夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

新型インフルエンザの流行

2009年05月18日 | 社会問題
 やはり思った通りだった。航空機の機内検疫でどれほどの事が出来るか、と私は疑問を呈した。結局、見逃していた患者が居て、そこから移ったとしか思えない。でもマスコミは厚生労働省が大騒ぎをし過ぎると非難した。私はマスコミ自体が大騒ぎをしていると思った。それは危険だと感じたからだろう。単に大騒ぎをして自分達の仕事を派手に見せたかった訳ではなかろう。
 しかしながら、新型インフルエンザは普通のインフルエンザよりも菌としては弱いから、大騒ぎをする事は無い、と言う専門家が現れた。そこからマスコミは一転して、厚生労働省の大騒ぎを批判する立場に立った。だが、それはおかしい。新型インフルエンザはもっと毒性の強い菌に変化する危険性があるとの意見もある。そこで見識の不足しているマスコミは進退窮まった。それが訳の分からない報道になっている。

 誰も知らない新しい病気に対して、警戒をし過ぎると言う事があるだろうか。
 今の段階で、大阪と兵庫で患者は100人を越えてしまった。学校も7日間とかの休校になっている。新たに銀行の窓口の女性にも患者が出てしまった。東京でも、今朝会った同じマンションの人がマスクをしていたので、防御ですか、と聞くと、学校から通知があったと言う。子供より大人の方が様々な人と関わり合うから当然の処置だろう。
 
 これから暑さに向かう折から、心配し過ぎる必要は無い、などと言うのは、必要以上に恐怖を煽る事を心配してなのだろうが、油断をさせてしまう恐れはないのだろうか。そうした事についてはどのように考えているのか。これからが、マスコミの正念場ではないか、と私は思う。

 話はがらっと変わるが、前出の「100人を越えた」の表記を、どう思いますか? この場合に圧倒的に多くが「100人を超えた」と書く。それは「もう100人をこえてしまったんだ」との思いがその表記を納得させているのである。そこには、越えてはならない事を越えた、との思いがある。だから、読む方もそれで納得している。
 しかし、それは勝手な考え方である。書き手のそんな思いをいちいち読む側に強制するのは出過ぎた処置である。
 表記辞典は、こうした「超える」を「限度を過ぎた」との意味で、「越える」ではなく「超える」と書くのだと指示している。
 どちらも勝手にある水準を「限度だ」と考えているのである。それはあんたの勝手な想像に過ぎない、と私は言いたくなる。限度かどうかは読む側の判断に任せるしかないではないか。どうしても「限度なんだ」と言いたいなら、そのように書けば良いのである。だが、それにはちょっと工夫が要る。そうした工夫が出来ない、あるいはしたくないから、安易な「超える」の表記でお茶を濁している。

 素人の個人的な発言なら、どうぞ御自由に、と言おう。だが、仮にも大勢の人々を対象にしている場合には、そんないい加減でものぐさな事では発言する資格は無い。多くの人々が、書く場合に甘え過ぎている。もっと真剣になって書くべきだと思う。