天正6年(1578年)、織田信長の命により細川藤孝と明智光秀が丹後に攻め入り丹後の守護大名の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧した。これにより細川藤孝は丹後南半国を与えられ、本城である宮津城を築城する。丹後・田辺城は、宮津城とほば同時期に築城された。
慶長5年(1600年)、関ケ原合戦の際、当主の細川忠興は石田三成方の西軍の誘いを退け、徳川家康方の東軍に加勢したため、隠居していた細川藤孝は、自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、わずか500騎で丹後・田辺城に篭城し、石田三成方の西軍の大軍約15,000騎を迎え撃ち50日余りも善戦した。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後、細川忠興は豊前国小倉に転封され、京極高知が宮津藩に入り、元和8年(1622年)に京極高知の遺言により、京極高知の三男京極高三が田辺藩(3万5千石)を立藩する。
京極氏は三代続いた後、豊岡藩へ転封となり、寛文8年(1668年)に牧野氏が3万5千石で入封し、代々世襲し明治維新までの10代続いた。明治6年(1873年)、丹後・田辺城が廃城となる。
城跡は現在、舞鶴公園として整備され、本丸付近に模擬隅櫓(彰古館展示室)と復興大手門(二階は資料室)が建つ。
[所在地:京都府舞鶴市字南田辺15-22]
<アクセス>JR舞鶴線・西舞鶴駅から徒歩約5分
▼丹後・田辺城城郭復元図
▼本丸に建てられた復興大手門
平成4年(1992年)に建てられた復興大手門。二階は資料室となっています。
▼本丸模擬隅櫓
昭和15年(1940年)、地元出身の実業家・有本国蔵氏の寄付により建てられた模擬隅櫓。建物の内部は彰古館展示室となっています。
▼復興大手門 ▼本丸模擬隅櫓
▼本丸石垣
2017/12/13 訪城