一年は慌ただしく過ぎたのに、意識を留めている一日は長い。
ホテルの調理場の一隅で、同僚の君子と遅い昼食を摂る。越後駒ヶ岳が秋陽を浴びて、稜線を縁取りはじめる。切り立った谷間が、時として間近に感じられる時がある。谷間に抱かれる刹那、その一瞬。澄んだ秋の大気。この地に来てよかった。安堵と期待感。何の期待感だというのか。意識の中にある自分を打ち消す。
「誰か来た。遠藤さんだ」
同僚の声に、調理場を仕切る暖簾の向こうに眼をやった。
だぼだぼズボンの下だけが見える。
ほぼいつも同じ格好である。
半袖Tシャツの上にカッターシャツを羽織って、肩まで伸びた髪をバンダナでくるんでいる。
「こんにちは~」
くったくない笑顔が暖簾ごしに覗く。
「久川さんはいないのかな」
支配人の久川を眼で追っている。
「フロントにいませんでしたかね。さっきまでここにいたがあけど、用足しにでも行ったがかね。なんかいい話でも持ってきたかね」
君子も越後訛りがあるが、屈託なく対話するので客受けも客捌きもよかった。
客室担当である。
シーツ交換は業者へ委託。清掃もパートタイマーの仕事。
ホテルがレストランをやっていた頃は、そこも手伝っていたと聞く。レストラン業務をやめ、次はブライダルの計画が浮上しているらしい。これも聞いた話。
季節限定のスキー観光が伸び悩み、生き残り作戦が凄まじい。
高校卒業後地元企業に就職。結婚を機に職場を去り、このホテルが開業したので、家族に勧められて社会復帰した。
君子は自分や家庭の話はするが、相手に突っこんで聞くようなことはない。
「久川さんを待っている間、君子さんと茶飲み話していようかな」
遠藤宗人は空いている椅子に腰かけた。
「私は時間だから、裕美さんどう?」
君子は忙しい人だ。わずかな休憩時間に編み物棒を動かしている。休憩室の畳の上で、保育園に通う娘のセーターを編んでいた。
私と年齢の大差はなかった。娘の上に小学生になった男の子もいた。夫の両親が子供の世話をしてくれるので助かっていると、愚痴など言わない彼女に敬服した。ともすると、他人の中傷、陰口を業腹に語りたがる女たちを私は好まない。
「私がお相手でもいいんですか。遠藤さんは君子さんとおしゃべりしている方がお好きでしょう。口べたな私より」
何を言っているのだろう。
心と反対なことを言っている。意識の中にそっと鎮座していたのは他でもない、遠藤宗人、その人だったから。
陶芸家夫婦。遠藤宗人とその妻圭子。強烈な個性を持つ圭子。その個性を受け止めて、静かに内燃しているかのような宗人。
宗人の中にくすぶっているものが何なのか、知りたくもあった。だが、心の中でかぶりを振る。
君子も器用だが、私は生来物づくりとは無縁。想像はたくましくするが、想像が敵わないと分かると、あっさり蓋を閉じる。
中年男、遠藤宗人。
まだ若いと自負しているだけの何の取り得もない私。
私は宗人に父を重ねているのだろうか。
出会ったことは偶然ではなかった。
こうして時々ホテルで顔を合わせている。
ジョークも出る気さくさが、こちこちになっていた意識の塊をほぐしてくれる。
一年前に出会った話はしなかった。
眼だけがやさしく答えてくれる。
この地に住んでくれてよかった、そう言っているかのように。
「ははは、君子さんはよく分かる人だ。
そうなんですよ。裕美さんの顔が見たくて、こっちに足が向くんだな」
遠藤宗人は、私を見てニヤニヤ笑った。
「やっぱりね。ごちそうさま」
君子は二人を交互に見て、笑顔で退座した。
「裕美さん、今のは冗談ね。悪く思わないでね」
遠藤宗人が心から申し訳なさそうな表情をしたので、私も言った。
「はい、分かっております」と。
にこっと微笑むことも忘れなかった。
「支配人を見て参りましょうか」
「いいんです。俺が覗きに行きます。休憩中にすみませんでしたね」
遠藤宗人はズボンのポケットをガチャガチャ鳴らした。
くせなのだろうか。だぼだぼのズボンのポケットに手を入れて音を出している。
「あの」
そう声をかけただけで反応があった。
「ああ、これね。クルミが入っているんですよ」
と言って、ポケットから二個、黒光りしたクルミを取り出した。
「これをね。ポケットの中でこすり合わせる。ほどよい快感と開放感ってやつかな。すかっとするんですよ」
「面白いですね」
「やってみる?」と言いかけたが、「ダメダメ、衛生上よくない。ホテルだし、こんなおじさんが若い娘さんの気を引くようなことは慎まなくちゃ」と、クルミをポケットに戻した。
「それ下さい。よく洗って、私もストレス解消法にやってみたいです」
「ははは、娘さんを釣っちゃったな。おじさんは釣りの名人だ」
私の真面目ぶりに、照れたように遠藤宗人は笑った。
「釣りもなさるんですか?」
「何でもやりますよ。田舎猿だから山や川にあるものなら何でも。イワナにヤマメにハヤにカジカに・・・アユは鑑札持っていないからだめだけど、山菜、木の実、キノコ、食べられるものなら何でも」
眼が活き活きと輝いてきたと思った。
「鑑札って何ですか」
「あのね、漁業組合に入って組合人にならなければ、魚は獲ってはいけないんですよ。イワナやヤマメは山の中でこっそり捕れるけど、アユは稚魚を放流する。成長した頃、川を遡ってくる。アユ解禁とか聞いたことない」
「知りません」
「そうだよね。解禁って、アユを釣ってもいい期間のことを言うんだけど、難しいことはやめようね。
裕美さんに食べさせたくなったな。旬でなくても食べられるものを用意できますよ。
君子さんと来られるといいんですが・・・
一人ではだめです。奥さんの工房は別なので。そうだな~ イベントで人が集まったときがいいかな。
囲炉裏を囲んで、みんなでワイワイやるのもいいものですよ」
話は尽きなかったが、休憩時間も終わる頃支配人の久川が顔を出した。
「宗人、待たせたね」
「いえいえ、どういたしまして。若い美人さんが相手をしてくれたんで、用件忘れたよ」
「中田さんがお相手を、そうか、それはよかった。宗人は奥さんの尻に敷かれっぱなしだからね。こいつはいい奴なんですよ。敷かれていなかったら、もっといい男になっていた。
私ら仲間は、宗人とずっと付き合ってきた。宗人の夢を応援してきたつもりです」
「おいおい、何を言っている」
はにかんだような表情をした遠藤宗人。
その横顔も少年のようだった。
宗人さんか~
心の内でつぶやいた。
つづく。
トンネル爆発事故から一週間になる。
現場前で献花をしている人々のことをテレビで報じていた。
あの山は、私共がよく行く山だった。
山菜、ネマガリダケと、六月の初めに会いに行けると、楽しみにしていた山野草と・・・
当分登れないだろう。
静かに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたい。
お家ご飯。
胡瓜の佃煮(解凍したもの)
朝の風景。