俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

司法軽視

2013-11-02 10:15:46 | Weblog
 日本は三権分立の国だ。立法・司法・行政が三竦みになって権力の暴走を防ぐシステムだ。この3者で行政の立場が最も弱い。立法によって大臣が決められるからだ。行政生え抜きの人は事務次官にまでしか登れない。たまに骨のある官僚が大臣に抵抗したり大臣をコントロールしようとするが組織の壁は厚い。その結果として立法を担う国会議員の権力が肥大し勝ちだ。
 一体化した立法・行政に対抗できる唯一の権力が司法だ。司法のみが権力の暴走を阻止できる。
 ところが大きな問題が顕在化しつつある。立法による司法軽視だ。司法が違憲と判断すれば立法は速やかに法改正をする義務がある。ところが現在、2件も放置されている。1票の格差と婚外子問題だ。
 この2件に関して、私個人は全面的に司法判断を支持している訳ではないし何度か批判記事を書いている。しかし違憲判決がある以上、それに従うべきだ。判決を尊重しつつそれが招く社会問題にも充分に配慮して速やかに法改正を図るべきだ。
 最近の自民党は中国共産党に似ている。まるで自民党が国家の最高権力だと信じているようだ。司法を軽視して憲法を曲解してやりたい放題だ。国民は自民党に独裁権を委ねた訳ではないのに白紙委任状を貰ったかの如く振舞っている。
 奇妙な話だが日本には護憲政党が無い。自民党は綱領に改憲を掲げ、護憲を標榜する政党は憲法の摘み食いしか考えない偏った非民主主義勢力だ。未だかつて真の護憲政党が無いとは何というデタラメ国家だろうか。憲法が蔑ろにされ司法が軽視されればナチスドイツのような独裁制へと向かう。
 権力を持つのは衆議院と参議院だけではない。ねじれが解消されただけで独裁権があると信じる自民党の驕りを正す必要がある。三権分立の重要性を再認識すべきだ。

カラスは黒い

2013-11-02 09:43:48 | Weblog
 「カラスは黒い」という命題を証明することは実は非常に難しい。帰納法では不可能だ。仮に1億羽のカラスが黒くても他の1羽も黒いという証明にはならない。
 「川は流れる」も正しくない。一時的に流れが止まることもあれば、黄河のように断流になることもある。
 これらは屁理屈のように思われるだろう。これらは「総てのカラスは黒い」と「総ての川は常に流れている」を否定しているだけだと考える人が少なくなかろう。しかしそんな理屈が罷り通っている。日常語を厳密に解釈してマスコミが騒ぎ立てている。
 私は「薬は総て危険を伴う」と確信している。薬とは体に異常反応を起こさせる劇物であり、これは当然、危険を伴う。ところが薬の副作用が発覚すればまるでその薬だけが欠陥品であるかのように騒ぐ。しかもずるいことには、特定の薬だけしか攻撃しない。タミフル以外の風邪薬による薬害は、スポンサー様に配慮して報道が自粛されているようだ。
 最近話題の「偽装」か「誤表示」かについても疑問を感じる。特に変だと思うのは「鮮魚」という言葉だ。元々曖昧に使われていた「鮮魚」を突然厳密に解釈して「解凍した魚は鮮魚ではないから偽装だ」と騒いでいるがこれは東京裁判と同様、定義の後付けだ。「鮮魚」の定義は元々曖昧であり、鮮魚売場には解凍したマグロが並んでいる。近海物と近大マグロ以外は総て解凍されているのにその事実は無視されている。いつトバッチリが鮮魚売場にも及ぶことやら。
 私が非難したいのは曖昧な日常語を突然勝手に厳密に解釈して騒ぎ立てていることだ。例えば「薬は安全であるべきだ」は日常語としては正しい、しかし科学的には不可能だ。日常語として「この薬は安全です」と言った医師が詐欺罪に問われるべきだろうか。
 20年ほど前にPC(politically correct「政治的に正しい」)という言葉が流行ったことがある。しかしPCな表現は余りにも煩雑になり今では殆んど日常的には使われていない。日常語に厳密な意味を押し付けることは詭弁に近い。日常語は曖昧だからこそ使い勝手が良い。「カラスは黒い」も「川は流れる」も厳密には正しくなくても日常語としては正しい・