今日で四日も待った。だが白い郵便箱の中は相変わらず空っぽだった。節子の白いエプロンが風に揺れている。初夏の午後のひととき・・・節子はおくれ毛を指でかきあげると青空を見上げた。その青空の美しいこと。だが節子の心は暗かった。
家の中では引っ越しの整理で大わらわである。節子は長年住みなれた家を離れることよりも、良介から何の便りも来ないのが悲しかったのだ。
父の経営する小さな町工場がつぶれた。五日前には、遠い田舎に引っ越そうとは、都落ちしようとは、夢にも思っていなかったのに。これから父の故郷である山奥の農場に引っ越すことになる。そこが父の生家だった。
十日前、節子は小学生の弟を連れて植物園に遊びに行った。白地に水色の水玉模様のワンピースが似合っていた。弟がクレパスを握って写生している間、節子は弟から離れないように、近くをブラブラ歩いては立ち止まったりしていた。
しばらくして、弟の横に一人の若者がいるのが目にとまった。弟の絵を見て何やら助言しているようだった。
おせっかいだな、節子はそう思っただけで若者には気をかけなかった。公園の散策も飽きて弟のそばに帰ってみると、そこに若者もまだいたのだった。何か描いている様子。節子は思い切ったように弟の前に歩いて行った。
「国夫ちゃん、まだ描けないの?」
「うん、もうちょっと」
それっきり顔も上げずに弟はクレパスを動かしている。アヤメなのかショウブなのか、節子にはよく分からない。花はうすむらさき色をしていた。
若者もさっきから節子を見ていたらしく、節子が目を移すとあわてたように視線をそらした。弟と同じ花をスケッチしていた。その筆使いはきわめて繊細だった。
「絵を描くの、お好きなんですか?」
「ええ、まあ、美術学校へ行ってるんです」
「まあ!そうですか」
これが二人の交わした最初の言葉だった。
若者は紺地のスポーツシャツを着て、初夏の清々しい感じがした。背後の青葉が揺れていて、整った顔までがゆらゆら揺れているようであった。若者は鉛筆を一心に走らせていたが、描き終わったのか手にとってながめた。
「お上手ですね。そうね、どう言ったらいいのかしら。繊細でやさしい感じがします」
「いや~、学校に通っているのにちっとも上達しない」
「そんなこと、謙遜でしょう?」
「いや、 駄目ですね。こんなことを言っては何ですが、撲、前に一度貴女にお目にかかったことがあるんです。どうもさっきから変だな、って思っていたら、やっぱり、お目にかかっていたんですよ」
「まあ、私、分かりません」
「去年の冬、貴女は湯沢にスキーに行きませんでしたか」
高三の12月、女友だち四人で鈍行列車で上越線越後湯沢に出かけた。貸しスキーで滑ったものの最悪だったことを思い出した。真っ直ぐ滑り出してもすぐに転ぶ。友人たちは運動神経の鈍い節子を見ては大笑いしていた。
「ええ、行きました」
「その時、お目にかかったんですよ。僕が滑っていたら貴女が横から出て来て二人ぶつかっちゃって、貴女に怪我はなかったけど、思い出しませんか」
「ああ、分かりました。ちっとも気がつきませんでした。そう言われて貴男だったような気もするし、そうでした。だんだん思い出してきました。あの時はごめんなさい。でもおかしな偶然ですね」
二人はそんな話しから次第にうちとけてきた。
若者の名を横井良介と言った。東和美術学校の三年生。弟も絵を描き終えて、三人は一緒に植物園を出た。良介と別れるのがどんなになごり惜しかったか。おかしな偶然故に一日でこんなに親しくなったのも何かの因縁かも知れなかった。
良介とてなごり惜しかったにちがいなかった。別れる時、良介は節子に小声でささやいた。
「お会いする機会もそんなにないだろうし、お手紙差し上げてもかまいませんか」
「ええ」
節子はうれしかった。自分から言うことができなかったからだ。
良介は、節子の言う住所をスケッチブックにメモした。
だが、節子は良介の住所を聞くことはやめた。問うべきではないと思った。
良介は「じゃ、さよなら」と言った。節子たちを残して、良介の形のよい足が遠ざかって行った。
それから十日が経つ。とうとう手紙はこなかった。
良介は、ゆっくり急かず手紙を書こうという気持ちでいたのかも知れない。
その間に節子の環境に異変が起きた。
節子は待てないのだ。明日という日、遠くへ旅立ってしまう。いや、もうここには帰って来られないのだ。節子はきびすを返すとゆっくり玄関まで歩いて行った。がっくりと肩を落として。
汽車が発車した。ゴトンと大きくゆれて、節子の住む町から次第に離れて行った。汽車の窓から見える、町、町、人、人、だが良介の姿を見いだすはずもない。
今頃学校で絵筆を走らせているかも知れない。あるいは、あれはからかいだったのか。こんな考えもしてしまう節子だった。心の内で強く否定もする。
東京から次第に離れて行く。
節子の目からとめどなく涙があふれた。
故郷、東京の隅っこの町を離れる悲しさだったか、良介とは永久に会えないと思う悲しさだったのか。そばにいる両親は、東京を離れる悲しさで、節子が泣いていると思っただろう。
節子は車窓の風に吹かれながら、心の中で“さようなら良介さん”と叫んだ。 その声は、あたかもレールを渡り東京に帰って行くようだった。
空き家になった家の白い郵便箱に、茶色の角封筒がポトンと落とされた。
おわり
(中三 初冬)
後記
中三から高一にかけて、
短篇から長篇に至るまで、多くの創作を試みる。
今になって読み返すと、つまらない文章をコツコツと書いていたものだと我ながらあきれる。
主題もあいまい。世の中も言葉も知らない少女の頃の、原稿用紙に書いた一番短い創作が「さようなら」である。
今の私は、さようならという言葉が好きではない。
ではまた、またね、を使う。