたわ、砂漠で死んだ人を」

 男は火にあぶられることについてなんて考えたこともないけれど考えたいとも思わない、というような口ぶりで言う。私はうつむいて黙っている。

「私たちの住んでるところもね、太陽が遠いのよ。こんなに近く強く感じられないの。だからわかる気がするわ、あんたの言う『太陽に当たりに来た』っていうの。でもね、『当たり方』ってのがあるんだから」

 男は記憶の扉をパタンと閉めたかのように少しトーンを変えた声でそう言うと、私の顔を覗き込みながら言った。

「太陽が遠い?」

 私は顔を上げ、髭の男と同じ高さに目線を合わせて聞く。

「そう、だからねエリックと二人でここに来たのよ。バケーションよ。私にとっては里帰りだけれどね。南の明るさのなかで一気に元気になりに来たの」

 男は少し頬のこけたもう一人の男の方をしばらく見つめてそう言うと、顔を上に向け雲ひとつない空を抱きかかえるかのように両腕を広げた。



(続く)

小説「砂漠の紅」(仮題)1、推敲中

2011-07-20 01:27:30 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
 金色の砂が風にふかれ、真っ青な空に舞い上がる。ついさっき水筒の底に張り付いた最後の一滴の水を飲み終えたところ。空っぽになった赤色の水筒はあまりにも軽すぎて、手を放せば今にも空の彼方に消えていきそう、風船のように。

 もう歩くのやめてしまおう。

 砂の上に空を仰いで寝転がる。熱を含んだ砂が背中に当たる。まるで砂の一粒一粒が目に見えないほど小さな粒子となって、服を皮膚を通りぬけ身体の奥深くまで入り込んでくるかのよう。こうして寝転んでいれば、やがて死んでしまうのだろうか。熱いだろうけれど、炎に炙られるのに比べたらずっと楽に、痛みもそれほどなく眠るみたいに死ぬことができるのだろうか。身体中の水分が蒸発し、徐々に軽くなっていくのを想像してみる。浮かんでいく、赤い風船みたいに。

 両手で砂を掴み、真っ直ぐ伸びることしか考えなかった幹のように、高く高く空へ掲げてみる。サラサラと落ちる砂の粒がいくつもの小さな光を放ちながら、胸のあたりに積もっていく。一粒一粒の砂が集まって、こんな果てしのない砂漠が出来上がっている。見渡す限りどの方角を見たって砂しか見えやしない、気が遠くなるくらい広大な砂漠。


 目を閉じると、黒と白に彩られた部屋が見える。仲良く並んだ二つの棺。棺と棺の間には、ちょうど私の手の平を広げたサイズの隙間。私は静かに横たわる父と母をすっぽりと包んだその二つの直方体の入れ物の間に、そっと手を差し入れてみる。父と母の手の温もりが、私の手を包み込むのを待つかのように。
 二人ともきれいな顔をしていた。体の損傷は結構なものだったらしいけれど、「頭部は奇跡的にほとんど傷がないんですよ」と解剖医が言っていた。死に化粧はほとんどする必要がなかった。丁寧に塗られた白粉と頬紅、母が化粧をするのはどこか特別なところへ出かける時だけだった。あの日は母にとって特別な日だったのだろう。どんなに楽しみにしていたか、あの高田川の桜を父と見に行くことを。
 父と母が見ることのなかった今年の桜も散り、梅雨がやってきた。いつもうっとおしく思う雨続きの日々も、今年は心地よく感じた。まるでぬぐってもぬぐっても湧き出てくる痛みを洗い流してくれるようで。灰色の雨雲がまぶしい真っ白な雲と入れ替わり始める頃、私は日本を出た。雨の全くない地へ、太陽の光を何一つ遮るもののないこの砂漠へ。

洗い流すのが無理ならば、焼き尽くすのはどうだろう?


 目を開け、砂漠にいる自分へとゆっくり戻ってくる。まっすぐ見上げた先から少しずれたところに太陽がある。再び目を閉じ、首をゆっくりと左右に揺らしてみる。まぶたの上を熱が動く。太陽の中心からのびた光の筋は、まぶたに触れるたびそれが中心からの光なのだと分からせる一際高い熱を帯びている。この光の筋を身体中にあてていこう、足の先から手の先まで、皮膚を突き破り内臓の一つ一つまで、胸の奥の照らしても照らしても一瞬にして吸い込まれていく闇へ。

 このまま横になっていたら、いつしか境界を越え、また父と母に会えるのだろうか。あの母の飾り気のない笑顔と、あの父の薄汚れた作業服の匂いと。明日の新聞には「日本人の女が砂漠で行方不明」という見出しがでるのかもしれない。赤い水筒しかもってなかったらしい、日本のどこかの町に散歩にいくつもりでいたのだろうか、今時の日本の大学生、なんて笑われたりもするのだろうか。一瞬眉をひそめ、人々はまた日常のリズムに戻っていく、何事もなかったように。そもそも私がいなくなったからって私のことを話題にする人なんているのかな。悲しんでくれる人? 一体私がいなくなったということに気がつく人が何人いるのだろう、あの東京から私がいなくなったことに。

(続く)

えっ、記憶!? ある会話

2011-06-15 01:45:08 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
A: えっ、記憶? 私たちは“記憶”の話をしていたわけじゃない。頭の中に浮かぶイメージを言葉にしていただけ。“想像”していたのよ。

B: その“頭の中に浮かぶイメージ”が記憶でないってどうして思うの?

A: 記憶っていうのは過去に起きたことであって、私たちが今話していたことは過去に本当にあったことじゃない。

B: “過去に本当にあったことじゃない”、って、何で分かるの?

A: う~ん、本当にあったということもあり得ると? 

B: 想像が“頭の中に浮かぶイメージ”というのなら、記憶だって想像だって大して変わらないよ。

A: 記憶は過去のことで、想像は今新しく創造していくもの。

B: ああそういえば!って今まで意識になかったことを“新しく”思い出すことってあるでしょ。それは今新しくイメージを創り出しているともいえないかな。記憶と想像には境が曖昧になって重なる部分があるんだよ。

A: “想像”が実は何かを思い出している場合もある? 分るような分らないような・・・。

春の季語とロシア料理

2011-03-20 23:00:52 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
俳句を作る友人達の集まり、私は半年ぶりの参加。

春の歳時記を片手に久しぶりの俳句。

こんなときに、と、こんなときだからこそ、が入り混ざった気持ちを胸に。

料理のテーマはロシア料理。テリーヌ、ピロシキ、ボルシチ、ビーツとジャガイモの和え物、ラム肉ご飯などが集まる。



境界を越えて向こうに春の闇    

最果ての扉を開けて春の空

借りモノの野性を浮かべ春の水

前言をひるがえしての春満月

春の雲伏し目の犬とフェミニズム

ある会話、フィクション

2011-02-28 00:59:37 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
A: 形はいずれ無くなる。

B: 形?

A: 形を越えるために形を壊す必要などない。

B: 形とは肉体のこと?

A: 肉体は形の一つ。形は感覚でとらえられるもの全てだ。

B: 雪、石、木、潮の匂い、波の音、夕焼けの温かさ、私の肉体、私の感情、私の思考・・・

A:“私の”なんてものはない。“私”が所有するものなど何もない。

B: 私の肉体でさえ? 私の感情でさえ? 私の思考でさえ?

A: そう、何も。

2010-10-29 23:38:55 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
兵士に混ざり 地を這って 赤い石を集める男

隣家の騒ぎに つま先立ちで 黄色い石を捨てる女


金属の柔らかさに 砂塵を従え

模倣した髪質を 手袋に包み込み


祭器を満たす羊水に

彩雲の音色を抱きつつ


留ろうとも 進もうとも 

最果ての灯台


楼船の速度で掲げた両腕に

初雪の温もりを指に絡め


氷に埋もれた緑の石は

もう探さずとも此処に在る