加納城は、文安2年(1445年),美濃国守護代斎藤利永によって築城されたと言われています。守護土岐氏の居館革手城の近接地でした。16世紀初め頃、土岐氏による福光城(岐阜市福光町)への守護所移転を契機に衰退が始まり、天文7年(1538年)頃に廃城となったといわれています。関ヶ原の戦い後に、徳川家康により天下普請として慶長6年(1601年)から3年を費やして改修・築城された平城です。石垣や建物には同じ年に廃城になった岐阜城の用材が転用された。完成後は、徳川家康の娘婿の奥平信昌が10万石で入城した。奥平氏断絶後の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏、永井氏と続いて幕末を迎えた。明治5年~6年(1872年~1873年),城内の建物は全て取り壊され、堀は、明治から昭和にかけて埋められてしまいました。現在、本丸は、加納城址公園となり、国指定史跡で石垣だけが当時の面影を留めている。
[所在地:岐阜県岐阜市加納丸の内]
<アクセス>名鉄・加納駅下車徒歩約15分
▼加納城の概要
▼加納城の城下町 ▼17世紀後半の加納城
▼加納城の平面図
▼本丸の石垣(国指定史跡)
▼本丸の石垣
▼本丸の石垣
▼本丸の石垣
2015/02/28 訪城
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◆奥平信昌 (1555年~1615年)
姉川の合戦に父貞昌と共に出陣。一時武田氏に仕えるが、のち徳川家康に再出仕。天正3年(1575年)の長篠の戦では、長篠城を死守し、織田・徳川連合軍大勝の勝因をなす。天正4年(1576年)、新城城主となり、かねてからの約束通り徳川家康の長女亀姫を娶る。関ヶ原の戦の後、京都所司代。慶長9年(1604年)、上野小幡3万石から美濃加納10万石に加転。