時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間に とりかえしてくれた女の子のふしぎな物語
「モモ」ミヒャエル・エンデ作(1973) 大島かおり訳 1976年岩波書店
「あんなに大きいなんて」
ミヒャエル・エンデですよ!「事務ボタン」とか「はしたない物語」「ジムボタン」「はてしない物語」の!(父親エドガー・エンデ(画家))
あれ~・・・読んだことがあるような気がするんだけど、全然覚えていないぞ。読んでなかったのか。
いや~、アニメ「C」を連想しますね。《時間金庫》とか、時間を取り戻すところなんて、輪転機逆転に相当するんじゃないですかね。それによって未来(生きた時間)を取り戻すんですから。
ああ、そうなんだよ、臨死体験とかを連想するんだよ。死後の世界とかあっち側ね。
導師とかアシスタントとかパートナーとか連想して、なんだか怪しいにおいがしてきますな。
「シュタイナーの世界観を地下水として「モモ」を読む」子安美知子 1987学陽書房
アントロポゾフィー!とろっとした餡かけポゾフィー・・・美味そうですね。
いやはや、わかりやすく難しい世界を紹介してくださいますね。
でも、なんだか肌に合わなくて気に食わないんですけどね。
もう一冊、これはおまけで読んだけど、タイトルを小学生と間違えていないか?
「中学生と「モモ」を読む」西村敦雄 1996近代文芸社
この人の本はこれ一冊なので、たぶん売れなかったんだろう。どういう人かwikipediaにもないしね。学校の先生か教育関係者か、文科省関係の人だったのかね。いや、それだったらもう少しまともなものを書いて、他の本も書いただろう。なんかね、【本文引用文献】として子安美知子訳の『モモ』(朝日新聞社)を使っていると表記されているのに、その本が検索しても出てこない。新聞連載だったのだろうか。いや、たぶん、子安さんの「「モモ」を読む」のことを言っているんじゃないだろうか。後に朝日文庫で出ているらしいから。そうなると、元の「モモ」は果たして読んでいるのだろうかという疑問が湧いてくる。だって、この本(「中学生と・・・」)はあまりに表面的に軽く作ってあるんだな。いや、ここまで軽くつくってあると、逆に子安さんの本は読んでいないと考えた方がいいのかもしれない。本の目的が違うんだろう。中学生であればこんな単純な発想の教え方はしないのではないか。逆に、この本があまりに表面的な軽い扱いであることで、中学生たちが深読みするように誘っているのではないかと思えてくる。それは深読みしすぎか?
まず、「モモ」を読んで灰色の男たちに肩入れする。男である必要があるのか。女もいてもいいのでは?だって、彼らを生み出す人間には男も女もいるのだから。そして、彼ら同士でも生殖活動はできるのではないか。ただ、彼らは時間を無駄にしたくないので、他の人間(こども)に分け与えようとはしないだろう。だから、彼ら同士での小作りは考えにくい。でも、時間がたっぷりある状態であれば、それも可能になっていくのかもしれない。また、人間との間に子供を作れば、その子供には時間が与えられるだろう。ならば、そうして自分のために時間を生み出す子供をどんどんつくろうとしないだろうか。・・・ま、そういう存在ではないんだな。
《相手の話を聞く能力》モモの最大能力ですね。そして、存在価値。または正体。(かな
事実そのものに語らせる。全てを見抜く力。
先を急ぐ生き方の戒め
でも、その解説自体はあまりにも一方的な価値の押し付けなんですよね。作品は作品として楽しむべきです。だって、その点を討論したら、分業によって全体が豊かになって余裕のある人も多いんじゃないですかって言う反論を受けるわけですよ。また、そういうあくせくした生き方が好きな人だっているだろうし、町から離れるという選択肢もあったりしますよ。
ジジとベッポの対比も人間対灰色の男たちの構造、物質優先社会を示しているわけですが、それは過去と未来も表しているってか。
なんかね、否定的に取り扱っている社会が、わたしにはとても魅力的に見えてしまうんですよね。時間を取り戻した世界よりも、灰色の男たちに支配されていた方が素晴らしい発展した社会。ただ、心理的な部分について言えば、灰色の男たちが時間をぬすんでいる限り幸せではないだろうな。そういう世界で時間をぬすまれていない人間こそが幸せじゃないか。あれ、逆搾取構造になって、ニート天国じゃないのか。うわ、それでか。
「人生で一番危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ」
海を行く《冒険ごっこ》もジジの作った《女帝の話》も原発行政を思わせて面白いですね。前者は原発廃止(化け物退治)の話であり、後者は正体も知らずに原発推進していく物語ってね。
時間金庫の入り口には「きわめて危険につき、許可のない者は立ち入り厳禁」とあるわけで、そういう場所というのはたいてい悪者が何かを隠していると思われるのだな。そう、まるで原発の敷地内だよね。あそこはきっと《時間金庫》が隠してあるんだよ。
「「モモ」を読む」でも学者について「学問に情熱を注ぎ業績を残すが、自身の身を投じて体験はしない」なんて書いてあるのも、マスコミに登場する原発の専門家を見ていると納得です。
スペースシャトルの爆発やチェルノブイリ事故があってもまだ、技術上の欠陥を調査し科学的万全性を目指す姿。あああ、フクシマも結局、歴史的視点から見るとそうならざるを得ないのだろうな。ただ、生活者の環境だけは守っていかなければならないはずだ。
横道にそれて《進化》について問われると、この「モモ」の世界の灰色の男たちの存在も、放射性物質をばら撒く原発や原爆の存在も同じように何かの意味で必要なものということもできるかもしれない。それは、この作品で感じるべきことなのだろうか。なんだか、解説を読んでしまったがためにそのあたりはわからなくなってきてしまった。また時間をおいてから「モモ」を読む機会があったら、その時は絶対に「「モモ」を読む」は読まないぞ。
時間は人生、時間の境界線はあの世との境、お花畑とか三途の川ですね。
《星の時間》ってなんだろう。気付きだとして、つまり、それは必ずしも気付くべき事象があってから時間制限があるものではないだろう。生まれた瞬間のことを死ぬ瞬間に気付いたりすることがあったとしても、それも一つの重大なひらめきの瞬間、事象が起こった瞬間に気付くのと差はなかったりするかもしれない。一応死んだら時間を逆に回って生まれ変わることになっているのだから。
マイスター・ホラ(時間)というのは、「出かけるまでもないからね」「なんでも見えるめがねを持っているんだよ」って・・・ひきこもりか?
解説で気持ちが悪いのは、ライブ(身体)にガイスト(精神)とかゼーレ(魂)とかをわからないけど絶対視しているからなんだな。(心はヘルツ)
わたしは否定するよりも、それらもいつかは科学によって存在が証明されるものとして考える。それならば話が聞ける。神秘的にしておきたいというような態度は、情報隠蔽して「安全だ」「ただちに健康に被害はない」と騙そうとしている姿と重なってしまうのだ。
子安さんってば、割と最初の方でモモの聞く能力の解説で「行」の話をしておきながら、自分はそれをできていない姿を晒している。まあ、こういう本を書いたり、その前に研究をする時点でその行は行えないというジレンマもあるだろう。
シンパシーとは、ゼーレとゼーレが引き合って~逆はアンチパシー
睡眠は死の兄弟
モラーリッシュ・ファンタジー・・・直感的判断?
灰色の男たちの詭弁。反論を許さない立て続けにまくし立てられる一方的な論理展開。途中に問題となる破綻(矛盾・問題点)があっても、言葉としては筋が通っている。そのために最後までいってしまうと、または都合のいい部分で区切って確認する限り、問題はないかのように見えてしまう。そして、それによって納得したように勘違いしてしまうのだ。