「……と見る」「……と見られる」の言い方がある。しかし新聞はこぞって「とみる」「とみられる」と仮名書きをする。その一方で、「……との見方もある」と書く。「……と見る」その仕方が「見方」になると言うのに、片方は仮名書きだと言うのである。
これは筋が通らない。しかし、記者のための表記辞典だと称するある表記辞典ははっきりと次のように言う。
「……とみられる」「……とみる」など推測、予測の意味に使う場合は平仮名書き。
なんで、推測・予測の意味なら平仮名になるのか。これは「目で見る」とそんなにも意味が違うのか。
「……と見る」の形を挙げて説明しているのは、調べた4冊の国語辞典の中では『岩波国語辞典』と『明鏡国語辞典』だけである。『明鏡』は元々意味の数を多く挙げる主義だから、この「見る」でも全部で17もの意味を挙げて説明している。そんな必要があるのかと大きな疑問だが、それだって、「……と見る」は「周りの状況にてらしてある判断を下す」との説明で、用例は「社長は今が規模拡張のチャンスだと見ている」「私は撤退を勇気ある決断と見る」「相手を甘く見てはいけない」である。
「と見る」が「甘く見てはいけない」と同じ意味として捉えられている。「判断」は現実をきちんと「見る」事から始まるのである。
そうなると、前記の表記辞典の言う「推測・予測」は『明鏡』が言う「判断」とは違うらしい。確かに「推測・予測」は「判断」とはニュアンスが異なる。次は『岩波』の説明。
・推測=物事の状態・性質や将来を、部分的・間接的に知り得た事柄や数値から、おしはかること。
・予測=将来の出来事や有様を何らかの根拠に立って推し測ること。
・判断=ある事柄について、考えをまとめて定めること。その断定した内容。
「推測・予測」は「推しはかる」であり、「判断」は「断定」とある。つまり、「推測・予測」は自信が無いのだ。もっと言えば、無責任なのだ。
『岩波』の「と見る」は、「理解する・推定する・見積もる」である。「理解」もあるが、「推定・見積」がある。やはり自信が無いのが「と見る」らしい。
ただし、二つの辞書共に、「とみる」は仮名書きだ、などとは言わない。きちんと「と見る」と表記している。
『新明解国語辞典』は「と見る」を特別扱いはしていない。意味として「物事の状態を調査・観察・判断・評価する」との説明をし、その中の用例の一つとして「「出来ないものと見る(=推定する)」を挙げているに過ぎない。
『新撰国語辞典』はもっと徹底している。何しろ、同書には「と見る」の形は影も形も無いのである。強いて言えば、「どう見ても優勝はまちがいない」があるくらいである。これは「どのように考えても優勝は間違いないと見られる」と言っているのと同じである。
つまり、「と見る」は「見る」の一つの形に過ぎない、と言っている。
当たり前である。「と見る」の形を別にしている『岩波』にしても、「見る」の基本的な意味は次のようになっている。
1 視覚を働かして、ものの存在・形・様子・内容をとらえる。目で認める。
2 視覚に限らず広く、感覚を働かして、探りとらえる。感覚でとらえたものについて、判断・評価する。▽聴覚に訴えるだけの時には言わない。診断の場合には「診る」、看護の場合は「看る」とも書く。
この2の「見る」は別に目が重要な働きをしている訳ではない。でも、だからこそ、こうした場合には「見る」ではなく「診る」「看る」とも書く、と言っているのである。従って、そうした特殊な場合以外は「見る」で良い、と言っていると考えられる。
「目」ではなく「見る」のは例外であって、普通は「目」で見て判断するのである。大体、「みる」と言う日本語がそもそもは「目で見る」意味のはずである。その意味が幅広くなって、「味をみる」などの言い方もされるようになったに過ぎない。そして似たような意味の「人物を見る」では明らかに「目で見る」のである。
こうして眺めると、「と見る」の形を特別に挙げていようといまいと、すべて「目で見る」と同じで何の支障も無い。仮名書きにする理由も見付からない。それなのに、何故に新聞は「とみる」と仮名書きにしたがるのか。
新聞は何と、非常に正直に取材の仕方、取材の質を告白しているらしい。つまり、『岩波』の説明ではないが、「部分的・間接的に知り得た事柄や数値から、推し量ったんですよ」と言っているのに違いない。
そう、それなら私もこれからはそうした見方で新聞を読む事にしよう。だが、そんな約束事はどこにも無いのもまた事実である。新聞が勝手に決めた勝手な表記に、読者が引きずられる必要は無い。そんな変な日本語の理解などに理解を示す必要もまた無い。
言うまでもなく、新聞はきちんと「調査・観察・判断・評価」をして記事を書くべきである。仮名書きにして取材の不十分さを言い訳する事は許されない。
それに、自信があって断定出来るのなら、何も「と見られる」などと言う必要は無いのだ。はっきりと「である」と書けば良いのである。だから「と見られる」とあれば、我々は「そうか、断定ではないのだな」ときちんと判断出来るのである。何も平仮名書きにしてくれなくても、十分分かる。
私の以上のような考えが的はずれだと言うのなら、それは嬉しい事である。新聞はきちんと取材をして記事を書いている。そうであれば、「とみる」などと仮名書きにしてはいけないのである。もしも自信がないのであれば、明確に「自信は無いのだが」とか「裏付けが足りないのだが」と注釈を付けて、「そう考えるのが一番妥当だと思う」とか表現する必要があるだろう。
変に表記をいじくるから、あらぬ疑いを掛けられるのである。
これは筋が通らない。しかし、記者のための表記辞典だと称するある表記辞典ははっきりと次のように言う。
「……とみられる」「……とみる」など推測、予測の意味に使う場合は平仮名書き。
なんで、推測・予測の意味なら平仮名になるのか。これは「目で見る」とそんなにも意味が違うのか。
「……と見る」の形を挙げて説明しているのは、調べた4冊の国語辞典の中では『岩波国語辞典』と『明鏡国語辞典』だけである。『明鏡』は元々意味の数を多く挙げる主義だから、この「見る」でも全部で17もの意味を挙げて説明している。そんな必要があるのかと大きな疑問だが、それだって、「……と見る」は「周りの状況にてらしてある判断を下す」との説明で、用例は「社長は今が規模拡張のチャンスだと見ている」「私は撤退を勇気ある決断と見る」「相手を甘く見てはいけない」である。
「と見る」が「甘く見てはいけない」と同じ意味として捉えられている。「判断」は現実をきちんと「見る」事から始まるのである。
そうなると、前記の表記辞典の言う「推測・予測」は『明鏡』が言う「判断」とは違うらしい。確かに「推測・予測」は「判断」とはニュアンスが異なる。次は『岩波』の説明。
・推測=物事の状態・性質や将来を、部分的・間接的に知り得た事柄や数値から、おしはかること。
・予測=将来の出来事や有様を何らかの根拠に立って推し測ること。
・判断=ある事柄について、考えをまとめて定めること。その断定した内容。
「推測・予測」は「推しはかる」であり、「判断」は「断定」とある。つまり、「推測・予測」は自信が無いのだ。もっと言えば、無責任なのだ。
『岩波』の「と見る」は、「理解する・推定する・見積もる」である。「理解」もあるが、「推定・見積」がある。やはり自信が無いのが「と見る」らしい。
ただし、二つの辞書共に、「とみる」は仮名書きだ、などとは言わない。きちんと「と見る」と表記している。
『新明解国語辞典』は「と見る」を特別扱いはしていない。意味として「物事の状態を調査・観察・判断・評価する」との説明をし、その中の用例の一つとして「「出来ないものと見る(=推定する)」を挙げているに過ぎない。
『新撰国語辞典』はもっと徹底している。何しろ、同書には「と見る」の形は影も形も無いのである。強いて言えば、「どう見ても優勝はまちがいない」があるくらいである。これは「どのように考えても優勝は間違いないと見られる」と言っているのと同じである。
つまり、「と見る」は「見る」の一つの形に過ぎない、と言っている。
当たり前である。「と見る」の形を別にしている『岩波』にしても、「見る」の基本的な意味は次のようになっている。
1 視覚を働かして、ものの存在・形・様子・内容をとらえる。目で認める。
2 視覚に限らず広く、感覚を働かして、探りとらえる。感覚でとらえたものについて、判断・評価する。▽聴覚に訴えるだけの時には言わない。診断の場合には「診る」、看護の場合は「看る」とも書く。
この2の「見る」は別に目が重要な働きをしている訳ではない。でも、だからこそ、こうした場合には「見る」ではなく「診る」「看る」とも書く、と言っているのである。従って、そうした特殊な場合以外は「見る」で良い、と言っていると考えられる。
「目」ではなく「見る」のは例外であって、普通は「目」で見て判断するのである。大体、「みる」と言う日本語がそもそもは「目で見る」意味のはずである。その意味が幅広くなって、「味をみる」などの言い方もされるようになったに過ぎない。そして似たような意味の「人物を見る」では明らかに「目で見る」のである。
こうして眺めると、「と見る」の形を特別に挙げていようといまいと、すべて「目で見る」と同じで何の支障も無い。仮名書きにする理由も見付からない。それなのに、何故に新聞は「とみる」と仮名書きにしたがるのか。
新聞は何と、非常に正直に取材の仕方、取材の質を告白しているらしい。つまり、『岩波』の説明ではないが、「部分的・間接的に知り得た事柄や数値から、推し量ったんですよ」と言っているのに違いない。
そう、それなら私もこれからはそうした見方で新聞を読む事にしよう。だが、そんな約束事はどこにも無いのもまた事実である。新聞が勝手に決めた勝手な表記に、読者が引きずられる必要は無い。そんな変な日本語の理解などに理解を示す必要もまた無い。
言うまでもなく、新聞はきちんと「調査・観察・判断・評価」をして記事を書くべきである。仮名書きにして取材の不十分さを言い訳する事は許されない。
それに、自信があって断定出来るのなら、何も「と見られる」などと言う必要は無いのだ。はっきりと「である」と書けば良いのである。だから「と見られる」とあれば、我々は「そうか、断定ではないのだな」ときちんと判断出来るのである。何も平仮名書きにしてくれなくても、十分分かる。
私の以上のような考えが的はずれだと言うのなら、それは嬉しい事である。新聞はきちんと取材をして記事を書いている。そうであれば、「とみる」などと仮名書きにしてはいけないのである。もしも自信がないのであれば、明確に「自信は無いのだが」とか「裏付けが足りないのだが」と注釈を付けて、「そう考えるのが一番妥当だと思う」とか表現する必要があるだろう。
変に表記をいじくるから、あらぬ疑いを掛けられるのである。