nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

勝龍寺城

2013年04月28日 | 京都府の城郭・環濠

   勝龍寺城は、室町時代の初め延元4年・暦応2年(1339年)京都へ進行する南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築城したと言われている平城です。応仁の乱では西軍の畠山義就が修復している。天正元年、織田信長が室町幕府を滅ぼすと、元亀2年(1571年)勝龍寺城は、旧領主の流れを汲む細川藤孝に与えられ、二重の堀を持つ堅固な城に大改修をした。その後、藤孝は、天正9年(1581年)丹波宮津に移り、村井貞勝の家臣の矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となった。本能寺の変後、明智光秀の居城となるが敗れて落城し、廃城となる。現在は、勝龍寺公園として、隅櫓と高麗門等が、復元されている。   

[所在地:京都市長岡京市勝龍寺町]

<アクセス>JR西日本東海道本線・長岡京駅下車徒歩約10分

勝龍寺城の概要

 

 

 

勝龍寺公園の櫓風管理棟   板塀(鉄砲発射できる銃穴あり)

 

 ▼模擬隅櫓と堀跡

 

2013/04/27 訪城

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勝龍寺城の戦 永禄11年(1568年)

  近江の観音寺城の戦を1日で勝利した織田信長率いる全軍50,000騎は、勝龍寺城を取り囲み攻略にかかかった。織田の大軍を前に、岩成友通は、降伏・開城する。畿内の広範囲を勢力範囲に置いていた三好三人衆であったが、近江守護の六角氏が、織田信長の上洛を防ぐと予想していたが、わずか1日で観音寺城が落城したため、援軍を送ることが出来なかったためである。その後、信長は、畿内の三好の城を次々と降伏させていき、三好三人衆を畿内から掃討し、阿波に追い出す。

山崎の戦 天正10年(1582年)6月13日夕刻から

  本能寺の変後、明智光秀軍16,000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40,000騎とが、山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起をはかるべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ,自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や大和郡山の筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際には、11日間の天下人であった。

明智光秀方の京都所司代から天正10年6月10日(山崎の戦の3日前)に河内国(河州)交野の倉治郷士に明智光秀将軍に加勢を求めて使者が持参した書状(発行は天正10年6月9日)が残されています白銀100枚(現在の時価で5,000万円~1億円)も持参している。戦に勝利すれば領地を与えると書かれている。朝廷と縁ある倉治郷士は、明智光秀方にも豊臣秀吉方にも加勢しなかった。                                      [大阪府交野町史より]

 洞ケ峠を決め込む」という言葉は、明智光秀に加勢を求められた筒井順慶が洞ケ峠まで出陣しながら日和見したことによるというが、事実は、明智光秀の方が6月10日に洞ケ峠まで出向いており、筒井順慶は、大和郡山城を動かなかったのである。 

  本能寺の変後、筒井順慶は、当初、明智光秀の近江の平定に加勢したが、豊臣秀吉の軍勢が東上すると、大和郡山城に軍勢を引き揚げたのである。明智光秀の使者・藤田伝五は、6月10日、筒井順慶の大和郡山城に軍勢の加勢要請に行っている。



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