今日は「こどもの日」。だが、「子供の日」なのではない。そしておかしな事には、新聞はこぞって「子ども」と書いているらしい。テレビで見た各紙はそうだった。定期購読している東京新聞も同じ。
新聞社の表記辞典、例えば『朝日新聞の用語の手引き』では、もちろん「子供」である。「子どもとも書く」などの説明は無い。『毎日新聞用語集』も全く同じである。各報道機関が使っていると思われる『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(共同通信社)では次のようだ。
子供・子ども。一般には「子ども」が多く使われている。祝日は「こどもの日」。
『NHK新用字用語辞典』は「子ども」で、「子供」は許容になっている。
自社の表記辞典を守らない新聞社は、その表記辞典を市販する資格は無い。
それにしてもおかしな事を吹聴するものだ。共同通信社に至っては「子ども」が多く使われている、である。そんな事は無いのですよ。単に出版社や新聞社がそうしているからに過ぎないのであって、誰もわざわざ「子ども」などと書きたくはないのである。自分達がおかしな事をしているにも拘らず、それを「多くは」と言って済ませている報道機関のいい加減さを私は断固として許さない。
言っておくが、日本語の表記って、我々庶民はもっときちんと正しい表記をしているのである。していないのは多くの出版社や新聞社なのである。だが、出版物の影響は恐ろしい。どうしたって、それに引きずられてしまう事になる。もちろん、各社はそうした自分達の影響力の強さを自認している。それでいて、実にいい加減な事に手を貸しているのである。
「子供」は日本語の最も重要な基本語の一つである。それが「子供」と書けないなんて絶対におかしい。と言うよりも理屈が通らない。漢字と言うのは、単語を明確にする大事な役割を持っている。日本語がずらずら書きなのは誰もが知っている。同じ言葉で全く違う意味を表す事が出来る言葉も少なくない。私は仕事で校正もしているが、そこでいつも困るのが「最も」の仮名書きである。ほとんどの場合に「もっとも」とあっても「最も」だと分かるのだが、時々「尤も」と区別の付かない事がある。どう考えてもどちらだか分からないのである。現在は常用漢字に従うので、「尤も」は「もっとも」になる。だから「最も」と「もっとも」の区別が簡単に出来るのである。
漢字が必要なのは小学校低学年の教科書を見れば一目瞭然。それは分かち書きになっている。分かち書きと言うのはとても難しい。日本語はどこで切れるのかが明確ではないからだ。そんな難しい分かち書きを敢えてしているのは、低学年では使える漢字が限られているからである。仮名ばかりでは何が何やら分からなくなる。その弊害を防ぐために、分かち書きにしているのである。それほど漢字は重要なのだ。
「子供」をそのように書きたくない理由は分かっている。「こども」の「ども」は本来は複数を表すと思われている。ただし、「こども」の場合、そうと言い切れるかと言うとそうではない。その事を私は克明に検証している。「ども」は複数の意味もあるし、軽蔑の意味もある。それにこの「供」は意味不明である。本来は「そなえる・用意する」の意味らしい。そして日本語では「供」は「お供」の意味で使われている。
そうした複雑な事情もあってなのだろう、「子供」と書きたがらない人々が存在している。しかしそれは馬鹿げた考えである。「時計」は誰もがその表記を疑わない。しかしこれは本来は「斗鶏」や「土圭」だったらしい。どちらにも「時を計る」の意味がある。それが「時計」になった。
「こども」が本来は「子共」だったとしても、今は「子供」で良いではないか。「子どもに」こだわる人々がそうした本来の意味は、などと考えているはずが無い。単に気分で決めているに過ぎない。本来の意味にこだわるなら、「時計」を始めとして、多くの日本語が今の表記は出来なくなってしまう。
政府がなぜ「こどもの日」と表記を決めたのかは知らない。そして、我々がそうした表記に引きずられる必要は毛頭無い。もちろん「子ども」に引きずられる必要も無い。「子ども」の表記を得々としている新聞社、出版社から、是非ともそのきちんとした理由をお聞きしたいものだと思っている。
これは単なる表記の問題ではないのである。日本語の根幹に関わる大問題なのである。多分、そんな意識はお持ちではないのでしょうね。それが言論人だと言うのだから恐れ入る。
新聞社の表記辞典、例えば『朝日新聞の用語の手引き』では、もちろん「子供」である。「子どもとも書く」などの説明は無い。『毎日新聞用語集』も全く同じである。各報道機関が使っていると思われる『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(共同通信社)では次のようだ。
子供・子ども。一般には「子ども」が多く使われている。祝日は「こどもの日」。
『NHK新用字用語辞典』は「子ども」で、「子供」は許容になっている。
自社の表記辞典を守らない新聞社は、その表記辞典を市販する資格は無い。
それにしてもおかしな事を吹聴するものだ。共同通信社に至っては「子ども」が多く使われている、である。そんな事は無いのですよ。単に出版社や新聞社がそうしているからに過ぎないのであって、誰もわざわざ「子ども」などと書きたくはないのである。自分達がおかしな事をしているにも拘らず、それを「多くは」と言って済ませている報道機関のいい加減さを私は断固として許さない。
言っておくが、日本語の表記って、我々庶民はもっときちんと正しい表記をしているのである。していないのは多くの出版社や新聞社なのである。だが、出版物の影響は恐ろしい。どうしたって、それに引きずられてしまう事になる。もちろん、各社はそうした自分達の影響力の強さを自認している。それでいて、実にいい加減な事に手を貸しているのである。
「子供」は日本語の最も重要な基本語の一つである。それが「子供」と書けないなんて絶対におかしい。と言うよりも理屈が通らない。漢字と言うのは、単語を明確にする大事な役割を持っている。日本語がずらずら書きなのは誰もが知っている。同じ言葉で全く違う意味を表す事が出来る言葉も少なくない。私は仕事で校正もしているが、そこでいつも困るのが「最も」の仮名書きである。ほとんどの場合に「もっとも」とあっても「最も」だと分かるのだが、時々「尤も」と区別の付かない事がある。どう考えてもどちらだか分からないのである。現在は常用漢字に従うので、「尤も」は「もっとも」になる。だから「最も」と「もっとも」の区別が簡単に出来るのである。
漢字が必要なのは小学校低学年の教科書を見れば一目瞭然。それは分かち書きになっている。分かち書きと言うのはとても難しい。日本語はどこで切れるのかが明確ではないからだ。そんな難しい分かち書きを敢えてしているのは、低学年では使える漢字が限られているからである。仮名ばかりでは何が何やら分からなくなる。その弊害を防ぐために、分かち書きにしているのである。それほど漢字は重要なのだ。
「子供」をそのように書きたくない理由は分かっている。「こども」の「ども」は本来は複数を表すと思われている。ただし、「こども」の場合、そうと言い切れるかと言うとそうではない。その事を私は克明に検証している。「ども」は複数の意味もあるし、軽蔑の意味もある。それにこの「供」は意味不明である。本来は「そなえる・用意する」の意味らしい。そして日本語では「供」は「お供」の意味で使われている。
そうした複雑な事情もあってなのだろう、「子供」と書きたがらない人々が存在している。しかしそれは馬鹿げた考えである。「時計」は誰もがその表記を疑わない。しかしこれは本来は「斗鶏」や「土圭」だったらしい。どちらにも「時を計る」の意味がある。それが「時計」になった。
「こども」が本来は「子共」だったとしても、今は「子供」で良いではないか。「子どもに」こだわる人々がそうした本来の意味は、などと考えているはずが無い。単に気分で決めているに過ぎない。本来の意味にこだわるなら、「時計」を始めとして、多くの日本語が今の表記は出来なくなってしまう。
政府がなぜ「こどもの日」と表記を決めたのかは知らない。そして、我々がそうした表記に引きずられる必要は毛頭無い。もちろん「子ども」に引きずられる必要も無い。「子ども」の表記を得々としている新聞社、出版社から、是非ともそのきちんとした理由をお聞きしたいものだと思っている。
これは単なる表記の問題ではないのである。日本語の根幹に関わる大問題なのである。多分、そんな意識はお持ちではないのでしょうね。それが言論人だと言うのだから恐れ入る。