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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

私は難しい事が分からない。「お天道様」で良いではないか

2008年10月21日 | Weblog
 東京新聞の文化面に梅原猛氏の連載がある。20日は「不幸にして予言は当たった」。1991年、ソ連が崩壊した時、あるアメリカの高名な哲学者が、ヘーゲルの弁証法的論法に従って「これで対立の時代は終わり、歴史は最終段階を迎えた」と論じた事に対して、同氏はこの欄、と言うから、東京新聞の文化面になるが、えっ、もう19年も続いているのか、で次のように語ったと言う。
 「それはとんでもない見解であり、マルクス主義を信じたソビエト的近代主義は終わったが、次は資本主義を信じるアメリカ的近代主義が崩壊するであろう。」
 そしてイラク戦争の事も論じている。確かに予言は当たった。そうした事に続いて、今年、アメリカ発の金融危機が起きた事に対して、歴史の動きはかなり速い、との話になる。ここで、私の「分からない」記述が出て来た。

 公的資金を投じようとするアメリカ政府の提案に、多くの民主党及び共和党の議員が近い将来の選挙を意識して反対票を投じた。それはウォール街の高給取りを税金で救済するとは何ごとかという有権者の批判を恐れてのことであろう。
 この批判は、死んだはずのマルクスを生き返らせるようなきわめて当然の資本主義そのものへの批判である。
 この「死んだはずの……」の部分が、悲しい事に分からないのだ。
 この批判が資本主義その物への批判である、のは分かる。それを少しさかのぼって、「きわめて当然の」も分かる。「きわめて当然の批判」と続くはずである。
 だが、「死んだはずのマルクスを生き返らせるような」がどこに続くのか。多分、マルクスが生きていれば、資本主義に対して当然に批判をするだろう、となるのだと思う。だが、同氏は、「マルクス主義は終わったが、次にはアメリカ的近代的資本主義が終わりを告げるのだ、と予言していたのだ。つまり、それはマルクスがする批判などではなく、「当然に」良識が「アメリカ的近代的資本主義」に対してする批判である、と言っている事にならないか。

 この稿を同氏は次のように結んでいる。
 パックス・アメリカーナの時代は終わった。世界は新しい哲学と新しい政治学、経済学を必要としている。(中略)二十一世紀以後の人類に生きる目標を与えるような、デカルトに始まる近代哲学を根本的に否定する哲学を創るのが、私に残された人生の課題だとこのごろ思うようになった。
 主旨は分かる。しかし突然に「パックス・アメリカーナの時代」と言われてもねえ。これは当然に「パックス・ロマーナ=ローマの平和」が前提になっている。 ローマ帝国初期のアウグストゥス時代から五賢帝時代末期までの約2百年間(前 27~後180)。動乱や戦争は収まり、文化的発展のめざましい時代だったのでこう名づけられた。とある辞書は説明している。
 「文化的、経済的優位性で世界の平和を保ったと自負しているアメリカの時代」は終わりを告げたのだ、と言っている。だからそこにはマルクスの登場は必要が無い。我々の知恵が必要なだけである。それなのに、なぜマルクスが生き返る、などと言うのか。その知恵が無かったから、我々は間違った近代主義に踊らされて来た、と同氏は言う。それが新しい哲学の創造で、大きな見出しで「人類の新哲学を創れ」とある。

 そうだろうか。それを我々は持っていない、と同氏は言うのだが、私はもう既に持っていると思っている。私は無学で、哲学とかヘーゲルの弁証法的論法とかデカルトとかが、皆目分からない。分かりたいとも思わない。だが、現在の金がすべてである、との考え方が間違っていると思っている。そうした知恵では駄目だと言うのか。
 新哲学など要らない。我々の素朴な知恵、先祖から受け継がれて来た知恵で十分役に立つのではないのか。変な複雑な金儲けの話に我々のそうした知恵が付いて行けないのは、金儲けの話がおかしいからであり、我々の知恵のせいではない。
 先日も書いたが、昔の人は「お天道様が見ている」と言った。今、その「お天道様」が不在である。居なくなったのではない。我々が忘れているだけに過ぎない。「お天道様」を思い出す、そこから新しい事が始まる。そう私は信じているのだが。