平成15年9月26日 (日曜日)
肌寒い雨降りの朝だったと思う。
朝早く、Kさんから電話が来た。
「chiefが橋の下にいます。小学校の行事があるので、申し訳ないのですが迎えに行っていただけないでしょうか。お父さんしか頼む人がいないのです」
「よし、分かった。そこから離れないように言ってくれ」
夫は「困った奴だ」と言いながらすぐ飛び出した。
義侠心が強いというのか、こうと思ったら自分を曲げない。情けある者には倍の情けを返す。自分を嫌う人間には意地でも近づかない。
長州人だとつくづく思う。幕末だったら倒幕の血潮がみなぎったか。俺には関係ねえ、とあぐらをかいてそっぽを向いたか。余談はさておいて・・・
全身真っ黒に汚れたchiefが車から降りた。夫が後部から古びた自転車を降ろす。
「お帰りなさい」
声をかけると、彼は照れた表情で頭を下げた。髪はボサボサ、着ている半袖の Tシャツは素材も色も判別出来ないほど。そして強い臭いが鼻先をかすめた。
朝食はKさんからコンビニ弁当の差し入れがあって、車中で食べた。
遠慮してシャワーだけ浴びている間に、夫から彼の顛末を聴いた。
新宿の公園のホームレスとなった現在、同じ仲間同士でトラブルがあって、大宮近辺で放置自転車に飛び乗り17号線をひた走って来たらしい。真夜中に湯沢に着いて、雨を避けるため橋の下にいた。布袋に入っていたありったけの衣類と新聞紙を被って夜を明かした。寒さに震えていたという。話に涙ぐんでしまった。
結局帰って来たのは私たちの家だった。
前回も前々回も、その前も、行き詰まってやって来た。
まともな人生を歩んでいたはずの彼が、何かのはずみで道をはずした。
浅草某ホテルの料理長にまで出世して、クラブのホステスをしていた女性と結婚。高級マンションに住み、娘が生まれ順風満帆だったはず。
夫に話した事と私が聞いた話とは多少の食い違いがあるが。
結婚は破局、ホテルも辞めた。
そして軽井沢で再起。2度目の結婚。私たち夫婦と同じ教会で挙式したらしい。
だがまた離縁することになる。流れ流れて・・・という歌の文句があるが、どうやって上越沿線にやって来たのか、そこまでは私は聞かなかった。
スキー場のペンションでコックとして働くようになる。
私たちの娘と、後に娘婿になるT君、そしてKさんとは仕事を通しての知り合いだった。働いていたペンションが倒産して途方に暮れていたとき、私たちの家にやって来た。
料理人らしく自分の包丁を布にくるみ大切そうにしていた。
私たちも仕事場を自宅に移したので、彼にはずいぶん世話になった。
まず料理である。少ない経費で食材を生かした美味しい料理を作ってくれる。 勿論料理人だから手洗いは丁寧にする。レシピは頭に積み込まれている。
そして驚くほどの器用さ。大工仕事も出来る。ちゃんと計って材木を切る。寸分違わない仕事場の完成。サッシの戸も難なくコンクリート壁に収まった。
chief様、様だった。人柄がいい。いつもニコニコしていた。ただ飲み過ぎるといけない。押さえつけられた諸々の恨み辛みが出てしまう。実直な のに処世術が下手。結局あちこちと職場を変えることになったようだ。はけ口をパチンコに求めてしまう。20万円も稼いだと言っては、また手を出すからいつのまにかそのお金も無くなる。何度かそのあぶく銭で私たち家族にご馳走をしてくれた。
彼は、私たちのことを
「お父さん、お母さん」と呼んだ。現在44、5歳だろうか。
岩手県平泉から田野畑村近辺の生まれ。両親も他界して、故郷も縁遠くなったと、詳しいことは語りたがらなかった。
東北岩手・・・「姫神」の旋律が浮かんでくる。
オーム真理教に名前を悪用された苦い経験もある。そのため警察の事情聴取を何度も受けた。語る彼の顔に悲愴感はなかったが、彼が私たちを慕っていることを快く受け止めてあげようと思った。
彼は、私の身体をいつも気遣ってくれた。
chief、みんながそう呼んでいたニックネームである。
春は山菜、山わさび採り。笹の葉に鋏を入れて、器用に刺身皿に敷く様々な形を作る。
秋、キノコ採りの名人。食べられるキノコをなんでも知っている。
私たち夫婦、娘と娘婿、軽井沢にも行ったし、裏巻機渓谷、大源太、湯沢高原と、アウトドアを満喫する。
一週間居候をしては、また新たな職場を探し、また戻って来る。
夫は言う。
「いつまでも居座るのはよくない。その腕をもっと活かさなきゃいけない」
そして新たな伝手を求めて、意気揚々と帰って行く。
娘たちが結婚、孫が生まれた頃から彼の足が遠のき始めた。
新宿の居酒屋を任されて、腕を振るっている。その店に偶然立ち寄った湯沢の知人から聞いた話だとKさんが伝えてくれた。
Chiefは一ヶ月我が家にいた。家業を少し手伝わせ、いくばくかの現金を渡す。一週間は食べていけるだろうと。
私は、「もう二度とホームレスにならないで」と彼に切望した。
請負人の「先生」が面倒を見てくれると約束してくれた。年が明けたら必ず電話する、と彼は明るく言った。
平成15年10月27日(月) 午前中 駅まで夫が送った。
一年後、中越地震が起きた。
「chiefはどうしているだろう」
私たち家族はことある毎に口にした。
そんな会話も途切れて・・・
「chief 今どこにいるの」 心の中で呟いてみる。
(2008・10・28 書く)
先日、帰省中の娘が部屋の整理をしていて写真があったと、私に手渡した。
若いchifと、私たち夫婦が食事をしている写真だった。
あれから、chiefは何度か湯沢に来た。
まともな職についたようだった。
娘婿がいるアルプの里にもやって来た。
電話で話もした。
私は声がつまって、「今度はこっちに必ず来てね」と言うのがやっとだった。
そして、またぷっつんと消息が途絶えた。
Chief、元気でいてくれるといい・・・