千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

ある冬の一月に その二

2012年01月27日 | 日記



 あなたを



あなたが好き
あなたを愛している

あなたが嫌い
そんなあなたの顔も見たくない

昔々
そんな女がありました

言葉だけが
深い意味を持つのだと・・

あなたが好き
あなたを愛している

そんな言葉に酔った昔がありました

あなたが嫌い
そんなあなたなど顔も見たくない

ふさがってしまった心は
元に戻らない昔がありました

言葉だけが心を語るものではないことを
もう とっくに知っているから

あなたが好き
あなたを愛している

言葉だけで伝えたくない女になりました


 人を愛するということ、一般的な広い意味を持つ愛は、いかに相手を見守ってあげられるか・・・許してあげられるか、ということだと思う。




 乳色のもや



明けやらぬもやの中
誰も目覚めてはいない
乳色の世界を
私の心だけが歩いている
ゆっくりと
ただ ゆっくりと

あてもなく歩いているのでもなく
あそこに小さな木橋がかかっていたような
でも違っていたような
そして橋の向こうに
あなたの影が見えたような
心は ゆっくりと
ただ ゆっくりと歩いている

間違いだったら
夢をみているんだったら どうしょうと
はやる心とうらはらに
心は ゆっくりと
ただ ゆっくりと歩いている

遠くに はるか遠くに
たしかに あなたの影は見えたけれど
橋はなかった
朝もやが 消してしまったのか
私の心に いたずらを仕向けたのか

遠くのあなたは気がつきもせず
私の心の中で 見えなくなってしまった



 アネモネ


見られていました
じっとみつめられていました
気がついたとき あなたがそこにいました
哀しげな あなたがそこにいました
私は近寄ることもせず
あなたに 心を奪われたまま 佇んでいました

濃い紫の花は あなただったのです
私の心にしみいる 紫はあなただったのです
あなたの心の奥の 淋しさが 気になっていたんです
近寄れない私は
小首をかしげた 濃い紫の花びらの
一枚 一枚を 確かめるように
心に 刻みこむように
そっと 深いためいきをつくしかなかったのです

あなたが
あなたとして そこに存在していることを
心の眼で 確実に捉えようと
記憶の糸を たぐり寄せながら
しばらくを そこで 佇んでいました 

   ある年の1月24日、濃い紫のアネモネは、あまりにも哀しい風情を漂わせて、私に語りかけていた(友の店で)


 白いノート

なんで詩を書きたいの
なんでこころを
そんなに詩おうとするの・・・?

青春を綴ったノートを
全て焼いたおまえが

なんで
ふたたび歩きだしているの・・・?

あの頃と
変わってはいない
自分にきがついたから・・・?

やさしい詩人たちと
出逢えたから
詩人だと主張してみたくなったの・・・?

こんなにもちっぽけな
こころもからっぽな
それでも
詩人だと称するおまえが
一体なにを詩えるというの・・・?

                        (azumi)


 それでも白いノートはいつか文字で埋まった。
 やわらかな、やさしいタッチの文字で・・・
 やわらかな、やさしい詩を書けるのはいつだろう。

 まっしろな白の世界。
 今年も雪との暮らしがすでに始まっている。
 いとこの死を写メールで。
 今日もまた、死の報。
 いずれも闘病の果ての死。

 白い雪は、人々の暮らしの中で、音もなく降りつづける。


 入院した病院での診察日。二ヶ月分の投薬を受けた。
 体力にあった運動を続けなさいと。

 帰り道、デジカメで写真を撮る。








ある冬の一月に その一

2012年01月21日 | 日記


心の扉

私が
心の扉を
全て開けてしまったら

どうなるでしょう

きっと
うろたえて
どこかに逃げだしてしまいたくなって

当分
自分を取り戻すことができないでしょう
後悔しか残らないでしょう

勇気の扉を
開け放つことのできない私は

詩人にも
作家にもなれないのです

                            (azumi)

 小説の真似事・・・9月からノートに書き始めたけれど、途中で投げ出している。
 書きたいことがいっぱいありながら、文章力がない。心を吐くって、うう~ん、疲れる作業。到底私は作家になれない・・・や~めた!
想像力はたくましいが、創造力は皆無。



時が



時が
こうして過ぎてゆく

一日が
またたくまに去ってゆく

過ぎ去るものがあろうとも
還らざるそのままであっても

もはや
時間を取り戻したいとは思わない

明日に
夢を追いかけたりしたくない

心を流れる川が
たとえ淀んでいたとしても

いつか
ゆるやかで澄みきった川になる

そんな川の流れに
心を任せていたい

                            (azumi)

しずかなる心の川・・・今、まさにそんな川が心を流れている。また、淀んだり、大河となってあふれそうになったりするんだろう・・・



幸せでいますか



問われた言葉に
あったかな輪の中に包まれて
あったかな家庭があって
幸せです・・・
そう答えればいいのに

幸せって
こんなものじゃない
自分だけ
日々を幸せと感じるときがあったとしても
それは
本当の幸せではないと知っているから

あなたも ちがうあなたも
沢山のあなたが幸せでなければ
多分
幸せだって答えられないだろう

あなたは
あなたは・・・

今 幸せですか・・・


                           (azumi)

闇夜の雨



眼を覚ましたときから
雨の音が聞こえました
心の中に
しみいるように

暗いあさです
暗い雨夜の情景が
一瞬心をよぎりました

夢を見ていた訳でもないのに
あなたの顔が見えた訳でもないのに
雨をさけて
一人たたずんでいたあなたが
泣いていたような気がしたのです

激しく降る雨が
あなたの心の中まで
しみいるように

そうです
闇夜の雨にあなたは泣いていたのです


                         (azumi)


 雪がまったく降らない冬、
 豪雪に泣いた冬、
 さまざまなことが、積み木のように折り重なり、崩れては繰り返されてゆく。

 病室で観るようになったテレビドラマ、「カーネーション」。
 今朝は泣いた。本や映画やドラマでは泣ける。
 久しぶりに、涙があふれて止まらなかった。
 自分のことではめったに泣かない私。無理は禁物と、ブログも自粛・・・
 いつかたまった詩のノートを引っ張り出して、ふと・・・闇夜に泣いているあなたもいるのかも知れないと。

 そんなあなたにも見ていただきたい。
 八海山の雄大な美を。
 詩になど表現し難い雪山の美を。

     2012・1・18 10:36(自宅サンルームにて)





 私の身体は、回復まで時間がかかるらしい。昨日からスポーツ・ジムに通い始めた。



医師蜜柑氏へのメッセージ

2012年01月16日 | 日記



 昨年並みの豪雪となってきました。
 病院のある魚沼丘陵地の積雪が凄いです。
 蜜柑様お住まいの櫻島の噴火の煤塵にもお困りのこととお察し申し上げます。

 ご心配おかけしましたが、一昨日退院いたしました。

 病院でいただいた「鹿児島小蜜柑」の美味しかったこと・・・
 いつもご親切をいただくばかりで感謝しております。

 1月10日午後からカテーテル検査を実地。予定以上の時間、一時間程度が二時間以上もかかってしまい、夫はずいぶん心配したようです。その日は、朝から大変な手術があり、午後になっても終わらなかったようです。そのため院長一人で脳血管撮影(精査)を実施なさいました。終了したのが四時過ぎでした。吐き気もだるさもなかったのですが、針を刺した腕の力が全くありません。退院はしたものの、元の身体を取り戻すまで時間がかかりそうです。

 翌日、検査結果の説明がありました。
 造影剤を投入しての撮影で鮮明になりました。
 脳動脈に、5~6㎜の瘤があることが明らかになりました。いつ頃動脈瘤ができたのかは不明です。
 最初の動脈が切れた時点で、MRIによって影が発見されたのです。
 2㎜の差で、あるいは「死」か、重い障害が残り、リハビリを続けなければならなかったかも・・・と言われたときは、正直のところショックでした。滑落していきそうな心を、願望というエネルギーが支えてくれました。死なないでよかった。正直な心です。

 正月を翌日に控えた仮退院の日、母の寿命がつきました。母が大きく目を開いて「a・・・」「a・・・」「a・・・」と叫んでくれました。最期に 「azumi、azumi,azumi」とお別れを言っているような気がしてなりませんでした。見守っていた夫、親戚の人にはそうは聞こえなかったかも知れません。少なくともそう 思うことで心が安らぎました。私の大粒の涙が、母の頬を濡らしました。「お母さん、ご苦労様。迎えに来たお父さんの手に支えられて、天国に行ってね」。母が眼を閉じたあと、頭がガンガン痛んで、そこにいたたまれなくなりました。娘の車で帰宅して、軽く食事を摂っているときに電話音。母が息を引き取ったのでした。看取りは夫でした。ああ、これ でよかったのだと心底思う一方で、頭の先から足元まで無気力になっていきました。
 夫は私が倒れた後、私の代わりに母のホームに通いました。妹たちも勿論、駆けつけて母を見守っていましたが、雪が深くなる前に帰らせました。母もまた状態が緩和していたのです。

 私のこと、母のこと、
 夫はよくやってくれました。
 倒れないかと心配でした。
 長州人はいざとなると越後人に負けない強さがある。そう思いました。


 長女が私の退院に合わせて、三時間の道のりを飛んできました。来るなり、立ち働いてくれています。子供も大きくなり家に置いて来れるようになりました。 次女の場合は、子供たちが幼すぎて長女のようにはゆきません。届いたメールで、それぞれの娘たちの気持ちをくみ取ってあげる母親でいようと思います。
 まだ、体力のない私は家事もできないでいました。
 病院のベッド生活をずっと続けたら、筋力も衰えてすっかり病人になってしまうところでした。
 幸い、昨日出来なかったことが少しづつ出来るようになりました。
 葬儀で、多くの親戚縁者であふれた我が家。皆がそれぞれに気を配って、掃除、整理整頓して行ったのですが、主婦はやっぱり私です。食器を片づけた位置が違うと戸惑うものです。
 今日より明日、
明日出来なかったらまた次の日、
少しずつ回復してゆくはずです。


 退院を前にして、回診に来た医師の言葉がありがたく思いました。

 「瘤のことは気にしないことだね。長い間に薄れてゆく場合だってあるし、健康管理に注意して生活することだね」

 動脈瘤を治療する方法は、
クリッピング手術、
コイル塞栓術、があるそうですが、リスクも伴うという話をよく聞きます。

 私は・・・経過観察(画像フォロー)の選択肢にしました。

 日々の健康管理が大切ですが、
前向きに、くよくよせず、日々を深呼吸して生きて行こうと思います。

 ご心配いただきまして、とても感謝申しあげております。

 ありがとうございました。





 母の葬儀は一月五日。
 三十三回忌も済んでいる父の葬儀の日と同じ日だった。
 そして、同じく豪雪も重なった。

 仮退院中の私は何をすることも出来なかった。
 セレモニーホールで通夜と葬儀、火葬場までの道のりを、必死で耐えていただけである。
 雪国越後の葬儀は、親戚一同、ご近所の方々の手を借りて執り行う。
 この寒い中、ただただ感謝のみである。



 2011、12、12
 脳出血した日の朝の「お家ご飯」

 野菜の蒸し煮
   キャベツ、ちぢみ雪菜、豚肉少々、オリーブオイル、塩胡椒。



 一品では寂しいので撮った、
石狩へんてこ窯へんてこさん作、アイヌのトンコリ楽器の絵がある皿に盛った、今年最後の我が家の渋柿。十日ほど干したのでとても甘かった。



 2011・12・22
 朝の病院で見た八海山。