目覚めると、傍らにいるはずの数馬の姿がない。
柱時計の秒針は五時四十五分を示していた。淑乃は慌てて飛び起きた。昨日までのことは、長い夢だったのだろうか。そんなはずはなかった。布団の横には、きちんと畳んだ数馬の衣類とスーツケースが置いてある。ホッとして襖を開けた。電灯は点いてなかったが、ガス台には、煮干しが入った鍋が弱火にしてあった。煮干しのある場所を探したのだろう。音を立てないように配慮した数馬の気配りが嬉しかった。
隣の洗面台で小さな水の音が聞こえる。
「数馬さん、おはようございます。寝坊しちゃった」
数馬の声が聞こえた。
「淑乃さん、おはよう。まだ寝ていて下さい」
「でも・・・」
数馬は、タオルを肩にかけたまま、フローリングに姿を現した。
「カミソリで顔をあたっていたところです。男はすぐ伸びてしまいますからね。電動を持ってこなくてよかった。音が煩いからね。これでさっぱりしました。簡単に朝食作ろうと思っていたところです。煮干しは戸棚に入っていました。ワカメ、豆腐、味噌、野菜、卵も冷蔵庫にありましたね」顔を洗って、髭を剃った顔はすっきりとしていた。
顔も洗わず、寝ぼけ眼の淑乃は、さすがに恥じ入った。
「すみません、洗顔してきます」
「簡単なものしかできないけど、朝食は僕がやります。まだ早いから寝ていてもいいですよ」
数馬は淑乃を見て、にこっと笑った。
洗顔しながら、昨日のあれこれが走馬燈のように駆けめぐる。
食卓の花瓶には、恵太から届いたトルコ桔梗のピンクが可愛らしく活けられている。恵太の心が嬉しかった。トルコ桔梗のピンクは、お祝いに喜ばれる。花言葉は、清々しい美しさ、優美、希望、だったかな。友人へのお祝いに、花キューピットで贈ったことがあった。これって、私が活けたのだろうか。思い出せない。
「ピンク色のトルコ桔梗、可愛らしいですね。バケツから出して、半分は仏壇に活けておきました」さりげなく数馬が言った。洗面所にあった赤いバケツに花を入れたのも数馬?全く思い出せない。バケツは年末の景品でもらったものだ。
二人分の珈琲をカップに注ぎ終えた数馬の背に、思わず淑乃は抱きついてしまった。数馬さん、好きです。愛しています。淑乃は幸せです。駄々っ子みたいに、愛しい人の全てを捉えて離したくなかった。心の中の、違う自分が笑っている。おや、おや、どうしてしまったの。今までの淑乃は何処に行ってしまったの。箍が外れたように、失念さえ起きている。自分でも可笑しいと思う。堰を切ったように数馬への思いが込みあげてきた。
「淑乃ちゃん、そうだ、これからは淑乃ちゃんと呼ぼう。いいんだよ。甘えんぼの淑乃ちゃん、今までずっと我慢していたんだね。お父さんにも、お母さんにも甘えられなくて・・・」
数馬は、淑乃の前に廻り、両手でやさしく抱きしめてくれた。この人と生きていくのだ。淑乃の心は歓びに震えた。
我に返って、「珈琲が冷めちゃう」と、椅子に座って食卓の珈琲を口に運んだ。「やっぱりぬるくなっている。数馬さんも飲まないと・・・」
「そうだね。淑乃ちゃん、珈琲は熱いのがお好き?」数馬はジョークを交えて言った。
「勿論、火傷するほど熱いのが好きよ。最も、私の熱砂はすぐに覚めるはずだけど?数馬さん、冷たいのはお好き?」淑乃は首を竦めて失笑した。
「熱々もクールも好きですよ。淑乃ちゃんは、冷静沈着、思慮深い女性だって分かっているから」
「淑乃ちゃんって、本当にこれからも言うの?」淑乃は気恥ずかしかった。
「言いますよ。僕の可愛い人ですから」結婚とは、こんなにも自由な言葉を口に出来るのか、来し方を反芻する二人だった。
フローリングの壁面時計は六時四十分になろうとしていた。「大変だ。味噌汁のだし汁がなくなっちゃいます。弱火でも、こんなことしちゃいけなかったね」数馬は頭を掻いている。
淑乃は笑いながら、「私がします」と言った。
「大失敗ですね。次は気をつけますから、僕にやらせて下さい。朝は食パンでしたね。淑乃ちゃんはそこに座っていて下さい」
仏間の布団を片づけなくちゃ、ついでに両親に挨拶しておこうと思った。
数馬が「淑乃ちゃん、よく眠っていたので、音を立てないように、ご挨拶しておきました。びっくりなさったでしょうね。訳の分からない風来坊みたいな男が泊まったので、お詫びしておいて下さいね」数馬の声を背後に聞きながら、淑乃は羞恥心で言葉が出なかった。激しい衝動に突き動かされた己を恥じた。今までの人生になかったことだ。
朝食が出来上がった。
ふわふわスクランブルエッグ、具沢山の味噌汁、野菜とミニトマトのサラダ、キュウリの即席漬け物、トーストだった。
「いただきます。わあ~、美味しい。数馬さん、お上手」
「下手ですよ。長年やって来ましたが、いい加減です。洗い物も苦手」
「洗い物は私がやって、数馬さんにお料理お願いしょうかな」
「二人で分担してやりましょう。その方が楽しい」
「そうですね。何作ろうかな?から、栄養バランス、節約も踏まえて、やっていく生活・・・」
そこまで言って、淑乃は舞い上がっていたのではなかったかとの反省も出てきた。
「こんなことになって・・・三年後までお待ちする気持ちでしたのに、稔さんは頼もしい方です。私を慮って口にしたと思うのです。許して下さい」
結婚の承諾を得に、数馬は実家を訪問したはずだった。亡き両親に代わって、親代わりであり、兄姉のような存在だった、稔、多恵夫婦に挨拶をする義務が数馬にはあった。
「稔さんのお気持ちが正しかったのです。決して性急ではありません。定年まで待って貰おうなんて、僕の方が軽薄でした。淑乃ちゃんの性格から、これから三年も待たせるなんて、感情を抑えきれずに過ごすことを思うと、やっぱり僕は罪作りな男でしたね。稔さん、多恵さん、恵太君にも感謝しています」
数馬は深々と頭を下げた。
「よして下さい、数馬さん。私は村越淑乃、あなたの妻です。そのことが嬉しいのです。あなたの妻、そう口にしただけで心が震えます。感謝を申し上げるのはこの私です」数馬同様、淑乃も深々と頭を下げた。
六十二歳と五十二歳の新婚夫婦は、誰が見ても、若々しく、清々しく映っただろう。
「明日、事業所の所長に報告します。社会保険のこともありますし」
「お願いします。あ、それから結婚指輪ですが・・・」
「数馬さん、お気遣いなく、指輪は要りません」
「ですが、僕の手で淑乃ちゃんの薬指に嵌めてあげたい。左手の薬指は心臓に直結するところだし・・・でも、女性を縛るエゴに価するかな」
「そんなことはないです。じゃあ輪のリングだけ下さい。安いものでいいですからね」
「了解しました。オモチャのリングね。百円ショップで買って来よう」
「はーい、これで決まりですね」
二人は可笑しくなって、ゲラゲラ笑い合った。夫婦であって、恋人同士にしか見えない二人だった。
「あの抽象画に見える、二枚の油絵は同じ作者ですか」
玄関の壁掛けとなっている絵とソファの上の壁の絵を指して数馬は言った。
玄関の絵のタイトルは「渓谷」F8、フローリングの絵は「飛翔」F6、恵太が描いた。絵画教室に少し通っただけで、自分に合わないとあっさり退会した。
「恵太君ですか。抽象画っぽくていいですね。恵太君らしくていいなあ。ペンティングナイフを使って、描きなぐってみたら作品が出来た、そんな感じですね」
「どうなんでしょうね。要らないというからもらったんです。「渓谷」は玄関に合うんですよ。花瓶に草花の緑を配したらいいかなーと。「飛翔」も訳が分かんない絵だけど、躍動感を感じるの。絵って、自分に伝わるものがあればそれでいいんじゃないかって・・・数馬さんのスケッチを見ていないのに、生意気なことを言って、ごめんなさい」淑乃は少し自粛した気持ちになった。
「色彩がいいですね。飛翔、これから飛び立とうとする、あるいは途中で羽根を休めて、飛び立とうとする躍動感があります。こうして、淑乃ちゃんと評価し合い、分かち合える、人生とはこういうものなんですね。僕の絵は引き出しにしまっておけるスケッチブックです。この先、玉手箱みたいに次々と登場しますから、乞う!ご期待!冗談です。下手ですからいつか、一緒に描きましょう」
「数馬さんの横で、見ています。私は苦手なの」本当だ。文字や絵の上手な人が、心底では羨ましい。数馬の文字は一字一句丁寧で几帳面さが伺われる。
恵太が七歳だった。
祖父母の看護のため、神奈川から帰った淑乃を、誰よりも喜んで出迎えたのは恵太だった。
初恋のような淡い恋心が恵太にはあった。
「よっちん、遊ぼ」「よっちん、遊びに行きたいな」
病院から疲れて帰ってくる淑乃を占領することは不可能に近かった。淑乃は極力求めに応じてあげたが、稔、多恵夫婦は咎めた。身体を休める時間を作れと。だが、恵太と過ごすことで癒されたのだ。小さいときから恵太は心の優しい子だった。
幼児の頃、帰省した淑乃に、覚え立ての言葉で「よったん」、「よったん」と甘えた。いとこなのに、可愛い弟の存在だった。「よったん」が「よっちん」になった。自分はこうして数馬と結婚できた。今度は、恵太の幸せを願う自分がいた。
「淑乃ちゃん、高橋淑乃だったけど、ご実家のお兄さんご夫婦も高橋さん、素朴な疑問なんですが、どうも腑に落ちません。高橋さんが周りに多いっていうことですかね」
「ピンポ~ン、大当たり!多恵姉さんは高橋さんと結婚したの。高橋性も多いのよ。偶然ですけどね。広井さんに嫁いだ広井さんもいますよ。お婆ちゃんだけど。越後弁かしら、「い」と「え」がはっきりしないことってありますよ。広井さんの名前は広井広江だったという、笑えない微笑ましいお話だけど」
「なるほどね」
「そうなの。淑乃の呼び方も、抑揚のない平坦な呼び方をする人が多いけど、実はよ・し・の、って階段みたいに下がるの。お婆ちゃんは平坦な呼び方だった。越後に住むと言葉から自然に学ばざるを得ないことが多々あります。面白いですよ」
「面白そうだ」
「名残惜しいけど、今日は早めに帰りましょう」
数馬も疲れているはずだ。休憩をとりながら、ゆっくりと帰ってほしい。
「そうしますけど、ご実家にご挨拶に行かなくては」
「昨日で充分です。駅前の海鮮居酒屋で、稔さん、泥酔していたことを今思い出しちゃった。多分、二日酔いよ。電話だけにして、次回にしましょ」
「ハイ、分かりました」
ふたりの時間がゆったりと流れていく。
後編へと続く