千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

晩秋の湯沢へ

2011年11月30日 | 日記

   


 湯沢町八木沢からのトレッキングをしてきた。
 あたたかい陽気で、一枚脱ぐほど汗ばんだ。
 道中の橋板は外されて橋桁だけになっていたし、冬間近な山は雨の日が多く、水量も多い。岩盤の間からも、山道からもわき水が出ている。わき水は山を下り、さらに勢いを増して清津川へと流れ込む。渡るのに苦心した難所がいくつもあった。

 汗を流したので水分補給に格好な「大峰の原水」、大峰山(1172㍍)からのミネラルウォーターだ。冷たくておいしい。チョコを頬ばりながら歩いたあとだから尚おいしい。



 ブナ林を歩く。





 岩盤が多く、登ったり、下ったり、川を渡ったりしているうちに見えてくるブナ林の中央部、フィストレッチ広場。
 案内板や整備をしている人がいた。



 ブナ林は森林浴と呼ぶにふさわしい。
 ブナの裸木から降りてくるマイナスイオン、これは表現し難い、やさしくおおらかな大気。

 ここで昼食のおにぎりを食べる。八木沢から1時間35分、ちょうど昼時。しばし休憩して折り返すことにした。

 人間が本質的に求めている安らぎと平穏、ブナの林は私たちをすっぽりと包み込んでくれる不思議な力を持っている。
 おだやかで、のどかで、思考することもいらない晩秋の山・・・
 歩くことを、山の自然にふれる喜びを教えてくれたのは、誰だったのだろう・・・
ふと、考えてみる。

 ブナの殻斗(カクト)がいっぱい。





 今年はブナの実が豊作で、山の動物たちは喜んでいるだろう。
 探すと三角に尖った実もあったが、大半は動物たちの食料となっただろう。

 広場の腰掛けに仰向けに寝ころんで写真を撮る。



 ナラ、ミズナラ、コナラ、ブナ・・・
 裸木は美しい。
 裸になって、本音で叫んでいるような気がする。
 私たちの住む、心地よい自然と環境を返して、と訴えているような気がする。
 虫食いの木は無惨に朽ちてゆく。
 若い木はすくっと立ってエネルギーがある。
 森も林も生きている。
 深く息を吸って生きている。



 清津川。コバルトブルーが清く澄んでいた。




 赤い実が三つ。六㎜あった。何の実だろう。
 山道の岩盤の裂け目に小さな枝。
 気になって、帰り道に写真に収めた。





 出かけたのは昨日。
 いいお天気に恵まれた。

 今日は一転して雨の寒空。明日は雪だと、ローカルニュースの寒々とした声。
 あと何回、山歩きが出来るかな。予報は当たってみたり、外れも多い近年ではある。

 母は、熱なく、午前は離床まで試みた。
 山歩きをした余韻が、心身をあたためてくれている。

大地のぬくもり

2011年11月28日 | 日記

   
 眼を閉じると、一つの風景が広がる。
 坂道の左右に広がる林。
 子供の目には、いずれも果てしなく無限に広がっているのだと思った。
 坂道には木の橋がかかり、川が左右の林の中をくぐり抜けていることは分かった。
 あの山から流れてきた水はどこまで続いているのだろう。
 木の橋の右下にも、深い川がえぐり取られたように青く流れている。
 危ないから、向こうに行かないように。こわいお化けが出るかも知れない。
母親がよく言っていた。
 虫さえも怖がっていた私は、物心がつくと、一方で冒険心や好奇心の強い子供となる。
 あの林の奥が知りたい。
 一人で冒険することはなく、妹か近所の子供たちを道連れにする。
 一人が退散、そしてまた一人、森の中はうっそうとして暗く、実は誰だって恐い。何か出そうな気がしてくる。渋々私も後退。太陽の光が見えたとき、内心ホッと胸を撫で下ろしたものだ。

 森だと思った林は倒木され、大地は削られ、平地となり、広い田んぼとなり、小学校が出来た。
 一つの風景は、思い出の中に残っている。

 晩秋、あるいは初冬の今頃、すっかり葉を落とした木々を見るのが好きだ。
 木々が芽吹く季節もたまらなく愛おしかったりするが、裸木は何も飾ってはいない真のぬくもりを見せてくれるような気がする。
 大地の恩恵を受けて、厳冬にも負けまいと踏ん張る姿が好きだ。

 坂戸山麓、「さいたま市六日町山の家」の裏庭の桜木をながめ、少し歩いてきた。




 山は雪降り前の冬枯れの風情。ホウノキの落ち葉が湿って、径にこびりついていた。




 自然探索は、どうも子供の頃から好きだったようだ。
 いちいち数えあげるときりがないので、一つだけ。
 子供が小さかった頃、ラジオで「ミティーラ美術館」の話を聴いて、どうしても訪れたくなった。子供、母までを乗せて、旧十日町の大池まで車の運転をした。
 創設が1982年というから、その頃だったと思う。
 鋪装されていない砂利や石ころ道、それも細くて、道中の長いこと。やっと辿りついた場所は過疎の集落。旧大池小学校が美術館だった。

 北インドからネパールの一部までのミティーラ地方に伝承されてきたミティーラ画という細密画に興味を抱いたのだった。
 仙人みたいな長いあごひげの館長、館長を慕って移り住んでいる若人たち。清貧とも言える質素な暮らし向きが眼に入る。こんなところで生活が成り立つのだろうか。冬はどうするのだろう。理想や理念を貫き通せるものなのだろうか。
 大池という沼があった。そこを神の聖地に見立てたような・・・長谷川館長から聞いた話だったような気がするが、今となってはあやふやである。
 ときおり思い出してはいた。
 中越地震、
 大地の芸術祭、
思い出しては忘れて、また思い出して・・・
 今回はネットで調べてみた。
 中越地震で被災して、乗り越えた「ミティーラ美術館」が健在していた。
 不鮮明だった場所も、魚沼丘陵だということが分かった。
 交通事情もよくなっているだろう。

 大地のぬくもりを感じる場所だった。


 お家ご飯。 大根麺スープ(または大根鍋)



 大根一本、ピーラーで縦に剥くので「大根麺」。
 出汁は鶏ガラスープを使う。
 鶏もも肉。小口大に。
 えのき茸。ほぐす。
 ショウガ。 すり下ろす。
 豆腐。小口大に。
 片栗粉。とろみをつける。
 おでんに使うねりものを入れてみた。

 鍋のお湯を沸騰させ、鶏ガラスープ、鶏もも肉を入れる。すり下ろしたショウガを入れ、火が通ったら大根を入れる。アクが出るのでアクを取る。大根はすぐ柔らかくなるので、火を止めてカタクリ粉でとろみをつける。火を点けて、豆腐などを入れて、好みの薬味で食べてもいい。
 我が家の薬味は「辛子南蛮味噌」。ブラックペッパーもいい。

 シンプルでおいしい鍋。身体がほかほかあったまってくる。



ちょっとしたこと

2011年11月25日 | 日記


  
  ちょっとしたことなんだ
 あんなこと
  一日
 二日
 三日と
 そう 一週間もたてば
 もう どうってことないことなんだ

 人が 何を感じようと
 人が 何を怒ろうと
 言葉の強さに くじけそうになったとしても

 あんなこと
 ちょっとしたことなんだ

 言葉を荒立てることもいらない
 そう
 そっと そっと 胸を開いて
 生きてさえいれば

                        (azumi)


 昨夜の荒れ方は、雪になるかと思った。
 だが降らない。
 冷たい雨が容赦もなく降る。
 雨音を聴いているだけで、なんだか叫びたくなってくる。
 暗い朝でも、朝は調和がとれたリズムの中に自分を置いている。
 夕方、四時を回ると、私の思考回路はゼロに等しい。
 疲れているのだな、と思う。
 昨日三人で会話したエネルギーがすでに欠如している。
 朝のウォーキングが出来なかった。
 そのことが、私にとってマイナスになっている。
 ましてや、仕事から離れた日常は、朝からのリズムが必要だ。
 よそ目から見ても、ひ弱そうな私に見えるらしい。
 歩いているんだけどな。
 深呼吸して歩いているんだけどな。
 こんなにひ弱そうな私じゃなかったのにな。
 残念だな。

 三人で駅前を歩いた。
 私の服装に、妹がチェックを入れる。
 マフラーを結び直す。
 完ぺき、完ぺき、美人三人姉妹ってとこね。
 美人か。仕方なしにクスッと笑う。
 帽子(キャップ)は似合わないからよしたほうがいい。
 今日の髪型、とってもいいじゃない。
 ジーンズやめて、違うの穿いてみたら。
 東京の夜のイルミネーション素敵よ。
 一段落ついたら来ない。案内するから。
 そうね。そうね。
 ランチを食べて、母の部屋に戻って、まだ喋り足りない。

 昨日の疲れが出たみたい。
 雨の音が止んだ。
 いつのまにか暗くなっていた。

 十二月の裸木を見に、林の中を歩いたら気分爽快だろう。
 雪降る前に出かけてみたい。

 ちょっとしたこと。
 すっかり忘れて、どうでもよくなったことなのに、
人の強さにたじろいで、身動きできなかったことなどを、ふっと思い出す晩秋の雨である。

 さあ、明朝は歩かねば・・・

 ブナ林。



 ナラの裸木。






甘い感傷

2011年11月22日 | 日記

       
 会わなければよかった
 会ってしまったゆえに また 会いたくなる
 心を濡らす 甘い感傷

 まるで、なかじまみゆきの歌のような台詞。
 雪になるかと思った。
 だが冷たい雨音だけが・・・

 暗い雨の朝、やるせないような感傷に襲われたりすることはないだろうか。
 洗濯物の室内干しをしながら、なかじまみゆきを聴く。
 彼女のスローバラードな歌声を聴く。
 寒い季節になると、ストーブの前に足を投げ出し、彼女の歌声に合わせるように鉛筆を動かす。要するにいたずら描きなのだ。

 みゆきの名前を持つ妹がいる。
 昨年の春、母のいる老人ホームのホールでミニ演奏会を開いていただいた。
 診療所の医師を囲んでの話し合いがあったとき、ホームの施設長がその話しをした。とても喜ばれたことを。
 この場所を飾りつけて、入居の老人たち、勿論視点の定まらない母も集いに参加した。
 妹は、元サックス奏者だった師から尺八を習って長い。
 日本ではない。永住権を持ち、長いことシアトルで暮らす。
 帰国のたびに腕が上がる。
 学生時代からギターで弾き語りを楽しんでいた。
 我が家唯一の音楽通である。




 老人たちが好むような選曲、童謡、懐メロ、民謡、「お六甚句」や「十日町小唄」などが、とても喜ばれたことを覚えている。
 ホームのスタッフが歌詞カードをつくり、みんなで歌った。


 朝の感傷は一過性のもので、次第に空が晴れてきたら、感傷は薄れたのではなく、全く消えてしまった。
 魚沼の冬は、戸惑いと、冬化粧の期待感を膨らませたまま幕を開ける。
 開けると、長い長い冬の寒さと忍耐が待っている。
 春の足音を確かめたくなったりもしてくる。
深呼吸、深呼吸。

 予想に反して晴れあがったので、写真を撮りに出かける。
 風は冷たいが心地よいこと。

 南魚沼市工業団地から見る八海山。







 柚子をいただいたので、柚子ジャムづくりをした。




 柚子、大小10ヶ。種まで使う。種には、固め役のペクチンが入っているので煮だして抽出。作業に時間を費やす。夫と共同作業。この手の作業は結構好き。最後の煮詰める行程は私がした。
 ペクチンの作用なのか、倍に膨れあがったので驚きだ。
 保存瓶8ヶと少々。
 柚子ジャムというより、柚子マーマレードジャムと呼んだ方がふさわしい。
 とても、美味しい。
 甘い柚子の香りが漂って、
甘い感傷どころではなくなった。


 母のホームにも出かけた。
 主治医の往診があった。入浴が済んで、顔色もよく何らの異常もなかった。

 山に雪が降りると、外気が冷たい。もう夕方だ。

ひたむきで・・・

2011年11月20日 | 日記


        
ひたむきで
まっすぐな眼をしていたあの頃は
人を信じていた
少なくとも自分を
分かってくれる人を
信じようと思っていた
真理は一つ
たどりつくところは同じ
だから
信じられると思っていた

人は自分ではない
自分も人と同じではない
私の中の幼さは
いつか知らず知らず
脱皮しつづけて
今日もまた新たな変化が起こる

人を信じたいと意気込むよりも
人を信じられるという平穏の中に心を任せる
そのことのほうが
大切なのだと・・・

ひたむきで
まっすぐな眼をしていたあの頃は
小さなガラス細工のように
人の手にふれることを好まず
そっと見守られていることに
安堵していたのかも知れない
                             (azumi)

 ひたむきな昔があった。

 なつかしい人たちが大阪から訪れた。

 おばさんの納骨が無事終了したとのこと。
 おじさんのお墓の中で、なかよく寄り添う姿が眼に浮かぶようだ。
 ふるさとの四季を見守りながら、静かに眠るおじさん、その傍らに大阪人だと思われるおばさんも辿りついた。
 ひたむきで、つつましく、おだやかに暮らした二人の人生。
 遠い親戚だと聞いていたが、私にとっては肉親のようなおじさんだった。
 ひたむきで純粋だったあの頃、眼をキラキラさせておじさんの理論に耳を傾けた。
 三人の子供たちはいとこみたいなもの。なつかしくて、あたたかな思い出が脳裏をかすめる。大阪、粉浜、住吉大社、京都、奈良・・・

 会えないかと思っていた。
 かつての少年は涙ぐんだ。
 あっちゃんに会えてよかった。そう言って笑った顔は少年の日そのまま。

 少年は、面影を残したまま大人になり、とても偉い、高校の校長先生にまでなった。

 おじさんの骨納めのときは元気だったおばさん。
 季節はいつか過ぎた。
 ふるさとをこよなくなつかしんで、絵を描いていたおじさん。
 あのやさしいまなざしが眼に浮かぶ。

 大好きな大阪のおじさん・・・
 少女の頃は口癖のように言っていたが、今ふりかえると父には悪かったと思う。

 おじさん夫婦が育てた三人の子供たち、長男、長女、次男、今ではすっかり大人。それぞれが味わいのある熟年の雰囲気だ。もう会えないかも知れないと言われたので、車の影が見えなくなるまで見送った。

 いただいたお土産を仏間から下げた。
 京都八つ橋本舗「夕子」、
 神戸生チョコ、ほろ苦さと甘さと、ニッキの香り、ほのかになつかしさを含んで美味しかった。

 今日は冬型の気候だった。
 フリーマーケットに顔を出したら、雨降りのため閉店するところだった。
 ムラサキイモをお土産に貰った。

 昨日も今日も、母は平穏無事だった。

 ホームからの魚野川。



 おうちご飯。鴨鍋。 
 狩猟した鴨が届き、夫が捌いた。この手のものは見ることも触ることも苦手。
だが、鴨はいい味が出る。野菜の旨味も加えられて、堪えられない味である。



 ちぢみ雪菜の漬物。



 ビタミン大根の千枚漬け(夫作)



 蕪の千枚漬け(夫作)