四
チャイムが鳴ると同時に、ドアが開いて恵太の声が飛び込んできた。
「こんちは~。恵太です」
「恵ちゃん、いらっしゃい」
携帯で恵太が着いたことを知ったので、ドアロックは解除していたのだった。
リンゴの皮を剥いていた淑乃は、手早にタオルで手を拭いて玄関に向かった。
恵太は、玄関ドアの向こうにいる女性に入るように促している。もう一人いる。
「こんにちは。おじゃまいたします」女性は頭を下げた。背が高く、美人だった。
「いらっしゃい。ようこそ」
もう一人は少年だった。小学校四、五年かと思われた。
母親に挨拶するように言われて、ペコンと頭を下げた。
淑乃は三人分のスリッパを用意した。
「やあ、いらっしゃい」
ベランダで、干した布団を叩いていた数馬が顔を出した。秋陽はあたたかい光をフロアいっぱいに降り注いでいた。
女性は固くなっていた表情を緩めた。
窓の外に広がる景観に見とれているようだった。
「どうぞ、どうぞ」
数馬と淑乃が同時にソファーを勧めた。
「ありがとうございます」
少年は、突っ立ったままだった。
紅茶と皮を剥いたリンゴをトレーに乗せて、淑乃が声をかけた。
「こっちにいらっしゃい。紅茶飲まないよね。ドリンクは何がいいかな。」
屈託のない淑乃の笑顔にも、母親の横に腰掛けた少年は黙ったままだ。
「スポーツ・ドリンクかな」
少年は母親の顔を窺った。母親は苦笑している。
「サイダーかな」
恵太から聞いていたのだ。子供も連れて行く。サイダーと苺のケーキが好きだ、ということも。
少年は頷いた。
「じゃあ、それにしよう。苺のケーキもあるわよ」
母親が「構わないで下さい」と言っている横で、少年は嬉しそうな顔になった。
恵太はにこにこしながら二人を見守っている。
「こちら、真美子、同級生の川野真美子。よっちん、覚えているかな」
「あ、やっぱり。同級生の皆さんと遊びにいらっしゃったことがあったような・・・記憶がはっきりしないけど」
自分のこともだが、記憶力が鈍くなったのは確かだ。こんなことも、あんなことも思い出せないのかと、思うことが多々ある。真美子の名前だけは記憶にあった。恵太が失恋した相手だということも・・・
「ごぶさたしておりました。川野真美子です」
「こちらこそ。すっかり美しくなられて・・・」
「とんでもないです。お姉さんも変わらないですね。中学の頃から素敵な人だと思っていました」
「そんなの嘘ですよ」
「ほんとです」
笑顔のまま、黙って話しを聞いていた数馬が声を出した。
「はじめまして、村越です」
「はじめてお目にかかります。いい所にお住まいですね」
「ありがとう。シンプルな住まいだけど、眺めは気に入っています」
「景観が素晴らしくて、ゆったりと寛げるお部屋、いいですね」
真美子は恵太に視線を走らせながら、ゆっくりと室内を見渡した。
「君は何年生かな。背が高そうだけど」
「四年・・・」
「お名前は」
「数樹・・・」
「僕の名前に似ているね」
「カズキ?」
「樹はなくて、馬がいっぱいいるほうだよ」
「ふうん」
数馬に声をかけられて、少年の瞳が輝いた。
「数馬?僕は数樹、樹がいっぱいあるの」
「いい名前だね。おじさんと似ているなんて奇遇だね。なかよくしよう」
数樹と数馬、急速にうち解けたようだ。固くなっていた少年の心を揉みほぐすような数馬のやさしさに、恵太は連れてきてよかったと思った。
恵太が電話をかけて来たのは一週間前だった。京都の土産物を持って実家を訪れたとき、恵太は不在だった。
「最近、友だちのところに出かけることが多くなってね」
多恵が意味ありげな表情をした。
「ふ~ん、いい人できたのかな」
「だといいんだけど、口数が減って、ちょっと気になる」
「何かあるのかな、そのうち分かるわよ。あんなに明るい恵ちゃんだもの」
「そうだよね」
そんな話しを多恵と交わしたばかりだった。
母親の多恵から聞いて電話をかけてきたようだ。
電話では紹介したい女性がいるという。打診してみたところ、淑乃も知っている人らしい。
「あの娘さん?じゃないよね」
「そうだよ」
恵太はあっさりと言った。
「だって、恵ちゃん、あの人結婚したんじゃないの」
「そうだよ。子供もいるよ」
夏の同級会で真美子と会った。何年ぶりだろう。
何度か、同級会で真美子を見かけた。お互いに挨拶を交わす程度だった。今年の真美子は少しやつれて見えた。何かあったのか。
同級生たちも、二人きりにさせてくれているような気配が感じられた。一人、酔っぱらった男が二人の間に割って入ったが、呂律の回らない言葉だったので恵太は適当にあしらっていた。真美子と付き合っていたことは、地元の同級生で知らぬ者はなかった。
小学校から高校まで、恵太も真美子も同じ学校に通う友だちだった。
大学を卒業して、恵太は故郷に帰ってきた。真美子は長岡の短大を出て、地元の保育園の保育士になった。何年かは交際が続いた。恵太は、真美子と将来は結婚するつもりでいた。自然の成り行きだと思っていた。
真美子から、恵太以上に好きな人が出来たことを宣言された。それも、お腹に相手の子供を宿している、と聞いた時は茫然自失だった。目の前が真っ暗になり、ありとあらゆる瞑想と妄想が空回りをする。思考は拡散する。自分は真美子にとって何だったのか、言葉で伝えなくても真美子には届いているはずだった。
相手のことは聞かなかった。
真美子とは終わったのだ。
二、三日考えて、心の整理が出来た。
友人たちから聞いたところによると、本社から魚沼支社に出向していた青年だった。「気障な奴。飲み屋で二人でいるのを見かけたことあるけど、どうも虫が好かない男だったなあ」真美子がいなくなってからの回顧だった。
東京の男のマンションで暮らした。
子供は月足らずの死産だった。
次ぎの子が胎内に宿ったとき、専業主婦になった。
夫の勧めだった。
数樹が産まれた。
今年の夏まで家族三人で暮らした。
男の性癖に気づかなかった。
分からないように浮気もする。
何でもないことを嫉妬する。
数樹が可哀想だ。
子供は両親を見て育つ。
父親が数樹に手をあげることはなかったが、母親への侮蔑の言葉は数樹の心まで傷つけたような気がする。
離婚を決意した。悩み抜いた末の結論だった。
夏休みだった。実家の世話になっている。
小学校も転入。真美子も保育士に戻った。
「真美子にまた友だちなってくれって伝えたよ。まだプロポーズはしていないけど、俺の気持ちは変わっていない」
恵太は数樹を見た。
「数樹、いいよな」
数樹は可笑しそうに笑った。
「恵太はお上手。数樹から手なずけようとしています」
真美子の口調には否定する面が窺えない。
淑乃も数馬も進行路線を歩んでいるのだな、と思った。
「これからちょくちょく来るんだね。数樹君も」
「うん」
数樹は数馬と気が合いそうだ。
数馬は、(こんなおじいさんと・・・)口に出そうとして引っ込めた。子供がおじさんと見るか、おじいさんと見られるか、子供の判断に委ねよう。二人だけの暮らしに、少しずつ新たな風が吹き始めている。
セルゲイ・ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第二番:第一楽章
たまらなくラフマニノフが聴きたくなって、淑乃はCDを手に持った。
背後から数馬がそっと抱きしめた。
「人生って、いろいろあるのね。恵太も真美子さんも、それから数樹君も幸せにならなくちゃね」
「僕と淑乃ちゃんのようにね」
「数馬さん、何だか涙が出る」
幸せってなんだろう
空に浮かぶ白い雲みたいに
つかまえようしても届かない
幸せってなんだろう
私は定義づけるのが苦手
考えることもしなかった
でも こうして あなたと暮らしている
幸せって人それぞれにちがう
幸せだと思ってきたことが
ちがっていたことに
気づくことだってあるのだ
自然の移ろいの中で
こうして二人で暮らせることが幸せなのだ
生きとし生けるものの幸せを願っている
ラフマニノフのメロディーは二人のいる空間をくぐり抜けて、暮色漂う秋の山々を駆け抜けて行った。
つづく