千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

いたずらに 時は

2013年01月25日 | 日記


いたずらに
時はすぎてゆく

そんな言葉を
使いたがっていた時代がありました

時など
いたずらにすぎていきはしないのに

狂うことなく
正確に刻まれてきた時なのに

自分だけのための
時であるような錯覚をして

時に甘え
時に身をもたれかけ

ただそれだけのことだったのに


罪の重さに気がついて
はじめて知るのです

いたずらに
時などすぎはしないということを

時になすりつけた
あいまいな来し方のあやまちに

                      (Azumi)

 診療所に出かけたので、放射冷却現象をデジカメで撮る。
 一昨日も、山際に霜が降りて、帯状に広がっていた。午後になっても同じ現象。昨日は夜明け前から靄がかかっていた。診療所に向かう時間も帯状の靄が四方に延びていた。
 9時37分。
 八海山が隠れている。



 同じく、9時37分。
 銀杏の木の上を靄が上がってゆく様子。




 診療所を出た11時48分、放射冷却現象はすっかり消えていた。




 風邪っぽい状態が長引いたので、診療所で診て貰った。微熱が出たのは一度だけ。胃腸炎、インフルエンザの検査までしたが異常は見あたらなかった。なのに、かったるい日々が続く。太極拳のレッスン場でも、この冬の風邪の特徴は、熱がなくてもダラダラと長引くと聞いた。私も、同じだなと思った。
覇気がない。

 好天に誘われるように書店に出かける。
 一週間前、沼田まほかるの文庫本が山積みだったのに昨日はなかった。
 売れている新刊書のコーナーのトップが、三浦しをんの「神去なあなあ夜話」である。徳間書店の単行本だ。
 神去村へようこそ!
との、キャッチフレーズの帯がついていた。
 のんびり行こう。ゆっくり行こう。
 私向きの言葉が添えてある。
 いつか文庫本になったら買ってもいいかな。
 三浦しをんと言えば、「強い風が吹いている」が映画化され、DVDとなっていることを知った。
 勿論、レンタルで借りてきた。風邪っぽい日に、二回も続けて鑑賞したことは言うまでもない。

 猫のこととなると放っておけない私。
 新聞の広告欄にあった、
 川村元気著「世界から猫が消えたなら」を読み始めているが・・・
 作家の文体に、すうっとは入ることが出来ないでいる・・・

 元気という名の猫が、我が家にもいた。それで買う気になったのか。

 まだ、
参った。
 泣けて泣けて仕方がない、場面に到達していない。

 シド、
 ナンシー、
 ラブ、
 トシチャン、
 元気、
 ハナ、
 共に暮らした猫たちの名前。

 寒風と雪が強まってきたが、
猫との思い出の中にいて、心をあたためている私である。



ある回想

2013年01月15日 | 日記





 父の本棚にあった、角川書店版 昭和文学全集・・第九巻「川端康成集」を取り出して、自分の本棚に立てかけたのは以前のことだ。
「雪國」昭和28年3月発行の旧かなづかい。文字も小さく読みにくく放置していた。 自分で買った全集を思い出し、紐でくくった本類の間から引っ張り出した。

 ふと、あの彼女はどうなったのかとの思いがよぎる。

 「雪国」と桃色の手紙を題材に、何かを書こうとしていたのだった。

 歌さん。
 元湯沢温泉芸者。 ご存命であればかなりの高齢。高校時代の友人夕子の母親だ。
 20歳も年の離れた長姉は、越後湯沢の老舗旅館に嫁ぎ、長兄と兄嫁、歌さんとで仕出し料理屋を切り盛りしていた。歌さんを退かせたのは夕子の実の父親。富農の父親はすでに老齢で、妻、長男とその家族がいた。
 歌さんは妾の立場。夕子が生まれたとき、父親の違う長女、父親が同じ10歳の長男と3歳の次女がいた。仕出し料理屋は、夕子たち3兄妹の父親が出資した。

 歌さんが温泉芸者をしていたのは大正末から昭和初期のことだろう。入籍することもないまま、芸者として4人の子の母となった歌さん。
 母親のいうままに、少女の頃から習い事をさせられた夕子。自分の生い立ちに深く傷つき、一人苦悩していたことを知る。

 川端康成が「雪国」を発表したのは昭和9年。

 「この先きの町の中学ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛びこむんですって。体が雪のなかへすぽっと沈んでしまって見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって。ね、あすこにもラッセルがいるわ」
 東京に帰る島村。駅の列車待ちの時間つぶしに、2日も降れば6尺は積もる雪の様子を駒子が話している。

 寄宿舎のある中学とは、戦前男子校だった我が母校である。
 その頃は古い奇宿舎の建物も残っていて、古文の教師が、小説「雪国」に書いてある、と熱っぽく語った。その教師は母方の亡き叔父。剣道部の顧問として、寄宿舎を部室に使っていたので、思い入れも一入だったのだろう。

 高校に入ってまもないある日、色白でおとなしそうな、お下げ髪の少女から手紙を受け取った。
 帰り支度をしている私の机の上にそっと置いて、「これ、すみません。読んで下さい」と頭を下げ、あっけにとられている私の前を走り去った。

 桃色の封筒、桃色の便せん 10枚。
 芸者の娘として生まれた苦しみが赤裸々に綴られていた。
 姉兄3人いるが、嫁いでいる長姉とは20歳も違う。3歳上の姉は東京の大学に行っている。自分と違って頭もよく、現実を否定せず、前向きに生きなさいと云う。長兄は商売と、兄嫁のことしか考えていない。
 最後に、あなたならきっと分かってくれそうな気がしました。 と結んであった。

 町の少女からの手紙。
 在(町に対してへんぴな田舎のこと)に住む私は、狼狽と痛く感動してしまった。
 母に話すと、「芸者の子と友達になるというのか」と冷ややかだった。
 母には、没落したが豪農だったという、自分の生家のプライドがあった。そのプライドに反抗したくなる私の少女期である。
 母の意に背くように、私は夕子に急接近していった。休み時間もいつも一緒。 彼女の家に遊びにも行った。母親の三味線と煙草盆が物珍しかった。娘の友人を歓迎もせず、拒みもしない無表情の母親の印象が残った。 三味線をつま弾く音色が聞こえていたこともある。奥にある夕子の部屋で語りあって、時が過ぎるのも忘れた。
 店では活気ある長兄の声。客とのやりとり。笑い声。
 おやつも豊富な、町の商家の暮らしを初めてかいま見た。
 黙っていられず母に話すと、「そういがか」と、目を細めてくれた気がする。

 私たちは、なかよしのまま、学校生活を過ごしたわけではない。 クラスが変わり、他の友人たちとの交流、部活で離れたり、また友人に戻ったりした。

 長姉が女将となった湯沢温泉の老舗旅館、そこで事務員となっていた夕子は故郷を飛び出して東京にやって来た。
 私のいる東京へ。

 色白で美少女。芙蓉の花の形容が似合った彼女は自分の足で歩き出す。
 某新聞社の面接に出かけ、パートタイマーとして就職。そこで平和運動をしていた青年と恋愛。そして結婚。二人で印刷業を始めた。子供は出来なかったが、過去の彼女ではなかった。

 ある年、年賀状が宛先不明で戻ってきて、それ以来彼女の消息は途絶えた。

 大河ドラマ「天地人」が始まって、我がまちは沸き立った。あちこちで開催されていたイベントに出かけ、「青苧あおそ」の文字が目にとまった。
 苧麻(カラムシ)の皮から採った繊維を「青苧」といい、「越後縮」は青苧を細かく裂いて撚りをかけた糸で織る、ということを知る。

 「雪国」にも、越後縮、雪さらしが登場。
 ずいぶん時をおいて再読することになった「雪国」。

 昨年9月、
越後湯沢、神立、土樽方面を車で周り、土樽駅で、川端康成「雪国」の道標を見た。

 教師だった亡き叔父。叔母も逝き、母も逝った。

 そして、夕子から便りがあったことを記しておこう。
 夕子は、夫婦二人で伊豆大島で暮らしている。







好きなのは元旦

2013年01月06日 | 日記

   
一年のうち
好きなのは元旦
誰もが笑顔で
決して怒ったり泣いたりしていないから

一年のうち
嫌いなのは元旦
誰もが笑顔でいるけれど
決して本当の素顔ではないから

一年三百六十五日
あまりにもあっけなく
心を置き去りにして勝手に遠ざかっていく
忘れてきたものはもう還らない
私は一体何を忘れてきたのだったか
新しい年になるとそれもさだかではなく
新たな心で歩きだそうとしている

今日からの私は
心の日々を大切にしたい
人は一度しか
生きられないものだから
                         (Azumi)


 お正月。
 暮れから一週間が気ぜわしいままに過ぎた。
 昨日の午前中、一家族が故郷を離れ、残りの母子も夕刻まで実家を出ようとしていたが、結局夕食後になった。

 外気は凍てつくような寒さ。
道路も凍結している。
帰路を気にかけながら、残った夫婦二人。

 いつもの日常に戻る。
 静かすぎる日常に。

 体力、気力が抜け落ち、毎度の腑抜け状態。
 ブログ更新は、あっさり断念した。

我が家のお正月ご飯。

壺煮



ごぼう、人参、筍、乾燥椎茸、かんぴょう、里芋、コンニャク、レンコン、鶏もも肉、肉団子(ねりもの)、生揚げ。
材料全てを7、8ミリに切る。椎茸は水に戻しておく。里芋、レンコンも水洗いをしてぬめりを取る。アク抜きコンニャクを使用。大鍋で固い順番に煮る。途中、何度もアク抜きをする。酒、みりん、砂糖、醤油で味付け。落とし蓋をして、ストーブの上でコトコト何時間も煮る。娘たちのリクエストトップ!。切り刻みは娘たち。味付けは私。
元来、葬儀に作った精進料理。「壺」と言った。私も手伝ったことが何度もある。葬儀はセレモニーホールでやるようになり随分簡素化されている。
親戚で食べた壺煮が、いつか私の正月の味となった。鶏肉、ねり製品を加えるので、本来の「壺」ではない。

夕食に孫が食べたので、これで完食となった。

昆布巻き



昆布、塩鮭、かんぴょう、水、酒、みりん、砂糖、醤油。
昆布を洗い、一定の長さに切って、塩鮭の頭や固い切り身をかんぴょうで巻く。
作業をしたのは次女の夫。
味付けは私。何時間もコトコト煮た。

ぜんまい煮物



ぜんまい、ごぼう、人参、コンニャク、かんぴょう。
近所の人からいただいたぜんまいを水に戻して煮ただけだが、残り物を加えて美味しい一品が出来た。

紅白なます



大根、人参。

汁粉 雑煮



小豆、大根、人参、ごぼう、里芋、こんにゃく、椎茸、かんぴょう、塩鮭。
この地域の味なのだろう。亡き母から受け継いだ、具沢山の雑煮。この味は、妹たち、娘たちにもつながるふるさとの味なのだろう。
汁粉の小豆は、コトコト煮つめて、砂糖、塩を加え半殺しに。餅は、餅屋に注文するようになって久しい。

大根のビール漬け





ローストポーク(長女の夫作)



調理人なので絶妙の味。手際がいい。

ミモザサラダ (長女の夫作)



冷蔵庫の残り野菜を使う。あっというまに仕上げる。

子供用野菜スープ(長女の夫作)



人参が主。あといろんな野菜を入れてミキサーにかける。美味しいスープの出来上がり。
私もだが、孫たちが喜んで食べた。さすがである。

 娘たちや婿たちのおかげで、随分楽をさせてもらったお正月・・・
 お正月料理だけをブログに載せたが、作ってもらった料理は他にもある。

 我が夫も、漬物、ジャムづくり等々、自慢の腕を発揮した。


孫たちの橇遊び。
小さな子供たちの楽しそうなこと。
大人たちも笑みがこぼれる。



 お正月。
こうして終わる。