千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

創作 淑乃は今 後編 三

2016年02月27日 | 日記

                              三

 数馬と淑乃は、京料理の店「紙屋川」で昼食を摂って、見落としていた「しょうざんリゾート京都」エリアをゆっくりと散策した。

 次ぎは源光庵だった。

 源光庵 京都市北区鷹峯北鷹峯四十七

「光悦寺の近くなのに町名が違うのね」
「光悦寺だって異なるよ。庭園エリアは衣笠鏡石と書かれているし・・・」
 数馬は何枚かのパンフレットを代わる代わる確かめている。



 源光庵 山門「複古禅林」の額

 源光庵は、貞和二(千三百四十六)年に徹翁(てっとう)国師が開山した寺院で、もともとは臨済宗大徳寺派の寺院として創建されました。元禄七(千六百九十四)年に、加賀・大乗寺の二十七代目卍山道白(かいざんどうはく)禅師がここの住職を務めたことから曹洞宗の寺院に改められ、現存する本堂も建立されました。
本堂にはご本尊の釈迦牟尼佛、両脇には阿難(あなん)尊者、迦葉(かしょう)尊者がおまつりされています。本堂横には、卍山禅師が享保四(千七百十九)年に建立された開山堂があります。卍山禅師は、宗祖道元禅師の教えが当時の乱れた宗門を復古した功績から、「中興の祖」として讃えられています。山門には、「復古禅林」の額が掛けられています。
 卍山禅師は、天和元(千六百八十一)年に京都洛南宇治田原の山中で、霊芝というきのこから霊芝観世音を感得しました。すると、当時の後西天皇は自然のものでできたこの観音像をおまつりしたいとのことから、宮中で供養しました。
 その後、観音像は源光庵に戻り、秘仏としておまつりされるようになりました。
                          (パンフレットより)



 山門を潜ると鐘撞堂が目に入った。光悦寺とは趣が違った。





「源光庵には伏見桃山城遺構血天井があるんだね」
 数馬はパンフレットを見ながら呟いた。
「えっ、何だっけ」
「入ってみれば分かるよ」
 本堂は大勢の観光客でごったがえしていた。入り口の靴置き場に困った。下駄箱もいっぱいだ。躊躇している淑乃の靴を、数馬が最上段にあげてくれた。
「ありがとう」
 こんなとき数馬の上背に助けられる。一緒に暮らすようになって、数馬は体重も増え、たくましくなってきた。野山を歩くようになったのも一因している。二人ともスニーカーを履いてきてよかった。しょうざんリゾートも長時間歩けた。
「どういたしまして。こんなご用なら何なりと」
 受付で拝観料を支払うと廊下に出た。
 天井を見上げる人々のざわめきがあった。入母屋造りの本堂を順番に廻ることにした。



「なるほど、なるほど、血天井の説明文か」
「長くて読めない。首が疲れちゃう」
「僕が支えてあげようか。抱っこしてあげてもいい」
 二人のやりとりを、訝しげに聞いていた老人がいる。
「嫌だ。変なこと言わないでよ」周囲に大勢の人たちがいたので、淑乃は数馬の名前も出さないでいる。
 数馬は笑った。笑う数馬の背中を、淑乃はごつんと叩いた。
「平気、平気、誰も聞いちゃいないのに」
 淑乃は数馬を見上げて口を尖らす真似をした。

 団体客が入ってきたようだ。本堂はたちまち人であふれた。
 二人は廊下に出た。



「天井をよく見ていると、血痕が付いていることがわかります。この天井は血天井と呼ばれています。ほんとだ。足跡があるね」数馬がパンフレットを読みながらいう。

 慶長五(千六百)年、関ヶ原の戦いの直前、徳川家康は会津の上杉景勝討伐に向かうため、留守居として忠臣鳥居彦右衛門元忠一党約千八百人に、京都・伏見桃山城を守らせていた。家康が京を離れた隙を狙っていた石田三成の軍勢(九万)が伏見城を攻撃、鳥居元忠とその部下は光成軍を少しでも長く京に留まらせ、会津まで援軍に行かせないようにと奮闘したが八月一日遂に力尽き、落城の際に鳥井元忠ら三百八十名以上が自刀したという。鳥居元忠たちの遺骸は関ヶ原の戦いが終わるまで約二ヶ月間もの間、伏見城に放置され、その血痕や顔や鎧のあとが縁側板に染み付き、いくら拭いても洗っても落ちなくなった。そこで、縁側からその板を外し、供養のため寺に移した。その際に床を、足で踏む床板にしてはならないと、天井にして手厚く供養しているものが「血天井」として今も残されている。養源院、正伝寺、宝泉院、興聖寺、源光庵にも奉納された。
                          (パンフレットより)

「上杉景勝は坂戸城で長尾政景、仙洞院の嫡子として生まれたの。仙洞院は謙信の姉よ。景勝が生まれたのは樺沢城だけど、幼くして景勝の近習となったのが直江兼続。織田信長、豊臣秀吉と戦乱の世は続き、会津百二十万石の戦国大名の地位を確立したの。秀吉の死後、徳川家康との確執が激化、会津一国をもって徳川連合軍を迎え撃つの。関ヶ原の戦いののち、米沢三十万石の城主となった。直江兼続のよき理解者だったらしい。『密謀』に書いてなかった?」
「さすが淑乃ちゃん、詳しいね。僕は読んでいなかった」
「たまたまよ。越後のことが書いてあったから。藤沢周平を読むきっかけを与えてくれたのは数馬さんだもの」
 人混みから離れた部屋の隅に座り込んで、淑乃はドリンクを飲んだ。
「うふふ、喉が渇いちゃった」
「淑乃ちゃん、珍しく熱弁だったからね」
「そうね、私って越後人だと思う。『天地人』って大河ドラマがあったでしょ。氷坂雅志の本も読んだのでごちゃ混ぜになったかな」
 数馬は淑乃を促した。
「大河ドラマは観ないから、後で本箱探してみるね。次の間に行ってみよう」

 本堂は人でいっぱいになった。お坊様がなにやら説明していた。



 『「迷いの窓」
迷いの窓の四角い形は、人間が誕生し、一生を終えるまで逃れることのできない過程、つまり「人間の生涯」を四つの角で象徴しています。この「迷い」とは「釈迦の四苦」のことで、この窓が生老病死の四苦八苦を表しているといわれています』

「こういうの、あんまり考え込んだり、迷ったりしない方だから、外の紅葉が綺麗ね、と心が捉えるだけだわ」
「それでいいんだよ。僕も同じ」


 
 『「悟りの窓」
悟りの窓の丸い形は、「禅と円通」の心が表されています。ありのままの自然の姿、清らか、偏見のない姿、つまり悟りの境地を開くことができ、丸い形(円)は大宇宙を表現しています』

 二人で正座して見ただけだった。



 廊下からの庭園の眺めは見事だった。
 紅葉と山茶花と思われる庭園が素晴らしい。



 ここでも大勢の観光客が座って庭を眺めていた。



「人が多すぎるのが難だけど、正座するのもいいものね。心が清らかになる」
 淑乃は小声で数馬に囁いた。
 淑乃のほのかな匂いと体温が伝わってきて数馬も囁き返した。
「京都に来てよかったね」
「よかった~。ありがとう」

「こういう眺めもいいわね」
「いいね」


 稔と多恵が滋賀県蒲生野の旅の計画を立てた年は、親族の不幸が相次いだので行けなかった。去年の秋に出かけることができた。

 滋賀県近江鉄道 市辺駅近くに、「万葉の森 船岡山公園」はあった。
 船岡山の丘から見下ろす川土手に彼岸花が咲いていたという。古嗣阿賀神社の鳥居をくぐり、横手の小径を左へ折れると前方に緑の芝生が拡がる。四阿屋造りの休憩所があった。そこからすぐ隣に見える湿生園には蒲の生い繁る昔の面影があり、隣接の「あかねむらさき園」には茜草と紫草が栽培してあった。
 そこには、天智天皇七年(六百六十八)五月五日、この蒲生野に大宮人や女官たち総出の華やかな薬草摘みや、鹿追いの史実を描いた銅板レリーフが建っており、紫草の白く咲き匂う往時を偲ぶことができた。
 背後に連なる船岡山の丘を登りきると、巨巖がでんと据わり、世に知られた額田王と大海人皇子の相聞歌を刻んだ花崗岩がはめこまれていた。(万葉仮名のまま墨書きに揮豪されていたので省略する)

 茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る     額田王

 返歌

 紫のにほへる妹をにくくあらば人妻故に吾恋ひめやも  大海人皇子

 写真やパンフレットを前に、興奮さめやらぬ口調で多恵は語った。行ってきてよかった。紫野に関しては、早とちり故の誤解だった。万葉の昔に思いを馳せることはできたが、現代に重ねることは難しい。琵琶湖から京都を廻って、満ちたりた思いで多恵は帰ってきた。

 稔は多恵の望みを叶えるために随行したに過ぎない。だが、一般的な観光ルートを辿らない旅は楽しかったという。

 数馬と淑乃が京都旅行を思い立ったのも、稔、多恵夫婦の行動が機縁していた。


 その夜は、京都駅ビルのホテルに宿泊。
 翌日は、八坂神社、円山公園、産寧坂、八坂の塔、清水寺を見物。伊丹空港から、夕方の便で新潟空港着。上越新幹線で越後湯沢駅に下りた。

                                 つづく


創作 淑乃は今 後編 二

2016年02月13日 | 日記

                              二    

 初めての旅行だった。
 淑乃は、かねてより職場に休暇を願い出ていた。
 二日間だけの休暇である。


 数馬と二人、インターネットで探した。
 京都に行ってみたかった。修学旅行以来である。
 どこも観光客でいっぱいだろう。
 土日を避けて、新潟空港から伊丹空港まで飛行機を利用した。搭乗時間一時間余。あとは市バス、タクシーを使って目的地まで行った。



 光悦寺 北区鷹峯光悦寺町二十九

 京都駅前は人の波でごった返していたが、光悦寺方面はいささか違った。
 それでも人出の多さに驚いた二人だった。



 江戸時代の初期、元和元年(千六百十五年)徳川家康が芸術家の本阿弥光悦に洛北鷹峯を与えた。当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったという。
 この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落となった。
 芸術村(光悦村)を築いたことで知られている。刀剣鑑定、書、陶芸、絵画、蒔絵、漆芸、出版、茶道、多くの芸術を集合した芸術村となっている。
 光悦の死後、屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑がある。





「さすが見事な紅葉・・・京都は違うわね」
「ホントだ。赤の色が違う。どの季節にも合うように工夫されているんだね」
 淑乃も数馬も、創られた自然の見事さに圧倒された。



 大虚庵
 境内に建つ茶室の一つ。光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称であるが、現在ある大虚庵は大正四年に建てられたものである。竹の垣根は光悦垣またはその姿から臥牛垣と呼ばれ、除々に高さの変わる独特のものである。

「ほお~っ、大虚庵、茶室だね。見事な垣根、これが光悦寺垣だね。それにしても人混みが途切れたね。みんな、どこに行ったんだろう」
「ホント、今だけかも。あっちに団体さんが見える」
 この地も傾斜が多い土地だ。植え込みで見えないが、下に谷間があるようにも思える。淑乃の立ち位置と、数馬の位置では見えない段差があった。
 二人並んで見渡せば、あちこちに人の群れがあった。

 山々も秋色に染まっている。









 所々に小さな茶室があったり、苔むしていたり、植樹や小川が配してあり、造園ながらの趣を感じることができた。

「緋毛氈だ。この赤にすごく惹かれるの。どうしてかな」
「淑乃ちゃんの心の奥底、何となく分かる気がする」
「そう?」
「小さいときご両親を亡くしたでしょう。芯が強くて、弱音は吐かないけど、心の奥では愛に飢えていたんだよ。炎のように真っ赤に燃える愛をね」
 数馬は淑乃の手を握った。
「そうかな~。お祖父ちゃん、お婆ちゃんに可愛がってもらったし、多恵姉さんだって同じ」
「そうだね。いい人たちに守られて、いい子に育っているね」
 数馬の瞳がやさしかった。

 数馬さんと再会できて、私の人生は幸せに満ちあふれています。ありがとう。お母さん、ありがとう、お父さん、数馬さん、ありがとう。

 数馬の手を熱いほどに固く握り返した。
 見上げると数馬の瞳が微笑んでいた。
 何のいい訳もいらない。そうなのかもしれない。だが、それもいつかは消えていくだろう。



 しょうざん光悦芸術村 茶花園

 雰囲気のいい店があった。
 茶房であり、工芸、雑貨も扱う店だ。

「お茶飲もうか」
「そうね」

 しょうざん芸術村は広かった。
 川には「紙屋川」と立て看板があった。



 豪雨で暴れ川となったなど信じがたい川の流れだった。



 光悦寺山門

 「写真スポット第一位」と看板まである。
 光悦寺の山門に至る参道は観光客が最も多く行き交う場所だった。人の流れが途絶えた一瞬もあった。

 光悦寺の山門を出て、横道から「しょうざんリゾート京都」に向かう。

 『「しょうざんリゾート京都」

 京都洛北の鷹ヶ峯三山を背景に広がる三万五千坪の美しい庭。
 日本画に描かれた風景さながらに早春に花をつける古梅の風情ある景色。
 風に遊ぶ新緑の木立を抜ける石畳。
 初夏の水辺を彩る花菖蒲。庭を染めるあじさいの花。
 桜。紅葉。川のせせらぎ。

 広大な庭に佇む、日本の美を伝える、いにしえの建造物の数々。
 書院造りの屋敷、明治期に建てられた京町屋の風格。
 裏千家十一世家元・玄々齊の設計による茶室・・・。

 「散策」に「食」に「染色」に・・・。
 染色の名門「しょうざん」の美意識が創りあげた、風情香る「京」のリゾート。
 身も心もゆるゆると解き放ち、時間はゆったりと流れてゆく』

 途中で手に入れたパンフレットに、そう書いてあった。

「いいところだね。でも全ては廻りきれない」
「お腹も空いてきた」
「予約しておいた店は、きっとあの建物の中だね」



 京料理 紙屋川



 京都らしいお弁当だった。
 ご飯と松茸のお吸い物、京の漬け物がついた。

「美味しいわね。やっぱり京料理だわ」
「よかった。僕も同じ・・・」
「京都に来てよかった~」
 淑乃の喜ぶ表情に相づちを打つ数馬だった。

                                つづく