夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「こどもの日」は「子供の日」ではない

2009年05月05日 | 言葉
 今日は「こどもの日」。だが、「子供の日」なのではない。そしておかしな事には、新聞はこぞって「子ども」と書いているらしい。テレビで見た各紙はそうだった。定期購読している東京新聞も同じ。
 新聞社の表記辞典、例えば『朝日新聞の用語の手引き』では、もちろん「子供」である。「子どもとも書く」などの説明は無い。『毎日新聞用語集』も全く同じである。各報道機関が使っていると思われる『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(共同通信社)では次のようだ。
 子供・子ども。一般には「子ども」が多く使われている。祝日は「こどもの日」。

 『NHK新用字用語辞典』は「子ども」で、「子供」は許容になっている。
 自社の表記辞典を守らない新聞社は、その表記辞典を市販する資格は無い。

 それにしてもおかしな事を吹聴するものだ。共同通信社に至っては「子ども」が多く使われている、である。そんな事は無いのですよ。単に出版社や新聞社がそうしているからに過ぎないのであって、誰もわざわざ「子ども」などと書きたくはないのである。自分達がおかしな事をしているにも拘らず、それを「多くは」と言って済ませている報道機関のいい加減さを私は断固として許さない。
 言っておくが、日本語の表記って、我々庶民はもっときちんと正しい表記をしているのである。していないのは多くの出版社や新聞社なのである。だが、出版物の影響は恐ろしい。どうしたって、それに引きずられてしまう事になる。もちろん、各社はそうした自分達の影響力の強さを自認している。それでいて、実にいい加減な事に手を貸しているのである。

 「子供」は日本語の最も重要な基本語の一つである。それが「子供」と書けないなんて絶対におかしい。と言うよりも理屈が通らない。漢字と言うのは、単語を明確にする大事な役割を持っている。日本語がずらずら書きなのは誰もが知っている。同じ言葉で全く違う意味を表す事が出来る言葉も少なくない。私は仕事で校正もしているが、そこでいつも困るのが「最も」の仮名書きである。ほとんどの場合に「もっとも」とあっても「最も」だと分かるのだが、時々「尤も」と区別の付かない事がある。どう考えてもどちらだか分からないのである。現在は常用漢字に従うので、「尤も」は「もっとも」になる。だから「最も」と「もっとも」の区別が簡単に出来るのである。
 漢字が必要なのは小学校低学年の教科書を見れば一目瞭然。それは分かち書きになっている。分かち書きと言うのはとても難しい。日本語はどこで切れるのかが明確ではないからだ。そんな難しい分かち書きを敢えてしているのは、低学年では使える漢字が限られているからである。仮名ばかりでは何が何やら分からなくなる。その弊害を防ぐために、分かち書きにしているのである。それほど漢字は重要なのだ。

 「子供」をそのように書きたくない理由は分かっている。「こども」の「ども」は本来は複数を表すと思われている。ただし、「こども」の場合、そうと言い切れるかと言うとそうではない。その事を私は克明に検証している。「ども」は複数の意味もあるし、軽蔑の意味もある。それにこの「供」は意味不明である。本来は「そなえる・用意する」の意味らしい。そして日本語では「供」は「お供」の意味で使われている。
 そうした複雑な事情もあってなのだろう、「子供」と書きたがらない人々が存在している。しかしそれは馬鹿げた考えである。「時計」は誰もがその表記を疑わない。しかしこれは本来は「斗鶏」や「土圭」だったらしい。どちらにも「時を計る」の意味がある。それが「時計」になった。
 「こども」が本来は「子共」だったとしても、今は「子供」で良いではないか。「子どもに」こだわる人々がそうした本来の意味は、などと考えているはずが無い。単に気分で決めているに過ぎない。本来の意味にこだわるなら、「時計」を始めとして、多くの日本語が今の表記は出来なくなってしまう。

 政府がなぜ「こどもの日」と表記を決めたのかは知らない。そして、我々がそうした表記に引きずられる必要は毛頭無い。もちろん「子ども」に引きずられる必要も無い。「子ども」の表記を得々としている新聞社、出版社から、是非ともそのきちんとした理由をお聞きしたいものだと思っている。
 これは単なる表記の問題ではないのである。日本語の根幹に関わる大問題なのである。多分、そんな意識はお持ちではないのでしょうね。それが言論人だと言うのだから恐れ入る。

地デジへの切り替えに疑問がある

2009年05月05日 | 社会問題
 鳩山総務大臣が、地デジのCMが中止になる事に対して、その原因となった草?くんを「最低の人間」と一時的ではあっても評した事を書いた。そう言った鳩山さんにお尋ねする。地デジへの切り替えって「最低の人間がする事ではない」と確信持って言えますか?
 切り替えには少なくとも家庭へのしわ寄せがある。従来のテレビしか持っていない家庭では、テレビを買い替えるか、デジタル対応のチューナーを買わなければならない。それにアンテナだって要るだろう。そんな負担を掛けても地デジの方が素晴らしいのか。
 確かにデジタル放送の画質は素晴らしい。だが、そうした素晴らしい画質に対応した番組を放送しているのか。すべて笑わせてそれで視聴率を稼ごうと言う魂胆の番組ばかりではないか。番組欄のデジタル放送の所を見れば、見たいなあ、と思う番組があるのは分かる。しかしそれは今はマイナーとも言えるデジタル放送だから可能なのである。
 すべてがデジタルになってご覧。こうした良心的な良い番組は姿を消してしまうから。そして今と同じような馬鹿馬鹿しいだけの番組で埋まってしまうから。だって、そうしなければスポンサーが付かないんだもの、しょうが無い。

 テレビは国民の啓蒙のために放送をしている訳ではない。単にカネを稼ぎたいだけである。だからこそ、民放はNHKの受信料による放送体制を死守したいのである。そのようにはっきりと発言している。もちろん、本当の事は言わない。単に「放送の二元性を守る必要がある」などと、分かったような分からない事を言うだけである。
 受信料によるNHKが必要なのは、有料放送だから、いい加減な事は出来ない。きちんと正しい報道をして教育番組もやって、と言うテレビとしての責任を求められる。しかしそれを民放は出来ない。やればCMが取れないから儲けられない。
 けれどもそうした放送をするべきだと民放は考えている。そうしなければ、限られた国民の電波を独占使用している事は許されない。だから、自分達が出来ない事を、受信料と言う犠牲を国民に強いて、やっているのである。はっきり言って、NHKの存在が無ければ、民放は成り立たないのである。民放各局の電波使用料って知ってましたか? 私も知らなかった。売り上げのわずか1%に過ぎない金額を「使用管理料」の名目で支払っているだけだと言うのである。1%ってさ、1億円の売上に対して、たった100万円だよ。100万円の売上なら1万円だよ。そんなわずかな金額で、公共の電波を独占出来るのである。

 こうした路線の上に立って地デジへの切り替えがある。地デジでは画質は言うまでも無いが、局と視聴者の双方のやりとりが可能だとの点も評価に入っている。やりとりと言ったって、番組に対する批判を受け入れようなどと言うのではない。単に、クイズ番組などで視聴者も参加出来ますよ、と言う程度の事なのである。大体、くだらないクイズ番組に参加して何の得する事があるか。
 料理番組のレシピなどを見る事が出来るのも役には立つだろう。しかしそうした情報は本来、きちんとテレビ放送でやるべき事柄なのである。今、画面に流れるのは、文字通り「流れる」であって、瞬時に消えてしまう。メモしようと私は必死になるが、速記が出来る私にも結構難しい。速記なら「速記が出来る」との言葉をわずか2秒で書ける。それでも間に合わないのである。
 レシピを伝えるのが目的ではないからだ。単に番組の展開を面白く魅力的にする事だけにしか頭が回らない。そうした欠陥をデジタル放送で穴埋めしたいと考えている。とんでもない事である。
 テレビ放送をおかしな方向に引きずってしまうデジタル化を推進している鳩山大臣にこそ、「最低の人間」とのコメントを差し上げたい。もちろん、その発言を撤回したのだから、私も言わない。

巨泉さんの発言もおかしいよ

2009年05月05日 | 政治問題
 草?くんの事はやっばり騒ぎ過ぎだった、と多くのマスメディアが反省しているらしい。マスメディアと言うのは、どうも平常心を簡単に失ってしまうらしい。騒いで自分の存在感をアピールするのが仕事らしい。で、情況だけをそれもヒステリックに報道して、それが一体どのような意味を持ち、どのような問題になるのかには踏み込まない。
 彼が出演している地デジのCMが中止になって、鳩山総務大臣が怒ったそうだ。「最低の人間」と言ったそうな。もっとも、その発言はテレビでの報道によれば、あとで不適切だったと撤回したそうだが。これはその撤回前の話である。その発言を、「週刊現代」で大橋巨泉氏が「全裸以上に醜態だった」と次のように批判したと言う。
 「ほとんど誰にも迷惑をかけていない酔った青年を評する言葉ではない。それを言うなら、詐欺まがいのスローガンで当選し、いまだに知事の座にしがみついている、森田健作君に向けるべきだろう」

 泥酔は非常にみっともなく恥ずかしいが、警察に保護するだけで済みそうな話である。最低の人間とまで言う事はないだろう、と言うのはよく分かるのだが、その後が私には分からない。森田氏のスローガンは詐欺まがいだったのか。自民党なのに無所属と称した事にクレームを付けている市民団体はある。
 だがそれを言うなら、ほかの事実にも触れなければ片手落ちになる。確か郵政選挙の時、郵政民営化反対の候補者は自民党から公認されず、小泉氏からは刺客を立てられ、無所属で出たのではなかったか。そして無事当選を果たして、ちゃんと自民党に所属している。それは詐欺まがいではなく、森田氏は詐欺まがいだと言うのか。
 政党の公認を受けない以上、無所属としか言いようが無い、との森田氏の説明は間違っていないと私は思うが、それ以上に、彼は前回の千葉県知事選にも出馬して惜敗している。彼がどのような人間なのかは千葉県民なら知っているだろう。そして知っているからこそ、彼に投票し、圧倒的な勝利を勝ち取ったはずである。
 詐欺まがいのスローガンだと言うなら、そのスローガンの真意を見抜くのが選挙民の務めではないのか。詐欺まがいに引っ掛かるようなら、選挙民としての資格を疑ってしまう。つまり、森田氏が圧倒的な勝利を勝ち取ったと言う事は、千葉県民は真実を見抜く能力が無かったのだ、と言っているのと同じである。森田氏の当選に文句を付けている人々はそう言っているのと同じなのだ。そして巨泉さんも同じ事を言っている事になる。千葉県民は馬鹿なんだ、と。
 その肝心の巨泉さんにしても、参議院だったろうか、選挙に打って出て、当選して議員になった。しかし簡単に辞めてしまった。そんないい加減な気持で立候補したのなら、それこそ詐欺まがいである。投票した人は、巨泉さんなら、と信頼して一票を入れたはずである。その信頼をいとも簡単に裏切る。
 そして巨泉さんの言い分が面白い。「最低の人間」との言い方を醜態だと言い、「それを言うなら、詐欺まがいの……」なのだから、森田氏が最低の人間だ、と言っている事になる。初心をあくまでも貫いた人間と、簡単に捨て去ってしまった人間と、どちらが偉いか。

 以上は私が自分で週刊誌を読んだ結果ではない。東京新聞の「週刊誌を読む」と題するコラム(執筆者は月刊『創』編集長・篠田博之氏)を読んで考えた事である。誤解はしていないと思う。
 今日の東京新聞は「4月を送る」と題して色々な写真を紹介している。その一つ。笑顔の森田氏に付いているコメントは「初登庁して知事室のいすに座り、笑顔を見せた森田健作知事だったが…=千葉県庁で」である。「だったが…」の意味は明らかに知事の資格を否定している。えっ? そんなに窮地に立たされているのですか?