靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

罪の意識を昇華するということ

2013-09-01 08:24:15 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。

罪の意識を昇華するということ(“The Art of Transformation”By YY Jacobsonを参考に):
 
 ユダヤの新年は毎年九月頃(ユダヤ暦に則っているので現在世界各国で用いられるグレゴリオ暦では毎年ずれる)。新年の祝い「ロシュ・ハシャナー(Rosh Hashana)」では、海や川などの水に贖罪を流す「タシリー(Tashlich)」と呼ばれる風習がある。水を前に祈り、パンの屑を流す。

その九日後には、「ヨム・キッパー(Yom Kippur)」という「悔い改めの日、裁きの日」。二十五時間断食。

その五日後から「スコット(Skott)」。「スッカ」という四方を板で囲われ天井を枝などで覆われた小さな小屋のようなものが建てられ、天候が許すならその中で一週間ほど寝起きする。

この新年の一連の流れは、「畏敬(awe)による悔い改め」と「愛による悔い改め」を象徴しているとされる。

それはちょうど聖書にある「左手で押し、右手(利き手)で抱える」ということでもあると。

畏敬による悔い改め」では、必ずしも罰を恐れるといったことでなく、より高く正しいものに対する畏敬の念を基にした悔い改め。これが断食を伴う「ヨムキッパー」に当たる。そして、「畏敬による悔い改め」により、犯された罪は、例えそれが意図的で悪意に基づいたものであったとしても、「過ち(mistake)」に変わる。「過ち」という許される部類の罪に。

愛による悔い改め」は、周り、自分、天に対する「愛」を基にした悔い改め。これが屋外で食べ眠る「スッカ」に当たる。そして「愛による悔い改め」により、犯された罪は、「善行(Mitzvah)」に変わる。


つまづき、失敗し、罪を犯したことがない人などいやしないだろう。一瞬たりとも他人に、自分に、天に嘘をついたことのない人などいるだろうか。

それでももし「愛によって悔い改める」のならば、それらの一つ一つの罪も一つ一つの辛い痛みの時も、「善行」になると。それら罪や痛みの一つ一つが、人としての存在に幅をもたせ、他者に対するより深い理解をもたらし、「神や天」とのより強く近い結びつきをもたらすと。


あるラビはどんな人にも善を見つけられると評判だった。「ヨムキッパー」の日、礼拝に向かう途中、ユダヤの戒律をことごとく破り反抗的と評判の男に会う。断食日にむしゃむしゃと公で食べている。そしてラビに言った、「ラビ、この俺に良いところなんて見つけられる?」ラビは答える「あなたがうらやましいよ」「そりゃそうだよね、お腹ぺこぺこのところこんな思いっきり食べられたらとうらやましいだろうね」「いや違いますよ。あなたには溢れんばかりの善行を手に入れられる可能性があるからです!」

ある王の持つダイヤモンドに傷がついてしまった。台無しだと嘆く王。ある人が私はそれを直すことができますと進み出る。ダイヤモンドを花の形に削り、傷の部分を茎の形に作り変えた。傷はそのままだけれど、今は目の覚めるような美しい花の土台となっている。失敗、痛み、罪とは、この茎のようなものだと。

新年「ロシュハシャナー」で水に流した罪、「スコット」では、司祭が川や海の水を集め祭壇にかけるという儀式がある。それは水に流した罪を、再び集め取り戻すという意味でもある。それらを「善行」へと変えるために。


溢れんばかりに犯してきた罪・失敗、そして痛み、一つ一つを集め、一つ一つに向きあい、トランスフォームしていけたら、そう思いつつ。


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