リッスン・トゥ・ハー

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まぐろ その25(駄々編)

2009-02-24 | リッスン・トゥ・ハー
「まぐろ その25(駄々編)」


なんて活きの良さだろう。誰もがそう考えていた。ただしそれがなぜこの場所にいるのかなんて誰にもわからなかったし、誰も興味がなかった。マグロがおもちゃ売り場の前でぴくぴくぴくぴくと震えている。時価にして300万はするであろう立派な黒マグロであった。なにかの催しかしら、斬新なデパートの戦略的な催しかしら、あるマダムはそう考えていた。しかし、しばらくそれを見ていても一向に係員らしきものの姿は見えないし、マグロ単独の行動である事は明白であった。おもちゃ売り場の店員も戸惑っていた。近寄らないようにしていた。マグロはけーんけーんと泣き叫んでいた。その視線の先にあるのはおもちゃのロボットであった。マグロはそれがほしいと何か訴えているのであった。誰に対して、あるマダムはさらに疑問を持つ。その好奇心は時として災いをもたらす。マグロはマダムに対して訴え始めた。あのロボットを買ってください、さもなくば私はここで駄々をこね続けますよ、という目で見た。マダムはそれを感じ取っていたものの、ええ、ご勝手にすれば、と婦人服売り場に向った。マグロはぴくぴくと動いてからけーんと鳴いた。寂しそうに鳴いた。

まぐろ その24(外国人観光客編)

2009-02-19 | リッスン・トゥ・ハー
「まぐろ その24(外国人観光客編)」

生臭い匂いがふんわりと漂ってきた。店主である剛司はその匂いの方向に目をやる。するとそこに立っていたのはマグロであった。実に見事なそのマグロは時価にして300万はするほどであろう、剛司は瞬きをしながら、らっしゃい、とつぶやいた。マグロを客と認識した自分に驚きながら、しかしマグロが店の商品をまじまじと眺めている風はまさしく客そのものであったため、長年の商売魂がそうさせたのであった。剛司の店は、主に海外からやってくる旅行客相手にザ・日本という商品を法外な価格で売りつけるそれであった。マグロは一通り店内を回ると、日本刀のおもちゃに異様な興味を示した。銀紙を張り付けて濁った光を放っているそれは店の人気商品のひとつではあった。外国人は肩を押したようにそれを手にとり、ニンジャ、サムライ、などと口にし、購入していくのだ。マグロはそれを手にとり、けーん、と鳴いた。ニンジャ、とつぶやいたのかもしれない。それからしばらくその日本刀を睨んだまま動かなくなった。ピクリとも動かないマグロはそれはそれで美しかった。沈黙に耐えられなくなった剛司は、それ人気っすよ、と声をかけた。敬語を使えばよいのか、その微妙だったので、っすか、口調になってしまったのである。さてマグロ、剛司の声を聞いて、何も答えず、ちょうどアメリカ人がする、わかりません、のジェッシャーをした。剛司は異様に腹が立った。

まぐろ その23(デリバリーピザ編)

2009-02-10 | リッスン・トゥ・ハー
「まぐろ その23(デリバリーピザ編)」

チーズのとろける匂いは時に人をも殺す。死んでしまいそうになるぐらい鼻をかすめるそのいい匂いを放ちながら、ピザはバイク後方の籠にしっかりと収納されて、ある民家に向っていた。ある民家では、今か今かとピザを待ち望む餓鬼どもがうるさい。ピザピザピザと口々に、というのはある民家にはいまちょうど親戚の子が来ていて、腹が減りましたな奥さん、などと粋な口調で自分よりも30ばかり年齢が上の親族を捕まえて主張しているのを、仕方ないなあ、とある民家の主人がピザを頼んだわけで、餓鬼はここぞとばかり、歓声を上げてその到着を待っているわけだ。
そのピザを積んだバイクはやけにふらふらしていた。そのはずである、バイクを運転するのは自動二輪の免許など持っていないマグロだったから。ふらふら、対向線をすぐに越えてふらふら、大変危険であった。当然、ピザ配達のバイト面接時には、免許の有無を聞かれる。マグロはここでお得意の曖昧さ利用し、持っている風な顔をして何食わぬ顔ですり抜けたのであった。店長なる男も無学な男で、マグロが自動二輪の免許を取れないなどと想像できなかったのだ。マグロはそのようなわけで、運転していた。ヘルメットを被り運転するマグロは風であった。自分は今間違いなく、風であり、颯爽と国道を行くライダーである。なんと恰好がいいマグロであろうか、自らその恰好のよさを思うと震えた
。それが増幅されてふらふらしているのでもあった。マグロは幸福であった。ピザを届けることなどどうでも良くなってきた。チーズのとろける匂いはマグロにとって汚物そのものであった。こんなものを食べたい生物が信じられなかった。マグロはこのまま国道を登っていこうと考えた。そこにユートピアはあるような気がした。ガソリンは満タンで、別段寒くもない暖かい夜だった。月が出ていた。