俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

差別

2013-11-10 10:04:36 | Weblog
 「正当な差別」はあり得ない。私は決して「差別は総て悪い」などと言いたい訳ではない。正当なものは区別と呼ばれ正当とされないものだけが差別と呼ばれるからだ。
 アメリカでは能力による区別以外は総て差別と見なされる。人種・性別・年齢などによって差別することは禁じられている。だから定年制は無い。老化しても年齢ではなく能力によって区別される。
 日本ではなぜか年齢による区別だけが認められている。定年制も年功序列制も年齢による区別と位置付けられているがこれは差別ではないだろうか。
 高齢者のほうが個人ごとの能力の差は大きい。同じ年齢であっても身体能力も思考力も大きく異なる。現在、65歳までの雇用が増えているが、大半の企業では一律の低賃金制だ。これは非常に不合理な仕組みだ。高齢者の個々の能力が生かされていない。国の指示だから雇ってやっているという姿勢が露骨に表れている。差が顕著な高齢者に対してこそ、アメリカ式の能力に応じた処遇があって然るべきであり、人事制度改革の実験場としてもふさわしい。
 当り前の話だが人は皆異なる。ある仕事に向いている人も向いていない人もいる。芸能人なら容姿によって選別されても差別ではないだろうし、バスケットボールなら身長によって適否が大きく左右される。差別という言葉はかなり恣意的なものだ。
 誰でも差別に反対する。しかしそれはその人が「差別」と感じるものを否定するという意味でしか無い。他の人にとってはそれが差別ではなく区別である場合もあろう。「差別反対」という言葉に胡散臭さを感じるのは差別という言葉には予め特定の価値判断が含まれているからだ。私は差別撤廃よりもむしろ個々の違いを尊重し合うことを重視したい。人はお互いに異なるからこそそれぞれに魅力がある。同じであればつまらない。

凧の糸

2013-11-10 09:35:02 | Weblog
 毎日、体重を計測して記録するだけというダイエット法があるそうだ。事実を知ればそのことに対して何らかの働き掛けをしたくなるからだ。私も、ダイエットではないが、実際に何度かそんな経験をした。
 私は毎日1㎞以上泳ぐことにしている。50m当たり1分20秒ぐらいのペースでゆっくり泳ぐ。これは目安に過ぎずそれより早くても遅くても構わない。ところがある日、遊泳中に壁の時計が止まってしまった。自分のペースが分からないと全然楽しくない。1㎞丁度でやめてしまった。
 こんな経験もある。夕食代をビール込みで1000円ぐらいにしようと思って記録を付け始めた。1000円プラス・マイナス幾らであるかを手帳に記録した。当初の数ヶ月は毎月プラス・マイナス・ゼロ程度だった。ところがその内、マイナスにすることが目標になってしまってマイナス3000円からマイナス10,000円(1日平均700円弱)へとエスカレートした。その目標を達成するためにビールを小さいサイズに変えたり優待券や割引券を積極的に活用するようになった。
 客観的な評価、特に数値データがあれば人はそれを改善したくなるものだ。それをノルマにする必要は無い。単に記録するだけで良い。記録さえあればそれは自動的に目標になる。人は向上したいという欲求を持っているから事実が把握できればその事実に基いて何らかの働き掛けを行う。
 きつい目標よりも緩やかな目安のほうが有効だと思う。そのほうが自由であり能動的になれるからだ。たとえ自分で自分に課した目標であってもノルマと感じればつまらなくなる。ただ単に記録するだけのいい加減さのほうが遊び感覚でチャレンジしたくなる。人は凧のようなものだ。糸が付いて適度に緩んでいれば高く舞い上がる。糸を引き過ぎれば上がれないし、緩過ぎれば落下する。