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火野葦平 1960年1月24日 その2(日本死人名辞典)

2010-08-20 | 若者的字引
ある朝のことだった。
葦平がいつものように目覚めて冷蔵庫に冷やしてある海洋深層水を飲むと、いつもとは違う味がした。
何か塩辛い、葦平ははじめ、水が腐ってしまったのだと思った。
しかし、よく見てみると海洋深層水のペットボトルにはグッピーが泳いでいた。なんだよこいつ、と葦平は思った。
もちろん昨日までそれはいなかった。
誰かがこの中にグッピーを入れたのだ。
誰が。
答えは分かっていた。
小田しかいない。二人の生活は誰にも邪魔されないのだから。入れるとしたら小田以外にはありえなかった。
葦平はベッドルームで眠っている小田を起こそうと近づいた。そしてその寝顔を見て、なんという綺麗な寝顔だろうとため息をついた。
小田は何も知らないという無邪気な顔でに眠っていた。
怖い夢を見ているのか、ときどき、ああ、ああ、と苦しそうに吐息を漏らした。
葦平はその吐息がとてもいとおしい、と感じた。
ああ小田よ俺はたとえお前がグッピーを入れたとしてもかまわない、そんなにも美しい寝顔を見せてくれたのだから。

すぐにリビングに引き返した。
もう一度飲んだ。やはり塩からかった。グッピーはぐるぐるとその狭いペットボトルの中を泳ぎ回っていた。グッピーよ、と葦平は語りかけた。ひとりごとのように静かに、朝の空気はまだ冷たく、街は静かに動き出していた。
お前を育てようと思うよ俺は、どうせ俺と小田の間には子供は生まれない。
生物学的に不可能だ。
どうやったって不可能だ。
だからペットを飼うのはいい方法だよ、と以前小田は話していた。そういう意味だったのか、と葦平は思った。


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