千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

おだやかな昔に

2011年07月24日 | 日記
   
人は
誰もが
折り返す地点を与えられているのでしょうか

いつも
前ばかり向いて
歩いて来たような気がするけれど

何だか
もどってみたくなりました

誰もが
素朴で
やさしくあったかだったような

そんな気がする
おだやかな昔に
                          (azumi)

 まだ若かったおばさんがニコニコして、お帰り、と言った。
 家のはす向かいは鍛冶屋だった。お爺さんが熱い火の前でトッテンカン、トッテンカンと作業をしていて、お婆さんがその相方を務めていた。
 遠い記憶。
 おじさんは、背が高く色白なのに身体が悪いと聞いていた。
 乳飲み子がいた。その子の顔が見たくて、学校から帰ると前の家に遊びに行く。
 時代のせいもあったのか、玄関も居間も奥の間も、物であふれていた。片づけ物などしていられない。二十歳前に嫁入りしたおばさんは、朝早くから夜遅くまで仕事詰めだった。
 それでもニコニコと迎えてくれる。何か食べる?甘うりや西瓜がごろごろ転がっていたのを見たから、うれしくなって頷く。
 お婆さんの怒声が聞こえる。ハイ、ハイ、おばさんは赤ん坊に眼をやり、私を見て、ゆっくり食べてな、と言って仕事場に姿を消す。

 おばさんなどと言ったが、その頃成人式を過ぎたばかりだったと思う。
綺麗な文字を書き、学校の成績も優秀だったようだ。どこかの紡績工場で働いて、嫁入りしてきた。
 お爺さん、お婆さんも若かったのだ。子供の目がそう認識していただけなのだ。

 私も三人の妹がいたが、幼児のかわいさは別。おんぶしたり、家に連れてきて遊んであげた。
 昔は子供が多かった。隣だって六人もいた。
 近所の子供たち、男の子も女の子もなく、よくいっしょに遊んだ。

 道路も広くなり、新しい家が建ち、昔のおもかげが消えた。
 古くからの富裕農家だった家屋敷に変わらない一角が残っている。土地改良されていない小川も樹木も変わらない姿を留めている。小川の細道も、駆けて遊んだ昔のおもかげがそのまま。

 ちょろちょろ流れる小川のように、人々はおだやかにつつましく暮らしていたような気がする。




 初もぎゴーヤ。
 朝の一品。ゴーヤ・チャンプル。
 βカロチンやビタミンB1、またカリウム、鉄分などミネラル類も豊富。体のむくみをとり、疲労を回復してくれるので夏バテ防止に役立ちそう。
加熱してもビタミンCが壊れ難いそうだ。
 血糖値やコルステロール低下にもよさそう。私はまだ該当していない。
 ガン細胞を抑圧。放射能汚染に効果があればもっといい。

 川土手にノギクの花が咲き始めた。



2011年07月22日 | 日記

     

いつも豊かなものを求めていました
経済的に安定した生活とか
部屋を美しく飾るとか
綺麗な女になりたいとか
豊かな胸が欲しいとか
そんな願望は些細なことで
もっと深いものを
いつも求めていました

自分を視つめてみれば
若さだけでかろうじて自己満足していた時代は
とっくに過ぎて
もうごまかすことのできない
ありのままの自分がここにいます
体力も衰えて
精神的なちょっとしたことでも
疲労を覚えます
そんなとき
思考する力は全くなく
鏡に映る自分は
まちがいなく年を経た女に他なりません

そんな自分でも
豊かなものを求める心に
変わりはないのです

眼に見える全ての自分は嫌いなのに
眼に見えないただ一つのもの
ただ一つだけ自分の中で好きだとしたら
いつも変わらなかった
心です
豊かなものを求めようとする心だけです

      1988・7・22  azumi

 23年前の今日の詩。
 自営を始めた夫を手伝うようになる。
 まだ若かったのに、半ば肉体労働のような仕事に慣れなくて、心身共に疲労した頃。仲間とのつながりに支えられていた。
 実り多き人生とは云えないが、心の豊かさを求めることもなくなった。だが変わっていない。あの頃も今も。友と会えば、瞳輝く私がいる。友も同じだ。

 室内温度26℃
 昨日の夜から、初秋のような涼しさ。

 お昼前、近所の名物おじさんがへびうりの天ぷらを揚げて持って来てくれた。
 まだ実物をみていないが、へびのかたちをした長うりで生臭いと言う。
 食べたがイケる。美味しい。おじさんは元料理人。さすがである。
 名物おじさん、ユニークな人なのだが話はここまで。










 写真は魚野川。
 暑い日だったが、釣り人は、二、三人見かけただけ。
 魚野川、今年も鮎は少ないのか、釣り名人から夫への呼び出しがかからない。

 待望の雨が、ポツリ、ポツリ、落ちてきた。

ポイのナンシー

2011年07月20日 | 日記


 子猫の画像はかわいい。
 毛糸玉にじゃれて遊んで、毛糸を引っ張ると本気になって追いかけてくる。

 白い子猫だったナンシーは、成長とともに、頭、背中、手足がベージュ色に変化してくる、首の前、お腹、手足の一部分だけが真っ白なままで、ベージュ色の部分も薄い縞々が入ってきた。しっぽはベージュに焦げ茶の縞々。
 黒猫のシドを優位に常に気配りをする子。ナンシーがお姉さんだったに違いない。シドはやんちゃな甘えん坊で、私を独占したがった。ナンシーは一歩も二歩も下がって遠慮し、あるいはすごすごとどこかに立ち去る。

 夫婦で自営していたので、猫たちの食事は一日二回と決めた。
 仕事場を町はずれに持っていた頃、ナンシーは家の外階段の手すりで私を待っていた。車の走行音がかなり先から分かるようで、そわそわと落ち着かなくなり、車庫に入ってくると手すりからすとんと降りる。ナンシーただいま。人には分からなくても、ナンシーとは気持ちが通じ合えて、猫語が分かったような気になる。
 シドよりもナンシーの方が人間語をいち早く理解したようだ。
 夫に何か訴えているナンシー。夫は理解できないので、お母さんのところに行って聞いてごらん、と言った。ナンシーはパッとそこを離れて、トイレの前でじっと待つ。
 幼児が、母親のいるトイレの前で待つのと同じだ。シドにじゃまされない限り、私を追いかける。しっぽを絡ませる。頬をすり寄せてくる。シドさえいなければ炬燵の膝に座る。そして、しっぽをしゃぶる。しゃぶるという動作は後年まで続いた。
 私の膝で、前足を使ってもみもみする。これはシドも同じだ。赤ん坊が母の乳房を求めるのと同じ行為だと思う。

 ある時、洗面台の下に髪を結わえるゴムを落とした。そのゴムにじゃれる。
 髪に結わえるゴムをねだる。遊ぶ。そうこうしている間に,太めのカラーゴムを三つ編みに編んで輪にして与えた。
 夫のそばにいき、私はこんなことも出来るのよと、自慢げにゴム遊びをしてみせる。
 ある時夫が遠くに投げてやった。すかさずナンシーは走り、ゴムをくわえて夫の前にポトンと落とす。
 これがそもそもの始まり。ナンシーはポイが得意な猫となった。ポイを持っておいで、と言えば探して口にくわえてくる。ポイ遊びをしたい時、寝ころんでいようものなら頭髪を引っ掻く。知らんふりをしていると、顔まで引っ掻こうとする。
 時々どころか、しょっちゅうポイが行方不明になる。どれだけの数のゴムを編んであげたか。外までくわえて遊びに出る。

 その当時猫に関する知識や認識が浅く、四ヶ月でナンシーとシドが成猫になるとは思いもしなかった。そして妊娠。あわてて、猫の本を買いあさった。いかに無知だったか思い知らされた。去勢や避妊もさせないで、野放し状態で猫と生活する人たちがいる。捨てるのも、病気も苦にしていない。動物と暮らすことは責任も伴うのだ。
 ナンシーの出産の話は、またいつか。

 高齢の母がいる。
 平成19年から、新設なった介護付老人ホームで、介護の世話を受けてきた。
 胃ろうの手術をしたのが、二年半前。入退院を繰り返し、現在入院中。いまだ生命力を持ち続ける。今週あたり退院の話があったのだが、発熱があったため伸びたようだ。新薬による解熱剤。それが発疹というアレルギー反応をもたらした。速、投与中止。発疹は消えたがこの猛暑。病床にある母も楽ではないと思うが、目を開けてみつめるだけで言葉を発しなくなっている。

 海の日の十八日、駐車場に車を止めないで周辺を一回りした。




 イタリアンレストラン「フォレストイン」

 開店したころ、友人と何度か行った。
 屋根のひさしぐらいだった若木が、すっかり大きくなってグリーンカーテンの役目をこなしている。
 近年出かけたときは休店日だった。
 ピザがおいしいと聞いた。開店時何を食べたかさっぱり覚えていない。
 今度、友人たちと行ってみようかな。

 放射能の問題がクローズアップされて、どう乗り切っていけばいいのか迷うところである。
 あわてず、さわがず、できるだけ心おだやかに。汚染されてしまったものを食べたり、飲んだりしても摂取したものは仕方がない。これから先、人間は五年間で調整できると言うし、子供も、来年から二年間で取り戻せるように、健康に留意した生活をすることが大切だと思う。
 ごまかしや偽りがあってはならない。

(15歳の創作) さようなら

2011年07月18日 | 日記


 
 今日で四日も待った。だが白い郵便箱の中は相変わらず空っぽだった。節子の白いエプロンが風に揺れている。初夏の午後のひととき・・・節子はおくれ毛を指でかきあげると青空を見上げた。その青空の美しいこと。だが節子の心は暗かった。
 家の中では引っ越しの整理で大わらわである。節子は長年住みなれた家を離れることよりも、良介から何の便りも来ないのが悲しかったのだ。
 父の経営する小さな町工場がつぶれた。五日前には、遠い田舎に引っ越そうとは、都落ちしようとは、夢にも思っていなかったのに。これから父の故郷である山奥の農場に引っ越すことになる。そこが父の生家だった。

 十日前、節子は小学生の弟を連れて植物園に遊びに行った。白地に水色の水玉模様のワンピースが似合っていた。弟がクレパスを握って写生している間、節子は弟から離れないように、近くをブラブラ歩いては立ち止まったりしていた。
しばらくして、弟の横に一人の若者がいるのが目にとまった。弟の絵を見て何やら助言しているようだった。
 おせっかいだな、節子はそう思っただけで若者には気をかけなかった。公園の散策も飽きて弟のそばに帰ってみると、そこに若者もまだいたのだった。何か描いている様子。節子は思い切ったように弟の前に歩いて行った。
「国夫ちゃん、まだ描けないの?」
「うん、もうちょっと」
 それっきり顔も上げずに弟はクレパスを動かしている。アヤメなのかショウブなのか、節子にはよく分からない。花はうすむらさき色をしていた。
 若者もさっきから節子を見ていたらしく、節子が目を移すとあわてたように視線をそらした。弟と同じ花をスケッチしていた。その筆使いはきわめて繊細だった。
「絵を描くの、お好きなんですか?」
「ええ、まあ、美術学校へ行ってるんです」
「まあ!そうですか」
 これが二人の交わした最初の言葉だった。
 若者は紺地のスポーツシャツを着て、初夏の清々しい感じがした。背後の青葉が揺れていて、整った顔までがゆらゆら揺れているようであった。若者は鉛筆を一心に走らせていたが、描き終わったのか手にとってながめた。
「お上手ですね。そうね、どう言ったらいいのかしら。繊細でやさしい感じがします」
「いや~、学校に通っているのにちっとも上達しない」
「そんなこと、謙遜でしょう?」
「いや、 駄目ですね。こんなことを言っては何ですが、撲、前に一度貴女にお目にかかったことがあるんです。どうもさっきから変だな、って思っていたら、やっぱり、お目にかかっていたんですよ」
「まあ、私、分かりません」
「去年の冬、貴女は湯沢にスキーに行きませんでしたか」

 高三の12月、女友だち四人で鈍行列車で上越線越後湯沢に出かけた。貸しスキーで滑ったものの最悪だったことを思い出した。真っ直ぐ滑り出してもすぐに転ぶ。友人たちは運動神経の鈍い節子を見ては大笑いしていた。

「ええ、行きました」
「その時、お目にかかったんですよ。僕が滑っていたら貴女が横から出て来て二人ぶつかっちゃって、貴女に怪我はなかったけど、思い出しませんか」
「ああ、分かりました。ちっとも気がつきませんでした。そう言われて貴男だったような気もするし、そうでした。だんだん思い出してきました。あの時はごめんなさい。でもおかしな偶然ですね」

 二人はそんな話しから次第にうちとけてきた。
 若者の名を横井良介と言った。東和美術学校の三年生。弟も絵を描き終えて、三人は一緒に植物園を出た。良介と別れるのがどんなになごり惜しかったか。おかしな偶然故に一日でこんなに親しくなったのも何かの因縁かも知れなかった。
 良介とてなごり惜しかったにちがいなかった。別れる時、良介は節子に小声でささやいた。
「お会いする機会もそんなにないだろうし、お手紙差し上げてもかまいませんか」
「ええ」
 節子はうれしかった。自分から言うことができなかったからだ。
 良介は、節子の言う住所をスケッチブックにメモした。
 だが、節子は良介の住所を聞くことはやめた。問うべきではないと思った。
 良介は「じゃ、さよなら」と言った。節子たちを残して、良介の形のよい足が遠ざかって行った。

 それから十日が経つ。とうとう手紙はこなかった。
 良介は、ゆっくり急かず手紙を書こうという気持ちでいたのかも知れない。
 その間に節子の環境に異変が起きた。
 節子は待てないのだ。明日という日、遠くへ旅立ってしまう。いや、もうここには帰って来られないのだ。節子はきびすを返すとゆっくり玄関まで歩いて行った。がっくりと肩を落として。

 汽車が発車した。ゴトンと大きくゆれて、節子の住む町から次第に離れて行った。汽車の窓から見える、町、町、人、人、だが良介の姿を見いだすはずもない。
 今頃学校で絵筆を走らせているかも知れない。あるいは、あれはからかいだったのか。こんな考えもしてしまう節子だった。心の内で強く否定もする。
 東京から次第に離れて行く。
 節子の目からとめどなく涙があふれた。
 故郷、東京の隅っこの町を離れる悲しさだったか、良介とは永久に会えないと思う悲しさだったのか。そばにいる両親は、東京を離れる悲しさで、節子が泣いていると思っただろう。
 節子は車窓の風に吹かれながら、心の中で“さようなら良介さん”と叫んだ。 その声は、あたかもレールを渡り東京に帰って行くようだった。

 空き家になった家の白い郵便箱に、茶色の角封筒がポトンと落とされた。

                             おわり

                          (中三 初冬)

 後記
 中三から高一にかけて、
短篇から長篇に至るまで、多くの創作を試みる。
 今になって読み返すと、つまらない文章をコツコツと書いていたものだと我ながらあきれる。
 主題もあいまい。世の中も言葉も知らない少女の頃の、原稿用紙に書いた一番短い創作が「さようなら」である。

 今の私は、さようならという言葉が好きではない。
 ではまた、またね、を使う。



キャンピングカー

2011年07月16日 | 日記

 家に近い信号は、まだ点滅状態。
 朝六時ちょっと前か。
 大型のキャンピングカーが横切って行った。
 四十代とおぼしき男女。
 奥には、子供たちが眠っているのだろう。
 車のナンバーは見届けなかった。
 向かっているのは、名前の知られた山。管理された施設はないが、緑と、森と、渓流と、空気と、何よりも水がおいしいところ。
 生水でも飲める伏流水があちこちに湧き出る。

 先年、水無渓谷でキャンピングカーで何日も滞在しているという男性を見かけた。携帯ラジオをかけながら、まな板の上で魚を捌いているところだった。
 夫が話しかけた。ヤマメのたたきといきますか。タバコをくわえたたままの笑顔で答えた。
 渓流釣りをして、イワナやヤマメを串刺しにして、米をといで、パスタ料理を手早く作って、洗い物をして、あとは寝椅子に寝っ転がって、本を読んだり、昼寝をしたり・・・下着類が干してあったから、川で水浴びもするのだろう。大抵のものが揃っていた。富山から来たようだ。
 いいな、悠々自適な人生が羨ましい。私たちは、いくつもある滝を見に来たのだった。
 その水無川、山を下ると水の少ない川となって、魚野川に合流するまでに地下に潜ってしまう。
 大雨が降ると、とんでもない暴れ川になって、巨岩を運ぶ。それらが小岩となって、庭石になる「八海石」を生み出す。その石だが、我が家の玄関奥、玉石を敷いた坪庭風の場所に大小三個が鎮座している。

 キャンピングカーを見かけた時から、ある風景が浮かんでは消え、また浮かぶ。
 子供たちと「体験サマーキャンプ」に参加した。
 企画者は、よく行く店のオーナーのご主人。
 大人たちは子供をサポートするだけで、子供たち主動のもくろみ。
のはずだったが、参加者が集まらない。結局、ご主人が中心でやっていた子供会の子供たち三人、ご主人の娘、私の娘たち、子供六人の参加だった。子供たちの親が加わり、店の常連の若者たちが二、三人と私を含む十二人くらいだったと思う。
 定番のバーベキューだったが、子供たちは楽しかったようで、近くを流れる小川で、野菜を洗い、切り刻んだ。
 飯盒炊爨は、ご主人が手慣れた動作で米を研ぎ、木の枝を集め、藁を綯い、小石を摺り合わせて火を熾した。枯れ枝の下に隙間をつくって、新聞紙をまるめて点火。それがおもしろくて、子供たちは興味津々。
 バーベキューの鉄板を置く重い石は若者たちの役割。大きなテント張りは子供たちも手伝った。

 県道から農道を抜け、山と山との谷間にキャンプによさそうな別天地があった。外界からは全く遮断された山裾。
 ご主人が借りていた荒れ野に近い農地。タラの芽やコシアブラを栽培し、無農薬で鶏を育て、卵を販売していた。
 利益はともあれ、開拓精神、反骨精神を買った。語学にも堪能、饒舌家だった。

 バーベキューもたけなわの頃、夕立が来た。雷と土砂降りだったが、子供たちは大はしゃぎ。テントの屋根は滝のような雨水が落ち、下の敷物も濡れた。ほどなく雨は止み、敷物も乾いたものに変えた頃夜になった。
 ローソクの灯りの中で、子供たちより大人たちが盛り上がる。
 にぎやかなことが好きな長女は、さすがに大人の間では口数も少なくなる。つまらなくなったのか、ごろ寝しているうちに寝入ってしまった。物静かなはずの次女、大人たちの話に加わって会話を楽しんでいた。いつのまにか成長している娘に感心したのだが、話の内容はいつか忘れた。
 夫は東南アジアに赴任中。娘も一緒だと思うと気が緩んで、つい飲み過ぎた。
 眠れなくなった夜の星空が綺麗だったことを覚えている。

 誰も起きない早朝、小川の水で顔をジャブジャブ洗ったら、すう~っと酔いが醒めていった。
 茄子や胡瓜の漬物の差し入れが届く。お店の裏の女性だった。親切はこんなとき心に浸みるものだ。
 飯盒炊爨の炊きたてのご飯と味噌汁、そして漬物、それだけで充分だった。
 楽しかったと言う娘たちの声を聞いて、母が待つ家に急いだ。