泉盛寺は800年以上続くお寺のようである。
現住職は103代目とか。
泉盛寺(せんじょうじ)と読む。
泉盛寺という集落にあり、由緒ある真言宗のお寺のようであった。
第八十七番札所 弘盛山 泉盛寺
集落から石段で境内に登れるが、車の道路も整備されて本堂前の広い駐車場に着く。石段の古い山道が保持され、石段の続きは石畳の趣きよい道である。
鎮守の鳥居が横に建ち、林の中を抜けて観音堂に出る。十一面観音を安置した本堂は大日如来を祀る。
叔父の三十三回忌法要があった。
私は、車の送迎をしただけだ。
念のため、デジカメをバッグに入れた。
送迎といっても、迎えは料亭美松まで。
お寺の坂道が急勾配。
こんな所をのぼって、降りる、ちょっと不安。
いとこがなにやら合図をしている。
いとこの妹の顔が見えた。
東京から来たのだ。
挨拶を交わした。
「Sちゃんもこの前来たんだけど、忙しいらしくアメリカに帰っちゃった。Yちゃんも来たんだけど、北海道に帰っちゃったの。私にお声がかかったのだけど、女性一人、あっちゃんに会えてよかったわ」 Sちゃん、Yちゃんは喪主の妹たち。
一年ぶりの再会。
法要までに間があったので、少しおしゃべりをした。
以前から思うのだが、清楚な女性、清潔感が漂っている。
原宿のMビルで古着屋を夫婦で営んでいたなんて、慎み深い和装の彼女、よく 似合っていただろうな。ビル立て直しで立ち退かざるを得なかった。
現在、どこで店をやっているのか、聞こうと思ってまた忘れてしまった。
お盆は帰れないという。
三十三回忌の叔父の記憶はおぼろげだ。
毎年、お盆になると母の実家に盆泊まりに行った。
塩沢駅まで迎えに来てくれた叔父。
小さかった私を負んぶしてくれた叔父。
線路伝いの道。
ガードを潜って、真っ直ぐ行けば泉盛寺、左手の坂をだらだら上っていくと天野沢。廻り道をしないで、線路のそばを上るどんどん坂、やはり急勾配だが近道だった。
祖父に似て、やさしい顔立ちをしていたように思う。
東京に出てから、めったに里帰りをしなくなった。
空手で段持ち、道場で教えていたそうだ。
最期は、アパートで倒れている姿を発見された。
脳溢血か、心筋梗塞か、記憶もあいまいだ。
泉盛寺本堂
本堂から観音堂に通じる回廊
四輪駆動車を減速して急勾配の坂道を下りた。
右に曲がれば、天野沢、少し行くと上越国際スキー場だ。
天野沢を走ってみたかったが断念。
車を止めた。
来るとき見た坂道はあそこしかない。
少し歩いたら、家の前に少女がいた。
「あの坂はどんどん坂とは違うわよね」
首を横にふって、分からないという仕草。
あまんぞう、あまんざわ、
天野沢を、そう言っていた大人たちが記憶の中に甦る。
裕福な家の象徴であった土蔵、
石垣の上に建てた家、
村の中を何本もの坂道が通り、
横の小道でつながっていた。
どんどん坂がなくなる。
母が老人文集に書いていたのだった。
どんどん坂はすでになかった。
送迎の迎え・・・
国道を走行中に土砂降りになった。
連日の雨、
農作物が危ぶまれる。
油みそ
トマトスープ