千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

ある回想 2

2013年02月25日 | 日記

言葉などいらなかった
美しく飾ろうとする
言葉など

そこに行けば
誰もがつかのま
詩人になれる
そこにあふれている
さまざまなものが語りかけ
旋律さえも奏でていた

人は誰もが
カリスマ的なものの一つない
自由な空間の存在に
安堵したに違いない
あまりにも
ゆるやかで あたたかな
その存在に
                          
凍てつく
二月の寒さは
そこにはなかった
                    (azumi)




「なつかしいよね」
「あったかな人だったよね」

 なつかしい人はいなくなった。あの世という地に旅立った。
 なつかしい人の思い出話と、この店のオーナーの言葉が重なった。

 暗闇を手探りでかきだすようにして、だが、思い直したように、
「がんばろうよ、ね、明日に向かってがんばろうよ」
と、かけ声を放つ友。

 店の個室はうす暗く、彼女の表情さえも読み取れない。

 ログハウスの二階。狭い窓からは雨の国道17号線。時折、車のライトが鈍い光を落として通りすぎていく。

 私たちの居場所がまた消える。

 これも寄る年波。
 オーナー一人での維持も大変と、あっさり決意したのだという。
 この人も九州の出。
 夫人の郷里に根を据えて、長い年月が過ぎた。

 私たちも、歳月を、こうして語りあって過ごした。
 芽吹きの春、芽が膨らむように、枝々が伸び、仲間が増えていった。
 仲間展を企画。それぞれの得意分野を発表する場に、ミニ・コンサートやフリー・マーケットが加わっていく。楽しい時代だった。

 途中、私が病気にかかっていたことを医師によって知る。軽い脳梗塞だった。 仕事も忙しく、市の検診も受けていなかった。症状は軽いのだが、気がついたのが遅く、完治するまで時間を要するという。

 病気は打撃だった。
 仲間の一人は、私の病気を理解できず、ギタリストのコンサートの司会を、あなたしか出来ないと頼み込む。話す言葉もなめらかではなくなった、私の心のうちを知るよしもない。なぜか司会担当は私になっていた。何度も断ったのに、引き受ける結果になってしまった。
 魚野川沿いのレストランでの、「ギターコンサートの夕べ」は、いい雰囲気の中で開催された。ただ一人、緊張しすぎて時々言葉を忘れた私を除けば。

 本来の自分を取り戻す日は必ず来る、と信じていた。
 そして、以前と変わらない私になった。

 世の中は変わった。
 人の心も変化する。
 だが、友情は変わらない。
 空も、山も、川も、自然の豊かさも。

 自分を取り戻した私だったが、神の戒めを再び受けることになった。


 春になったら歩きだそう。
 山を歩こう。

 昨年夏から、休んでいる絵画教室も再開だ。

 (追記 あるとき、消化器外科の女医に病歴を問われた。「閉経後の隠れ脳梗塞ね」明るくあっさりと言われた・・・なるほど納得。何年も気がつかなかった訳が分かった)



 診療所の欅。 2011・1・ 7



 診療所の欅  2011・1・10



 診療所の欅  2013・2・23



 かつての院長(故人)の家には、樹齢約1500年の欅の大樹がある。
 「欅苑」として、越後雪国の典型的な田舎屋造りの料理屋となっている。

 東京に出かけて来た夫。東京はポカポカ陽気だったようだ。
 帰路、関越トンネルを抜けたら、猛吹雪で大渋滞だったとのこと。
 地震もあった。
 昨日から寒波が来ている。


 目標を持つこと。
 今日の自分、明日の自分のために。







鎮守の森

2013年02月14日 | 日記






 この場所は、雑木林が途切れては細い道がくねってつづいて、また林の中を歩かなければならないという、陽のささない暗い一角だったような気がする。集落と集落をつなぐ道路をまたいで向こうへとつづく径は、うっそうとした森がつづく。足を踏み込めない径。「焼き場」があって、一人では恐くて通れなかった。



 かつては魚野川に注ぎ込む川がいくつもあって、川の周囲は杉林や雑木林があったような気がする。
 土地改良事業で、雑木は伐採され、田は広く整備され、アスファルトの農道、農業用水路が出来た。何年も、何年もかかって。
 時代は変わった。
 自然も少しづつかたちを変えていく。
 変わらないものはふるさとの山。
 ふるさとの思い出。






 中学校校長を長年務めた遠縁にあたる方の「自伝」の中に、おもしろい項があった。すでに故人なので文章をお借りした。

 蛇の葬式

 夏になると蛇が沢山出た。道端で見掛けると大体石を打ちつけるか、棒でしわぐかして殺した。石を投げても当たらず、草むらにかくれたり、石の下へもぐりこんだのは見のがしてやった。夏中に十匹以上は殺した。殺した蛇はやり場がない。田や畑へ投げれば大人の人に叱られる。小川へ流せば大てい飲用だからよくない。大川へ持って行ってもこの川は上から下まで各の「水浴び場」があるので、うっかりよそむらの水浴び場へでも流れて行きそれがおれ達の流したのだとわかればとっちめられる。それで、むらの水浴び場から少し離れた河原の中に穴を掘り、石でかこんで、砂がくずれぬようにし、炭焼きがまの要領で中を広く口を小さくして石でふさぎ、その中へ順々に入れた。そしてその上に座りのよい石を塔に立て、あわ石で「へっぺのはか」と書いた。
 墓に入れるのだから葬式もしたがよいと四本の棒を藤づるでしばった上に流れて来た板をのせ、その上に蛇をのせて左廻りに三べん廻り簡単なお経を読んで蛇の墓へ入れた。ところが或る日学校で喜代治という一年生にこんなことを言われた。
「にしら水浴び場のねっこ(そば)へへっぺの墓こしゃったなあ」「うん十五匹うめた」「たゝるぞ」骨でもさゝることかと思って「たいていくさったがな」というと、
「たたるちうがんなあ、死んだへっぺが毒の茸になって生えてにしゃ衆がそれを食うと体が火のように熱くなり大川の水を飲み干しても足りない程で、口が耳まで裂け、のどの下にこけら(うろこ)が生えるがんだ。俺あ新宅のつまり(中魚沼郡)の方へそう言う家があった。」
「そんつら茸食わんければいいべに」
「それがへっぺの魔法でどしても食うがんだと」
 さあ大変だ。これから蛇殺しは一切しないからと約束しても殺してしまったのはどうにもならない。一緒に殺した利平や利作に相談すると利作は「そんつらこととちろっけつ(大きな嘘)だがな」と言ったし、利作は「うんおもしろいなあ、口から耳まで裂け、のどの下にこけらが生え、大川の水を飲み干すようになったら、見せ物に出て金もうけしるか」とこれも相手にならない。
 私だけは喜代治の言ったことが気になって夜も眠れない。何でも蛇の親方はすわ様という野際の鎮守様と同じ神様だという。そこで目をさましている時はいつも心の中で「すわ様すわ様」と唱える事にした。それがどの位つづいたかは覚えがない。
                   (原文のまま)


 雪まつりもあって、来ていた孫がおもしろいものをつくって遊んでいた。ベルトを蛇に見立て、顔を描いて、クネクネくねらせて、「スネちゃんとお散歩に行きま~す」だとか。
 何でもおもちゃにして遊べる子供たち。

「今年は何どしだっけ?」
「蛇どし!」
「スネちゃん、可愛い?」
「うん」
 スネークだからスネちゃんか。

 昔と現在。
 子供にとっては昔も今もない。
 ふるさと。
 なつかしい思い出として心に残せるものであってほしい。




猫たちとの暮らし

2013年02月03日 | 日記





 猫たちはすでにいないので、
思い出したまま、かいつまんで書くこととする。

 元気は最後に生まれた子猫。
 やさしげな、だが動作は敏捷で、家にゆっくりいたためしがない。
 ラブと同じブチ猫である。
 六月四日生まれ。
 ナンシーは、最後に産まれた元気の、包まれていた羊膜を丁寧に舐め、へその緒をかみ切り、胎盤などをきれいに食べて片づけた。かすかな産声を再度耳にした。子猫の首の柔らかいところを銜えて押し入れに入った。すでに三匹の子猫が、奥で眠っているはず。
 ナンシーはもはや母親である。我が子のことだけしか頭にない。私たちは家族のはずだったが、押し入れを覗こうとすると、容赦なく怒る。
 う、う、う、う、ぅ、ぅ、ぅ、と声で威嚇する。
 娘が作った段ボールハウスは意味をなさなかった。
 子猫たちのために、やわらかな布団を入れて、心をこめて作ったのに。
 部屋が賑やかだと、ナンシーは落ち着かなくなる。
一匹、また一匹と、子猫を銜えて階段を登る。
 階段を登って、部屋のドアが閉まっていたり、ノブが回せなかったりすると、また降りて、違う場所を探そうとする。
「ナンシー、気がつかなくてごめんね。静かにするから、押し入れにまた入ってね」
 段ボール箱もだが、出産に備えて、押し入れは猫たちのためにスペースを空けておいた。タオルケット、バスタオルなどを敷いて。
 子猫たちの目が開いて、押し入れから出てくるようになるまで待つことにした。

 ナンシー母子のことばかり気にかけていたので、シドが外でどんな遊びをしていたのかは分からない。力はないくせに、向こうっ気が強くて、喧嘩はする。強いボスの領地に踏み込んで、大乱闘のうちにすばやく相手を噛んで、逃げ帰る。 家に帰ると、何食わぬ表情で甘える。

 生後一週間くらいで、子猫たちの目が開く。
 ナンシーが場を離れたすきを狙って、こっそり覗く。
 四匹、身体をぴったり寄せ合っている。
 可愛い。早く抱いてみたい。
 ナンシーは怒らなくなった。
 だが、もうあっちに行って、そんな目で合図を投げる。
 しばらくすると、ごそごそ動きだす気配。子猫の小さな鳴き声も聞こえたりする。
 母親はしっかり栄養を摂取し、子猫たちの授乳に貯える。排泄も、子猫の肛門や尿道口を母親が舐めて処理していた。
 一月くらいから、外の様子が気になった子猫たちが顔を出してくる。
 母親の後も追うが、目にするもの全てに興味がある。

 ここで、娘が作った段ボール箱の登場である。
 四匹は子猫部屋に入って遊ぶようになった。

 そろそろ離乳期。
 子猫用の猫缶詰も用意した。
 成猫用のキャットフードはシドとナンシーに。
 だが、ナンシーは子供たちが食べ終わるまで、尻尾を足に巻き付けて待っている。
 その母性を愛おしく思ったが、母性のない子猫に回帰していることもある。
 特に、私に対する甘えは、ずっと抑えていたものが甦ったように尋常ではなかった。
 ナンシーは人一倍甘えん坊なのに、日頃は心を抑制しているのだ。人一倍という形容は可笑しいのだが、ナンシーがいじらしくてならなかった。

 末っ子の名を「元気」と名付けた。
 可愛い顔立ちだったので、
元気な男の子に育ってほしかった。
 兄妹なかよしで、家の中は学校の運動場さながら。
 廊下を駆けっこしたり、本箱や棚や箪笥の上に登ったり、障子は破る、駆け上る、目に当てられない状態になったが、しばらく放置することにした。
 家ではなかよく遊んでいるのに、外に出ると別行動だった。
 長男のイチローが養子に行き、トシチャンもラブにも個性が出てくる。
 元気の個性は見いだせないまま、
生後四ヶ月余で命を落とした。
 元気が帰らないことに気がついて、近所をくまなく探した。探したはずだった。
 家の前のおばさんが、真新しいタオルにくるんだ元気を抱いてやってきた。冷たく硬直していた。
 庭の草むらに倒れていたのだそうだ。
 かっと目を見開いて、家の玄関を見あげるように。
 口元には。かすかな喀血の跡があった。
 元気を抱いた私に、シドが覗き込むように前足をかけた。
「にゃお~ん」
 哀悼の叫びだったのかはさだかではない。
 ナンシーは黙して語らず、無表情だった。
 ラブもトシチャンもいなかった。

 私の感情は頂点に達していた。
 コルクの栓が抜けるように、どっと溢れ落ちて留まることを知らない。

 猫のことを一匹、二匹と言えなくなったのはいつからだろう。
 家族だから、一人、二人と呼ぶの。
 そう言っていた人は誰だっただろう。

 思い出すままの、
猫たちと暮らした話はまたいつか。