「「死ぬ瞬間」と臨死体験」(1995)E・キューブラー=ロス 鈴木晶訳 1997読売新聞社
「DEATH IS OF VITAL IMPORTANCE」 講演の編集(1976~1989)
エリザベス(著者)は彼女の言っていることを信じない人間に対して呪いをかけているのではないか。
繰り返しによる催眠効果。
合理的説明の放棄。「百万の例を提示したって、それは酸素欠乏のなせる業に過ぎないと言い張る」「私の知ったことではない」「一万五千件の例を見せたって、一万五千の合理的説明を思いつく」
新興宗教のようにして子どもを(無自覚で)騙していく。それは彼らへの最大に裏切りなのではないのか。「はげたか」と呼ばれたのも、そう思われるところがあったからだろう。活動のために金を集め、彼女自身がそれ(他人の死)によって豊かになっていったのだから。
宇宙意識、「霊性(スピリチュアリティー)の時代へ」
出版社あとがきにも「彼女の仕事を新しい宗教と言う人もある」と書かれているように、私もそう思った一人だ。
三方良しの精神か。店(病院)、客(患者と家族)、社会が丸く気持ちよく収まる。
↑なんてことを思ったが、↓なのかもしれない。
彼女の言う象徴言語と合っているか定かではないが、彼女の残した文章(本)や言葉(講演)はもしかしたら、全てが「察しなさいよ」という象徴言語なのかもしれない。つまり、みんなが幸せな気分で丸く収まるためには、少なくとも死んでいく子どもたちの前ではそうするのが一番良いのだと。家族のためにも医療関係者のためにも、一番良い方法を提示しているのだから「察しなさいよ」と。子どもたちには嘘は簡単にばれてしまうから、自分も本当だと思い込むしかないってことを「察しなさいよ」なのだろう。彼女の立場からすると、嘘を含んでいるかもしれない部分、自分の知性が否定しようとする部分を押さえ込むために、信じているのだと公の場で言い続けるしかないのだ。
だから、彼女は「察しなさいよ」と象徴言語で語りかけているのかもしれない。彼女自身が「言葉による象徴言語もある」と言っているではないか。
「自分に対して嘘をついてはいけない」「自分でしていないくせに、何かを説教してはなりません」
さて、彼女はその言葉をどういう気持ちで言っているのでしょうか。無意識下での自分の嘘を戒めているのではないだろうか。
そして彼女の活動を停止させる事件、火事。彼女の言葉が全て真実であるのであれば、そしてそれを本当に信じているのであれば、それは意味のある出来事なのではないだろうか。そして、それに対して彼女は活動を停止させるべきではなかっただろう。停止させたところに彼女の本心、真実があったのではないのか。
彼女はそれが「放火」だと主張するのであるから、その犯人のそれは悪意であり象徴言語であると受け取るべきだろう。そして、彼女はそこに犯人の幼児性を見つけ、その者が彼女の嘘を見破っていることに気付いたのだ。だから、彼女自身が自分自身に隠していた嘘がそれによって暴かれてしまい、その仕事を続けることができなくなったのだろう。
「黒いウサギ探し」
それは、おそらく自己弁護のため、責任転嫁の相手を探すと言うことなのだろう。
彼女の主張の多くが願望だと思える。それは彼女のデータの偏りと思い込みによるところが大きいだろう。だが、それであっても証明をされていない部分では、言葉や解釈を変えて納得したいとの期待も大きい。
「死ぬ瞬間と死後の生」 2001中公文庫(日本語訳タイトルが違うが「「死ぬ瞬間」と臨死体験」と同じ内容)
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