ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。ようやく横浜に落ち着いて、さぁ掃除して電子レンジも変えて、もう史料は揃ってるから読んで卒論書いて、同時進行で院の受験申し込みだな~と思ってたらまたしてもデスクトップPCがおかしくなった霧島である。
お祓いしてもらおうか、ほんとに。
だて、前回の続きである。
で、第三に、これが本題だが、組織になってしまった場合である。人間は平等であるとして、その論点のみを重視するのであれば、政治体制で言えば直接民主制がとられるような社会が理想になるだろう。しかし、実際にはそうはいかん。
初期のキリスト教会でも、使徒であるとか教父と呼ばれる偉い人がいたのだ。まぁ、この教父とか自体はキリスト教の教義と甚だしく矛盾する訳じゃなかったりするのだが、実際にキリスト教徒が増えてくると、神父様がいないで教会が立ち行けるか?という話だ。大体、祈るだけで食べていければ苦労しないのであって、普通の人間は農作業とか仕事があるのである。そこで、カトリックでは身分制みたいなもんを採用した。
まず信者がいる。その信者は祈るには祈るが、その祈りを神父に託す。祈りを託された神父は、それを教区の偉い司祭に託す。その司祭は更に司教座とかの偉い人(司教とか大司教とか)に託す。そうして巡り巡って、教皇に託された祈りを教皇が神に届ける。
これ、人間は神の前で平等するっていうキリスト教の根本原理と思いっきり反対の体制ではないかという突っ込みも出てくるだろう。それを言い出したのがルターとか…なんだっけ、殺されちゃった人。まぁその辺なのだが、カトリックではそういう体制になっておる。
そしてこの教皇を頂点とした宗教的世界は、皇帝とか王を中心とした世界とは全く別の、一つの世界と位置づけられるのである。
ここが判りにくいところだ。極端な話、皇帝陛下よりそこらの神父様の方が偉いのである。勿論、皇帝陛下と一般市民に過ぎぬ神父様では身分の格差は物凄いものがある。しかし、にも関わらず、宗教的世界観においては皇帝も一般信者に過ぎないのだ。
諸君も頭が混乱しておるかもしれんな。一般的な、貴族が偉くて農民が卑しいという発想を、西洋史では一般に世俗的と呼ぶ。王様が偉いというのは、世俗的な価値観なのだ。一方、宗教的な価値観においては、キリスト教(と言うかカトリック)で一番偉い教皇こそ世界で一番偉く、王様なんてのは教皇の気分ひとつでペッてできる程度の存在に過ぎないのだ。
だからカノッサの屈辱なんてのも起こったのである。あれは要するに神聖ローマ帝国の皇帝が教皇に破門されたから、許してくれ破門を撤回してくれってひたすら謝り続けた事件だ。
変な話である。
日本の場合なら、まぁ寺とかも兵隊を持っておる。信長の野望なんかやったら本願寺の偉い人が大名になってるからな。しかし、キリスト教ってのは基本的に軍隊をもっておらん。少なくともこの時、教皇は手持ちの兵隊がいなかった。だったら、破門解かなかったら殺すぞってやりゃあいい話なのである。実際、カノッサの屈辱ん時、教皇は「やべぇ皇帝攻めて来たぞどうしよう」ってガクガクしていたらしい。しかしそれはしなかったし、できなかった。
何故か。教皇が偉いからだ。
そんな偉い教皇を脅したり殺したりなんかしたら、大顰蹙を買う訳だ。けしからんと言って家臣(と言うか諸侯、大名)が反乱起こせば、いくら皇帝でもどうもならん。だから教皇に"お願い"したのである。
ただこの事件について、世界史なんかで、実際には政治問題だったと習った人もいるかもしれん。そしてそれは一面正しい。実際、教皇もただのカトリックの偉い人なんかじゃなくて、事実上諸侯の一人であり政治家の一人であった。じゃあ今までの話と違うじゃないかと思うだろうが、これについては、前回触れた通り価値観の不徹底も原因だ。
教義ですら、何回も公会議開いてるのである。教皇が政治しちゃいけないなんて気付かない事だって当然ありえるのだ。それに加えて、キリスト教はカトリックという組織になったのだ。組織には上下関係がある。その上下関係が、宗教的なものと世俗的なものと混同してしまう場合だってある。
だから、いかに世俗的だとか宗教的だとか言っても、例外がないってことはない。むしろ例外だらけだ。しかし、世俗的身分と宗教的身分は別というのが原則であることは変わらない。
さて、これでようやく皇帝が何で偉いかって話に戻ってくる。今まで世俗的価値観と宗教的価値観の違いを説明してきたが、こういった価値観の並存はこの二つに留まらない。それが例えば、王と皇帝だ。
以前述べたが、何がどうであれば帝国、何がどうなら王国、という厳密な定義は存在しない。しかし、多数の国を統べているとか、ローマ帝国の後継者であるとか、そういう国の一番偉い人は皇帝だ。逆に、王国は王国なんだけどすっごいちっさい国、とかににると公国になったりもする。更にちっさければ、公爵が治めてるという意味での公国もある。今でもリヒテンシュタインは、リヒテンシュタイン公爵が治めてる。この公爵は、勿論王様や皇帝よりも身分が低いとみなされる。
しかし、だからと言って、リヒテンシュタインよりイギリスが偉い国ということにはならない。
国と国は平等なのである。大きい国も小さい国も主権を持つ国家なのだ。しかし、公と王だったら、王の方が偉い。ここは明確に区別されている。公と王に身分差はあっても、公国と王国に身分差はない。新しい、もう一つの価値観なのだ。王公的価値観とでも呼ぶべきか、教皇と皇帝の偉さの意味が違うように、大統領と王の偉さの意味も違うのである。
だからこそ、オバマは天皇陛下に頭を下げたのだ。他の国の王にも頭を下げたそうだが、それも正しい。皇帝や王は大統領より偉いのだ。日本がアメリカより偉いのではない。皇帝が大統領より偉いだけなのだ。
で、現在世の中で一番偉い人に戻る。現在、皇帝が生き残ってるのは日本だけである。天皇=皇帝だからな。それ以外は皆消えた。特に第一次世界大戦で、ドイツ第二帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、全部潰れたからな。んでイギリス国王のみ、皇帝扱いされている。王公的な価値観では、天皇陛下とイギリス国王が一番偉い訳だ。一方、宗教的な価値観では教皇が偉い。
しかし、天皇陛下は神道という宗教の価値観で一番偉い訳である。つまり、二重の意味で一番偉いのだ。そうなると、天皇陛下がこの世の中で一番偉いということになる訳だ。
ま、所詮イエローモンキーの宗教だがな。
お祓いしてもらおうか、ほんとに。
だて、前回の続きである。
で、第三に、これが本題だが、組織になってしまった場合である。人間は平等であるとして、その論点のみを重視するのであれば、政治体制で言えば直接民主制がとられるような社会が理想になるだろう。しかし、実際にはそうはいかん。
初期のキリスト教会でも、使徒であるとか教父と呼ばれる偉い人がいたのだ。まぁ、この教父とか自体はキリスト教の教義と甚だしく矛盾する訳じゃなかったりするのだが、実際にキリスト教徒が増えてくると、神父様がいないで教会が立ち行けるか?という話だ。大体、祈るだけで食べていければ苦労しないのであって、普通の人間は農作業とか仕事があるのである。そこで、カトリックでは身分制みたいなもんを採用した。
まず信者がいる。その信者は祈るには祈るが、その祈りを神父に託す。祈りを託された神父は、それを教区の偉い司祭に託す。その司祭は更に司教座とかの偉い人(司教とか大司教とか)に託す。そうして巡り巡って、教皇に託された祈りを教皇が神に届ける。
これ、人間は神の前で平等するっていうキリスト教の根本原理と思いっきり反対の体制ではないかという突っ込みも出てくるだろう。それを言い出したのがルターとか…なんだっけ、殺されちゃった人。まぁその辺なのだが、カトリックではそういう体制になっておる。
そしてこの教皇を頂点とした宗教的世界は、皇帝とか王を中心とした世界とは全く別の、一つの世界と位置づけられるのである。
ここが判りにくいところだ。極端な話、皇帝陛下よりそこらの神父様の方が偉いのである。勿論、皇帝陛下と一般市民に過ぎぬ神父様では身分の格差は物凄いものがある。しかし、にも関わらず、宗教的世界観においては皇帝も一般信者に過ぎないのだ。
諸君も頭が混乱しておるかもしれんな。一般的な、貴族が偉くて農民が卑しいという発想を、西洋史では一般に世俗的と呼ぶ。王様が偉いというのは、世俗的な価値観なのだ。一方、宗教的な価値観においては、キリスト教(と言うかカトリック)で一番偉い教皇こそ世界で一番偉く、王様なんてのは教皇の気分ひとつでペッてできる程度の存在に過ぎないのだ。
だからカノッサの屈辱なんてのも起こったのである。あれは要するに神聖ローマ帝国の皇帝が教皇に破門されたから、許してくれ破門を撤回してくれってひたすら謝り続けた事件だ。
変な話である。
日本の場合なら、まぁ寺とかも兵隊を持っておる。信長の野望なんかやったら本願寺の偉い人が大名になってるからな。しかし、キリスト教ってのは基本的に軍隊をもっておらん。少なくともこの時、教皇は手持ちの兵隊がいなかった。だったら、破門解かなかったら殺すぞってやりゃあいい話なのである。実際、カノッサの屈辱ん時、教皇は「やべぇ皇帝攻めて来たぞどうしよう」ってガクガクしていたらしい。しかしそれはしなかったし、できなかった。
何故か。教皇が偉いからだ。
そんな偉い教皇を脅したり殺したりなんかしたら、大顰蹙を買う訳だ。けしからんと言って家臣(と言うか諸侯、大名)が反乱起こせば、いくら皇帝でもどうもならん。だから教皇に"お願い"したのである。
ただこの事件について、世界史なんかで、実際には政治問題だったと習った人もいるかもしれん。そしてそれは一面正しい。実際、教皇もただのカトリックの偉い人なんかじゃなくて、事実上諸侯の一人であり政治家の一人であった。じゃあ今までの話と違うじゃないかと思うだろうが、これについては、前回触れた通り価値観の不徹底も原因だ。
教義ですら、何回も公会議開いてるのである。教皇が政治しちゃいけないなんて気付かない事だって当然ありえるのだ。それに加えて、キリスト教はカトリックという組織になったのだ。組織には上下関係がある。その上下関係が、宗教的なものと世俗的なものと混同してしまう場合だってある。
だから、いかに世俗的だとか宗教的だとか言っても、例外がないってことはない。むしろ例外だらけだ。しかし、世俗的身分と宗教的身分は別というのが原則であることは変わらない。
さて、これでようやく皇帝が何で偉いかって話に戻ってくる。今まで世俗的価値観と宗教的価値観の違いを説明してきたが、こういった価値観の並存はこの二つに留まらない。それが例えば、王と皇帝だ。
以前述べたが、何がどうであれば帝国、何がどうなら王国、という厳密な定義は存在しない。しかし、多数の国を統べているとか、ローマ帝国の後継者であるとか、そういう国の一番偉い人は皇帝だ。逆に、王国は王国なんだけどすっごいちっさい国、とかににると公国になったりもする。更にちっさければ、公爵が治めてるという意味での公国もある。今でもリヒテンシュタインは、リヒテンシュタイン公爵が治めてる。この公爵は、勿論王様や皇帝よりも身分が低いとみなされる。
しかし、だからと言って、リヒテンシュタインよりイギリスが偉い国ということにはならない。
国と国は平等なのである。大きい国も小さい国も主権を持つ国家なのだ。しかし、公と王だったら、王の方が偉い。ここは明確に区別されている。公と王に身分差はあっても、公国と王国に身分差はない。新しい、もう一つの価値観なのだ。王公的価値観とでも呼ぶべきか、教皇と皇帝の偉さの意味が違うように、大統領と王の偉さの意味も違うのである。
だからこそ、オバマは天皇陛下に頭を下げたのだ。他の国の王にも頭を下げたそうだが、それも正しい。皇帝や王は大統領より偉いのだ。日本がアメリカより偉いのではない。皇帝が大統領より偉いだけなのだ。
で、現在世の中で一番偉い人に戻る。現在、皇帝が生き残ってるのは日本だけである。天皇=皇帝だからな。それ以外は皆消えた。特に第一次世界大戦で、ドイツ第二帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、全部潰れたからな。んでイギリス国王のみ、皇帝扱いされている。王公的な価値観では、天皇陛下とイギリス国王が一番偉い訳だ。一方、宗教的な価値観では教皇が偉い。
しかし、天皇陛下は神道という宗教の価値観で一番偉い訳である。つまり、二重の意味で一番偉いのだ。そうなると、天皇陛下がこの世の中で一番偉いということになる訳だ。
ま、所詮イエローモンキーの宗教だがな。
どちらも同じく宗教的世界観において許容された存在であるのは同じですが、聖書(経典)を代弁する宗教世界の代表者がいないから、東洋の皇帝は実質的に宗教的権威の性格も有しているという。天にそっぽ向かれてるとされるや否や滅ぼされますけど。
あと中華世界において皇帝というか天子は一人だから、国と国は平等なんて概念存在しませんし。諸王は地方統治を任された皇帝の臣下だという話で。
そもそも神(というか教皇)に認められているのか天に認められているかというのだけでもだいぶ違いそうです。
アラジン神といわれた明治以降の日出づる処の天子についても、本当なら教皇という存在で神とワンクッション置かれたイギリスの「世俗」君主と同じとは言えなさそうですね。
今は既に人間宣言しちゃってるから世俗の王というか国の元首なんでしょうけど。しかしいちいち人間宣言しなければならないほどの違いがあったということで、やはり厳密に言えば違うのでしょう。
ちなみに胡錦濤はこっちじゃ「胡皇帝」と呼ばれてたりします。
誰が偉いかなんて初めて身分に気づいて俺が偉いって言ったやつが一番偉いんだよ!!(違)
まぁ冗談はさておき
電子機器がイカれるのは違法電波などが原因では?
うちもある一部屋だけ韓国(北?)のTV電波を激しく受信するようで、ラジオもキムチ語流れてくるし
その部屋にTVを始め携帯やゲーム類等の電子機器を置くと1ヶ月持たないし(・ω・`)
何らかの原因で磁場やら電波やらが集中してるらしい・・・or2
結構原因は意外なところだったりしますよ
:前日記の返信
マリーアントワネットがモデルと思われるボーカロイド系動画の悪のPシリーズです
ニコニコやユーチューブで見れます
『悪ノ娘』『悪ノ召使』『リグレットメッセージ』
個人的には『moonlit bear』なんかが好きですが
キリスト教については今度是非色々と意見を交わしたいですね
あの歴史は調べれば調べるほど興味がわいてくる
or2<霧島氏ほど博識じゃありやせんが
三回に分けて書いた通り、あくまで西洋人の発想によるものですからね、世俗的な偉さと宗教的な偉さの違いとかは。だからこっちの価値観で考えると変なことになりかねない訳で。まぁそれに、特に中華なんかはいろんな宗教が入り乱れてますから、宗教的に偉い偉くないっていう発想自体出てきようがないと思います。一応天って発想がずっとあったと言えばそうですけど。まぁだからその辺は同感です。
次回のにまわそうと思ってたんですが、東洋はだと世俗的な偉さと宗教的な偉さを区別するって発想はあんまりないのはおっしゃる通りで。ただ、明治以降の近代日本は宗教も西洋型できっちりやっていこうということになって、それで廃仏毀釈とかやって、宗教的価値観ってのをちゃんと作り出してる訳ですよ。で、カトリックで言えば教皇にあたる位置に天皇陛下が来ると。だから日本の皇帝に限って言えば、東洋では例外的に宗教的価値観において一番偉い人ってのが成り立つんです。
人間宣言については、後世から誇張されたと言うか祭り上げられたと言うか、そういうところが大きいようです。天皇陛下は神道的に言えば勿論神様ですけど、実は相撲の横綱なんかも神様なんです。だから朝青龍も白鳳も神様なんですよ。人間宣言っていうのは、どっちかと言えば、今まで顔を見ることもできなかった皇帝陛下が一般市民に語りかけたりするようになった、程度のものってところなんです。
>バロス氏
電波かぁ。ただ、うちの場合本来壊れるべきものが壊れなくて、壊れる筈がないものが壊れるんですよ。古い電算器は全く完全に正常だし、PS2もなんとか息を吹き返してるし。その一方で、買ってから一年経ってない部品が立て続けに飛ぶっていう…
or2<それにこの間はとんだのは京都の会社の電算器がだしな!
ニコ動は時間があれば見ておきます…キリスト教は大っ嫌いなんですが、キリスト教について勉強するのは好きなんですよね。非常に楽しい。旧約聖書も何度か通読してますし。
でもキリスト教は嫌い。