千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

小さな花たち

2021年03月28日 | 日記

雨が降っているような
暗い朝
雨音もしなかった
玄関戸を開けたら
南風
雪を溶かす生暖かな風
春の芽吹きが始まる南風だ

雨も降りそうな日曜日



桜咲いたの?
まだまだよ。

ふるさとに帰れない娘との会話。
お父さん お母さん ありがとう
卒業のお祝いは ほんのきもち。
そんな うれしかった(^o^)☆。







(クロッカス キクザキイチゲ カタクリ)

あっちに こっちに 向こうに
ぽつん ぽつん と 小さな花たちが咲き始めた



お隣さんから海鞘をいただいた。
三陸から、よく送ってくるのだ。
夫が、岩手の海産物に詳しかったので、私も海産物が大好物となった。
海鞘(ほや)は苦手な人も多いが、私は大好き。磯の香り、食感がたまらない。


上がりマンボウ、下がりマンボウって何?

マンボウって魚いたよね。ネットで検索する。
大きな魚。まあるい体で、おちょぼ口。とぼけた顔をしている。

そのマンボウを書いた作家がいた。
そうそう、北杜夫「どくとるマンボウ航海記」だった。
ネットって、すぐ検索できるから面白い。
でも、ときどき間違える(>_<)。

上がりマンボウ、下がりマンボウって?
昼間は映画を観ることが多いから、チャンネルを切り替えると、コロナウイルスの新語が続々と出てくる。覚える必要もないか。

でも、変異株や次の波が押し寄せてくるのを安閑として見ていられない気がする。
カマキリのお方は、大変な山場を迎えようとしている。コロナ、オリンピック、まだまだ大きなハードルが・・・

小さな花たちの生命力に、心和む私たちもいる。


   

寄稿文

2021年03月14日 | 日記
 昨日の朝日新聞。
 川上弘美さんの寄稿文が載っていた。
 最近、読書も薄らいでしまったが、好きなタイプの作家だ。
 独特な雰囲気を持ち、可愛らしさがにじんでいる。4月1日で63歳とは思えない。

 東日本大震災から10年、「生きている申し訳なさ」と、タイトルにあった。


 27年前、「神様」という短編を1時間ほどで書きあげた。高校の生物の教師として4年間勤め、結婚後専業主婦になった。子供のことで悩んでいた頃だという。
 その「神様」を、東日本大震災の1週間後に書き直したものが「神様2011」のようだ。

 (私は「神様」も、「神様2011」も読んでいない)


 「2011」の世界は、放射性物質が空気の中に飛び散り、人々は防護服をまとい、日々除染がおこなわれているのだ。狭い国土にこれだけ多くの原発が建設されている限り、今後も事故が起こる可能性はいくらでもあると思ったからだった。福島原発の事故は、福島だけのものではなく、わたしたちすべてにふりかかる可能性のあるできごとなのである、と。(中略)

 当時の政府は「最悪のシナリオ」を想定していた。当時の自分の感情は、今もありありと覚えている。建屋の水素爆発の映像をテレビで見ながら、「東京もきっと駄目だろう・・・」と、漠然と思っていた。それならば自分はいったい、どうするのだろう。

 日常は、ある日突然、取り返しようもなく変化してしまうものだなあ、というのが、当時一番強く感じたことだった。あれから10年、東京に住まうわたしは、結局避難をおこなうこともなく、地震の被害もほとんど受けず、震災の数ヶ月後には「変化した日常」ではなく、「元と同じ日常」を送るようになる。

 震災のことを思うたび、申し訳ない、と思う。けれど、いったい誰に対して?
 もちろん、すべてに対してだ。
 震災と原発事故で傷を負った方々に何もできない自分に対して、同時に、自分が何の役にも立たないと嘆く自己憐憫ともいえる気分に対して、どこまでいっても、自分は当事者の方々の傷を真に理解できないことに対して、そして傍観者として今ここで生きていることに対して。(後略)



 いつ頃購入したのか不明だが、途中までしか読んでいなかった。
 昨今は書店にも出かけていない。

 川上弘美さんも言及していたが、コロナ禍で、すこしずれた日常にいる。それは必ずしも不幸なことではない。

 チューリップの芽が、ところどころに出ている。



  雨で寒いが、花咲く春の訪れを、わくわくしながら待っている(^o^)☆。