リッスン・トゥ・ハー

春子の日記はこちら

宮本百合子 1951年1月11日 その1(日本死人名辞典)

2010-03-16 | 若者的字引
百合子は病と闘ううちに、その決闘する模様が見えるようになった。
病は河童のような緑色の生き物で、くえくえ、と鳴いて百合子の身体に近づいてくる。身体はねっとりと濡れており、歩くたびにねちゃねちゃと音がする。鋭いくちばしをあけて薄ら笑いを浮かべながらこちらを見ている。
それを防ぐのは彼女の免疫系、鎧を身にまとい、槍と盾を手に近づいてくる河童を牽制した。
全身を鎧で固めているため、中に入っているのがどのようなものなのかわからなかったが、発する声から想像するに、それは屈強な若い男子と、選び抜かれた聡明な女子らしい。免疫系は河童を寄せ付けぬ完璧な隊形で、百合子の周りを守っていた。
夢うつつでそのような幻覚が現れたのかもしれない、と百合子は考えたが、今現在、完全に起きていて、しかし、戦っている様子ははっきりと見えている。
ここは病室で、時々看護婦や医師、見舞客らが訪れるが、その戦いの様子に関して彼らは何も言わないから自分にしか見えないものなのか、と納得した。あまり考えたくないが、自分はもう長くないのかもしれない。だからこのような奇妙なものが見えるのかもしれない、とも思ったが、いったん納得すれば作家である百合子の好奇心はその模様を記録し、世に残したくなる。できるだけその戦いの模様を記憶にとどめておくことにした。

医師が部屋に入ってくる。
その頭の辺から河童が飛びかかってくる。飛びかかってきて、免疫系に串刺しにされる。がさらに別の河童が飛びかかってくる。別の免疫系が突き刺す。突き刺された河童はすぐに生き絶えずにしばらくひくひくと動いている。そのうち動かなくなるが、槍を抜こうとしたとたん、最後の力を振り絞って免疫系に噛み付く。噛み付かれた免疫系は悲鳴を上げ、動かなくなる。素直な免疫系は河童の不意打ちに非常に弱かった。
その間にも河童はあとからあとから飛びかかってくる。
いくら免疫系が厚い壁を作って百合子を守っていようとも、あれだけの河童が一斉にやってくれば時間の問題であることは百合子にもわかった。

夜になると、河童は攻撃をやめる。どこかに消えていく。これまでの経験からも夜に河童が襲ってくることはなかった。
だから免疫系も夜に眠り、何かおにぎりのようなものを食い、明日への攻防のための作戦を練り過ごしていたが、総じて気を抜いていた。百合子はその様子を見ていたが、或る夜、好奇心から彼らに話しかけてみた。彼女としてはいつも河童から自分を守ってくれている免疫系に対してねぎらいの一言もかけてやりたかったという意味もある。
ありがとう、と独り言のように彼女は言葉をかけてみる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿