長良川西岸の墨俣の地は、交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。尾張の織田信長による美濃侵攻にあたって、織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が永禄9年(1566年)の長良川の美濃川の岸に、わずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣城である。一夜にして築いた伝わるが、建築資材を筏に組んで上流から流し、2,3,日で組み立てたものであった。そして藤吉郎は、完成した城の城将に据えられたという。現在は、河川改修で城跡の半分が削られてしまったが、残された土地は公園として整備され、公園内に鉄筋コンクリート造四層六階建ての天主様式の墨俣一夜城歴史資料館が建つ。墨俣一夜城歴史資料館では、築城当時のようすが映像などによって解説・展示されている。
[所在地:岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1]
<アクセス>JR大垣駅南口から名阪近鉄バスで岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」下車徒歩約5分
▼豊臣橋のたもとには、瓢箪とともに「太閤出世橋」の碑が、、、
▼模擬天主閣(墨俣一夜城歴史資料館)
▼藤吉郎の馬柵
▼太閤秀吉出世の泉
▼模擬天主閣よりの眺め
2014/02/09 訪城
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◆安藤守就(道足) (生年不明~1582年)
美濃の人。本巣郡・北方城主。斎藤氏に仕える重臣の一人だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年),稲葉良通(一鉄)・氏家直元とともに織田信長に降りる。以後彼らは西美濃三人衆と呼ばれ、まとまって行動をすることが多い。美濃が織田信忠の支配下に置かれた後も、彼等は織田信長に直属した。天正8年(1580年)8月、武田に通じたとの嫌疑により、突然追放され所領を失う。本能寺の変後、旧領復帰のため隆起した安藤守就ら安藤一族を討伐したのはかっての三人衆の同僚であった稲葉良通(一鉄)であった。
◆稲葉良通(一鉄) (1516年~1588年)
美濃崇福寺の僧侶だったが、牧田合戦で一族討ち死にのため家を継ぐ。土岐・斎藤氏に仕える重臣で、美濃・曽根城主。しかし、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)氏家直元・安藤守就とともに、織田信長に内通、稲葉山落城の因を作った。以後、氏家直元・安藤守就とともに西美濃三人衆と称される。織田信忠が美濃支配権を譲られた後も、三人衆は、織田信長に直属した。姉川合戦で徳川家康援軍として武勇を上げた。本能寺の変後、秀吉・勝家の対立の深まる中、秀吉方に属した。その後、揖斐郡・清水城に移り、74歳で病没。
◆氏家直元(ト全) (生年不明~1571年)
美濃・大垣城主。西美濃三人衆の一人。斎藤氏に仕える重臣だが、斎藤龍興の代の永禄10年(1567年)稲葉良通(一鉄)・安藤守就とともに、織田信長に内応。以後、織田信長配下として活躍。元亀2年(1571年)伊勢長島攻めに従軍。退却の時、殿軍をうけ持ち、討ち死にした。後、長男直通が三人衆の一角を担った。