今、古代史の疑問についての原稿を書き直している。一年以上前に出来上がっているのだが、ある時ふと、今までとは全く違った方面から見直してみたら、と思い付いた。本になるかならないか、雲を掴むような情況なのに、全くご苦労なこった、と我ながら思うのだが、思い立った以上、やめる訳には行かない。
古代史の謎の部分を、ほとんどすべての歴史学者と言ってもいいが、勝手気ままに解釈して結論を出している。日本にわずかに残されている歴史書の記述を基に、中国の歴史書がまるで違った記述をしていれば、簡単にそれを否定する。中国の歴史書の間違いだと。似た部分があれば、それを強引に日本の歴史にくっつけようとする。登場人物の名前が違えば、中国側の書き間違いだと安易に結論付けている。
そうした事が日本史の常識となって、私は子供の歴史の教科書を見た事が無いが、多分、その常識を踏襲しているに違いない。初心者向けの日本史のシリーズはまさしく、でっち上げた日本史の常識をそっくりそのまま頂いている。
戦後の日本人は「恥」を知らなくなった、と言われている。その「恥知らず」が学問でも横行しているのである。日本の歴史は我々の財産である。それを一握りの学者が私有出来る道理が無い。だから私はそうした歴史学者の非常識な考え方を批判する本を書いている。
だが、それは実に大変な仕事になる。何がおかしいのかを、現実にある史料に即して述べる必要がある。その史料の理解が非常に難しい。原文はほとんどが漢文である。それを親切に読み下し文にし、更には口語訳を付けてくれている本がある。そうした本しか我々には参考に出来ない。
ところが、その口語訳がかなりいい加減な場合が少なくない。学者のいい加減な解釈をいい加減な史料でする事は出来ない。当たり前だ。その漢文の解釈が非常に難しい。
それとは別に学者の論理のおかしさもまた大きな問題である。どうにも論理が繋がらない。でも本人はそれで論理がきちんと組み立てられていると確信している。矛盾した事や論理が成り立たない事が平気でまかり通っている。だが、多くの場合に、論理の途中の筋道を抜かして、結論だけを述べたりするから、素人の我々は簡単にそれに引っ掛かってしまう。早い話、倭の五王(これは中国の歴史書にしか出て来ない)の一人である「武」と、同一人物とされている雄略天皇は生きている時代にずれがある。それは明確に歴史書に書かれているのにも拘らず、多くの学者が「雄略天皇である倭王の武は」などといった説明を平気でしている。
そのあっけらかんとした、と言うか、堂々たる確信的な言い方で、我々は簡単に納得してしまっている。あまりにも堂々としているので、疑いを挟む余地が無い。詐欺師に大物が多いのと同じである。あまりにも堂々たる態度に、まさか詐欺とは思えないで、大勢の人が巨額の詐欺に遭っている。つい最近もあったばかりだ。
素人の私でさえ、原文を忠実に解釈する事が出来ているのに、なぜ学者ともあろう者が出来ないのか不思議でたまらない。非常に不勉強である。日本語の文章の解釈が出来ない学者さえ居る。文脈が理解出来ないのだ。そんな人が原文の漢文の理解が出来るだろうか。
駄目な考えの分かり易い例を一つ挙げる。
古墳から「ワカタケル」と無理して読めば何とか読めそうな文字が発掘された。これは本当に無理をして何とか読んでいる情況なのだ。これから述べるようなおかしな理屈を幾つもこね回して、何とか読めているだけの話である。で、雄略天皇に違いないと結論付けた。雄略天皇の名前の「オオハツセワカタケ」と同じだと言うのだ。古事記は「ワカタケ」を「若建」と書いている。「出雲建=イズモタケル」の場合は「建」を「タケル」と読んでいるのだから、「若建」を「ワカタケル」と読むのは当然だ、と言うのである。
まあ、百歩譲っても、それではそれ以後は「オオハツセワカタケ」を「オオハツセワカタケル」と読むのかと言うと、そんな事はしないのである。「オオハツセワカタケ」が「オオハツセワカタケル」などになる道理がないのである。
「出雲建」が「イズモタケル」と読む事は学者はみな知っている。それでも雄略天皇の「若建」を「ワカタケル」などとは読まなかった。そんな読み方をしたら雄略天皇ではなくなってしまう。それをこうした時だけ、簡単に今までの真面目な態度を裏切って、安易な結論に跳び付くのである。これが果たして学問と呼べるだろうか。
古代史の謎の部分を、ほとんどすべての歴史学者と言ってもいいが、勝手気ままに解釈して結論を出している。日本にわずかに残されている歴史書の記述を基に、中国の歴史書がまるで違った記述をしていれば、簡単にそれを否定する。中国の歴史書の間違いだと。似た部分があれば、それを強引に日本の歴史にくっつけようとする。登場人物の名前が違えば、中国側の書き間違いだと安易に結論付けている。
そうした事が日本史の常識となって、私は子供の歴史の教科書を見た事が無いが、多分、その常識を踏襲しているに違いない。初心者向けの日本史のシリーズはまさしく、でっち上げた日本史の常識をそっくりそのまま頂いている。
戦後の日本人は「恥」を知らなくなった、と言われている。その「恥知らず」が学問でも横行しているのである。日本の歴史は我々の財産である。それを一握りの学者が私有出来る道理が無い。だから私はそうした歴史学者の非常識な考え方を批判する本を書いている。
だが、それは実に大変な仕事になる。何がおかしいのかを、現実にある史料に即して述べる必要がある。その史料の理解が非常に難しい。原文はほとんどが漢文である。それを親切に読み下し文にし、更には口語訳を付けてくれている本がある。そうした本しか我々には参考に出来ない。
ところが、その口語訳がかなりいい加減な場合が少なくない。学者のいい加減な解釈をいい加減な史料でする事は出来ない。当たり前だ。その漢文の解釈が非常に難しい。
それとは別に学者の論理のおかしさもまた大きな問題である。どうにも論理が繋がらない。でも本人はそれで論理がきちんと組み立てられていると確信している。矛盾した事や論理が成り立たない事が平気でまかり通っている。だが、多くの場合に、論理の途中の筋道を抜かして、結論だけを述べたりするから、素人の我々は簡単にそれに引っ掛かってしまう。早い話、倭の五王(これは中国の歴史書にしか出て来ない)の一人である「武」と、同一人物とされている雄略天皇は生きている時代にずれがある。それは明確に歴史書に書かれているのにも拘らず、多くの学者が「雄略天皇である倭王の武は」などといった説明を平気でしている。
そのあっけらかんとした、と言うか、堂々たる確信的な言い方で、我々は簡単に納得してしまっている。あまりにも堂々としているので、疑いを挟む余地が無い。詐欺師に大物が多いのと同じである。あまりにも堂々たる態度に、まさか詐欺とは思えないで、大勢の人が巨額の詐欺に遭っている。つい最近もあったばかりだ。
素人の私でさえ、原文を忠実に解釈する事が出来ているのに、なぜ学者ともあろう者が出来ないのか不思議でたまらない。非常に不勉強である。日本語の文章の解釈が出来ない学者さえ居る。文脈が理解出来ないのだ。そんな人が原文の漢文の理解が出来るだろうか。
駄目な考えの分かり易い例を一つ挙げる。
古墳から「ワカタケル」と無理して読めば何とか読めそうな文字が発掘された。これは本当に無理をして何とか読んでいる情況なのだ。これから述べるようなおかしな理屈を幾つもこね回して、何とか読めているだけの話である。で、雄略天皇に違いないと結論付けた。雄略天皇の名前の「オオハツセワカタケ」と同じだと言うのだ。古事記は「ワカタケ」を「若建」と書いている。「出雲建=イズモタケル」の場合は「建」を「タケル」と読んでいるのだから、「若建」を「ワカタケル」と読むのは当然だ、と言うのである。
まあ、百歩譲っても、それではそれ以後は「オオハツセワカタケ」を「オオハツセワカタケル」と読むのかと言うと、そんな事はしないのである。「オオハツセワカタケ」が「オオハツセワカタケル」などになる道理がないのである。
「出雲建」が「イズモタケル」と読む事は学者はみな知っている。それでも雄略天皇の「若建」を「ワカタケル」などとは読まなかった。そんな読み方をしたら雄略天皇ではなくなってしまう。それをこうした時だけ、簡単に今までの真面目な態度を裏切って、安易な結論に跳び付くのである。これが果たして学問と呼べるだろうか。