その三
冬の仕事場は単調である。
人の出入りも少なく、四、五人がリズミカルなキー音を発しているのみ。
淑乃も眼鏡なしではいられなくなった。
ふと、金融機関でかい間見たグラビア雑誌が脳裏に浮かぶ。
慌ただしく過ぎた歳月の中で、母のことは忘れ去ったはずだった。
あのグラビアが思い出させてくれたのか。
紫乃という名前をつけたかったという。
想像の中で、紫乃から紫野へと広がりをみせていく。
万葉ゆかりの地蒲生野とは、確か滋賀県である。
読書はよくするが、万葉集の世界に興味を持ったことがない自分を少し恥じた。
「淑乃さん、少しいい?」
右後方に眼をやると、重そうにプリント物を抱えた、同僚の洋子がいた。
小さな声で囁くように気配りをしている様子が分かる。隣室のコピー機で大量にプリントをしてきた帰りと思われた。
「聞いてほしいことがあるのだけど、帰りにいいかな?」
「いいわよ」
「じゃあ、あそこで」
「OK」
首を上下に振って頷いて見せた。
時たま二人で行く居酒屋「灯り」は、小上がりの部屋に分かれているので寛げる店だった。店名通りやわらかな灯りに包まれているような配慮が感じられる。カウンターで飲んでいる客たちもいるが、酔って大声を出す雰囲気ではない。
「いらっしゃいませ」
トレーにお通しを乗せてきた女店員がいう。
「ご注文が決まりましたら、お声をおかけ下さい」
「ハイ、ハイ、了解です」
洋子の方が世慣れているというか、テキパキとした応答だ。
お通しはワラビの酢醤油和え、塩漬けをもどしたのか、色もよく甘酢味の食感がいい。
「美味しいね」
「今頃の季節は、こういうのがさっぱりする」
「何から注文しょうか」
置いてあったメニューを二人で覗き込む。
「肉系はいいや、ちょっと正月の胃疲れ・・・刺身、魚系、サラダ 系、ゆっくり食べよ」
洋子は、話があるということだった。
「洋子さん、時間はいいの?私は構わないけど・・・」
淑乃はさりげなく洋子を見た。
「いいの、いいの。職場で飲み会が出来たって、母に電話しといた。私がいなければいないであの夫婦結構やってくれるのよ。子供たちも、ジィ、バァっ子だし。食べながら、飲みながら、ゆっくりしてこぅ・・・あ、淑乃さん、自分勝手でごめんなさい」
洋子は手を合わす真似をして苦笑した。
洋子はライムハイ、淑乃はレモンハイを頼んだ。
料理が運ばれてくる。一皿を二人で分け合う食べ方、女店員もよく心得ている。
二人でグラスを合わせて乾杯をした。
鰺の梅みそたたきがきた。
「さっぱりして、うんまい・・」
洋子の好物だ。
二人で分け合って食べる。淑乃は一口、一口、味わって食べるほうだから洋子に遅れる。
洋子は二品目に手をだしている。
「お先に、エビとブロッコリーのたらこクリームだ」
食べながら、
「話は食べてからにするわ。ちょっと待っててね」と、忙しく口に運んでいる。
自分と洋子の違いは独り身か家庭を持っているかの差なのだと、淑乃は思う。
洋子は44歳。東京で職場恋愛の末結婚。退社して子育てに励んだ頃から、夫との生活に噛み合わない空虚感を味わうようになった。娘二人を連れて里帰り、実家にそのまま居座った。
酔いで赤みがさした洋子の頬が、灯りの下で艶めかしく映る。
女っぽい人・・・正直な気持ちである。
見抜かれたように、洋子は淑乃をのぞき込むように正視した。
「淑乃さん、恋愛したことあるよね。ない訳はない」
「ええ~っ、ないよ。ない、ないなあ。まだ若かった頃、こっちに戻って来たからね。若くもないか・・・」
「事情は知ってる。でも、心の奥に秘められたものを感じるんだけどな・・・」
「何をおっしゃいますか。そんなのないよ」
「あるんだな~。そこが淑乃さんの魅力なんだけど、無駄口は叩かない、包容力はある、凛としている。私だって好きだよ・・・どこかにいそうね、淑乃さんを想っているいい男が」
淑乃は笑い出した。酔いがふわ~っと回ってくる。
酔いと可笑しさが同時にこみ上げてきた。
笑いを止めて、ふっと洋子を見た。何か考え込むような眼をしていた。淑乃はそれとなく察知した。
「私ね・・・言っちゃう、今、恋をしているの」
頬の赤みがいっそう増した。酔いが回った洋子の眼元は垂れていた。
さもありなん、洋子は隠し通せる人間ではなかった。心の揺れ動く様が何となく感じられた。自分に正直な洋子が羨ましい。
「わっ、おめでとう」
淑乃は心から祝福した。
「おめでとうって、そんなんじゃないよ」
「どうして?」
「バツイチ、子持ち、親の家に同居の私がそんな・・・」
「いいじゃない」
「肩身が狭いわ。内緒で彼と会っているなんて。独り身のように自由にいかない。二人で会っているときは楽しいけど、帰り道を急いでいるときは現実に戻る・・・あっ、ごめんね」
「ううん、いいのよ。いい男性に出会う機会もなかったし、独り身も気楽なものよ。私に遠慮はいらない。何でも聞いてあげる」
酔いは覚めてきた。何でも聞いてあげようという気持ちの方が逼迫している。
皿に残っていたつくねをゆっくり口に運んだ。
「ありがとう。以前からつきあっていた人だけど、ともだちのつもりだったから何の気も起きなかった。いつからかな、お互いが好きだという感情を持つようになったのは・・・あ、彼二つ上なの。高校は同じ、部活の先輩、テニス部だった。そんなことで、街角や書店、スーパーなんかで顔を合わせることが偶然に重なって、挨拶を交わすようになった。そのうち、お茶しょうか、になって・・・仕掛けたのは私だけど・・・」
洋子は照れ笑いをした。
「いいお話じゃないの。恋物語を聞くのは好きよ。それで?」
「彼はいい人よ。どうして結婚しなかったか聞いたことがあるの。彼女に振られたみたい。思いもしなかったので大きな痛手を受けた。恋愛そのものが面倒になって、人の紹介も断り続けたんだって。親もあきらめたらしい。よくいるじゃない。結婚しない男があちこちに・・・縁がないのか分からないけど・・・あっ、また、ごめんね」
「気にしてないから」
淑乃はにこやかな表情で聞いている。
「本当にいい人よ。背、高いし、よくジョギングしている。見たことない?」
「ないな」
れんこんのはさみ揚げと水菜のサラダがきた。
「もう一杯飲もうか」
「そうね、飲もうよ」
彼をますます好きになる。
彼はまだ何も言わないが、お互いに周囲を憚りながらの逢瀬、このままの関係を続けることに焦りが出てきた、ということだった。親や娘たちに隠して会うことの罪深さに恐れおののく。娘たちもそろそろ感受性が強まる時期にさしかかっている。だが彼と会えば、現実は忘れてしまう。頻繁に会うことも躊躇するようになった。会う場所さえ限定される・・・
彼にプロポーズされた訳ではない。堅実で思慮深い人、いずれ何かを言って来そう。そのときどうすればいいか悩んでいるのだった。
「話を聞いていると誠実そうな人じゃない。お互いに好きならそれでいいんじゃない?悩まずに川の流れのように心をゆだねたらいいと思う。後は自然に任せたら?ご両親だって賛成してくれる。娘さんたちだって、お母さんの幸せを理解できる年頃よ。洋子さんによく似た娘さんたちだし、大丈夫よ。ただ性急にならないこと。家族との和合が一番なんだから」
一瞬だが、遠い日が幻のように淑乃の脳裏をかすめて消えた。
洋子と左右に別れて、寒風が吹く夜道を歩いて帰った。
やっぱり酔っているのかな。
恋の話は他人ごとのような気がしない。
これからも洋子を見守ってあげるつもりだ。
鍵を取りだし、ドアのノブを回した。
独り身の冷たい部屋。
ストーブを点けた。部屋が徐々に暖まってきた。
明日の土曜日は、実家に行ってみよう。
「多恵姉さんに電話してからだ」
誰にいうこともなく呟いた。
恵太が、インターネットを検索している。
「ほら、ここにもあるよ」
「どれどれ、ほんとだ」
「コピーしてあげるよ」
多恵、淑乃が、恵太のパソコンを覘き込んでいる。
万葉集:蒲生野(がもうの)を詠んだ歌。
滋賀県東近江市あたりと考えられる。滋賀県東近江市は、以前は滋賀県蒲生群蒲生町を含んでいた。
天智7年(西暦668年)、蒲生野での薬猟(くすりがり)のときに詠み交わされた額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのみこ)の歌が知られている。
額田王の歌
あかねさす紫野行き標野行き 野守はみずや君が袖振る
(紫草の生えているこのご料地で、あちらへこちらへと行き来して・・・野の番人に見られはしないでしょうか、あなたが私に袖を振っているところを)
大海人皇子の歌
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも
(紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことをこんなにも恋しく思うのでしょうか。あなたは恋をしてはいけない人妻だというのに)
「村上天皇は、平安中期代62代天皇・・・
ふ~ん、勘違いしていたようだね」
「何が?」
「忍ぶれど いろに出にけり わが恋は 物や思ふと人の問ふまで・・・」
「なあに、聞いたことあるけど?これも百人一首だったよね。確か」
「そう、そう、百人一首の秀歌よ。平兼盛が歌合せで壬生忠見と競った歌。壬生忠見の歌は、恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか・・・何かに紫野って書いてあった気がする。大失敗・・・」
「そうなの?覚えていないし、勉強不足、というか、短歌、和歌はよく分からない・・・」
「天智天皇は代38代天皇・・・つまり中大兄皇子、大化の改新ね。その弟大海人皇子、後の天武天皇、すっかり忘れていた歴史を思い出した」
天地天皇は第38代天皇、中大兄皇子として、大化の改新で知られている。弟が大海人皇子である。天智天皇の息子大友皇子が後の第39代弘文天皇である。 大海人皇子は壬申の乱をおこし、第40代天武天皇となる。
額田王と大海人皇子は、愛し合い、子供までつくった間柄だったが、後に額田王は天智天皇の寵愛を受け、後宮に入った。
蒲生野游猟のときに詠み交わされた相聞歌である。
万葉集 日本最古の歌集
成立は奈良時代末期とされる。全20巻、和歌約4,500首。
平城天皇の勅撰とも、大伴家持の私撰とも云われている。誰が、どのようにして編纂したかは明らかではない。
舒明天皇(600年くらい)から大友家持(759年)までのものが収録されている。
作者は皇族・貴族から庶民まで広い階層にわたるが、その中心が皇族・貴族・官人であったことは無視できない。特に、額田王・柿本人麻呂・山部赤人・山上憶良・大伴旅人・大伴家持などは著名。
百人一首
100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰。
中でも、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首は歌がるたとして広く用いられ、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指すようになった。
天智天皇、持統天皇、柿本人麻呂、山部赤人、小野小町、紀貫之、平兼盛、壬生忠見、和泉式部、紫式部、西行法師・・・
インターネットを検索しながら、多恵も淑乃もしみじみ思う。
「万葉集は奥が深い。かりそめにもうかつなことは云えないね。勉強しなくちゃ・・・」、と多恵。
「紫野の記事に興味を持っただけだったの」、とは淑乃。
恵太は云う。
「百人一首の同好会が職場にあるよ。今度、やってみますか。母さんの頭の体操に」
「いいね。やろう・・・ボケボケ頭にいいかもね」
多恵は、光代を思い出したが、辿ったところで何も浮かんでこなかった。
多感な少女期、思いこみが激しかった。都会的な雰囲気を持つ光代に魅了された。肉体は現存しないが、思い出はまだ生きている。
紫野を訪れてみたい。
夫が六十五歳になったら職場を辞める。
そのとき夫婦旅行を言い出してみようか。
淑乃ちゃんは遠慮するだろうな。
中途半端だった短歌を、もっと学んで、練り上げて推敲できるようにすることだ。
「淑乃ちゃん、今日は泊まって行きなさい」
「は~い、そうします」
つづく