くじびき はずれ の 見た世界

シニア初級者というのに世間知らず。
少年のようなつぶらな瞳?
そろそろ大人の記事を書きたい毎日です。

スキー帰りの翌日

2011年01月18日 00時43分08秒 | ひとりごと

母が亡くなった翌年の16年前の正月のこと。
ちょうど服喪期間であり、初詣なども行けずにおとなしく過ごしていた子供達。
そんな孫が可哀想だと父がスキーに誘ってくれた。

当時は奈良に引っ越してまだ1年にも満たず、成人の日も1月15日だった。
日曜日と祝日が重なった場合の振り替え休日が、翌日の月曜日になるというのは
既に固定されていたので、学校も休み。
子供達は小学生の4年生と2年生だった。

今年と同じように年が明けてからとても寒い日が続き、兵庫県も北部の
播但連絡道の和田山ICを降りて暫く走ると、タイヤチェーンが無いと
とても走れる状態ではなくて、その分スキー場はわりと上質の雪に恵まれていた。

一泊二日のスキーを楽しんで帰る頃には車が雪に埋もれていて、除雪された県道に
出るまでも大変な状況であったが、翌日の仕事や学校のこともあり少し早い目に
切り上げて帰ってきたので、夕刻には帰宅できていた。

17日の朝、なんとなくスッと5時40分に目が覚めた。
普段なら6時半頃の起床なのに、前日の遊び疲れも感じずに。
それでも何かいつもの朝とは違う気がして、床の中に居た。

なんだか知れないけれどもゴォーッと言う音がするような気がして
「ん? 変な朝だなぁ」 と思っていると、当時は横で寝ていた相方も
「どうかしたん?」と目を覚ましたようだった。

すぐにドスンと言う音と共に身体が沈んだ。
次いでグラグラと強い揺れ。
関東のように慣れていない者にとっては、とてもとても長い揺れだった。
「慌てて動いたらアカンで、ちょっと様子をみてよう」 と横に向かって言う。
何かがパタンと倒れる音と共に揺れは収まった。

「よう揺れたなぁ、テレビつけてみ」とゴソゴソと起き出すことに。

案の定、ニュース速報が入った。

それが阪神淡路大震災。 5:46:52のこと。 自宅付近は震度4ということだった。
まさか6,434名もの死者を出すことなんて、その時は想像もしなかったのだが
時間が経つにつれて順次報道される惨状に唖然としたものである。

一日、たった一日ずれていたら大阪周りではマトモに帰ってこれていなかっただろう。
京都周りでもないとダメだったろうが、まず普通には走れなかっただろう。


昨日ののニュースショーではその16年前の惨事を風化させないためにという
話題に終始していた。

当時は大阪のガス会社のサービス技術スタッフと、現在のリフォーム事業を兼務
していたので、当然駆り出された。
中心部ではなく伊丹市~豊中市~尼崎市の報道の谷間にある場所の担当として
現地に入ったのだが、やはり鉄筋コンクリートのマンションは崩れ地割れがアチコチに
口を開いて待ち受けていた。
東端に阪神甲子園球場がある西宮市と、尼崎市の境界にあるところの武庫川を
越えることはなかったが、阪神高速が傾いて落ちているのをTV映像ではなく
肉眼で見たときには言葉も出なかったのを今も覚えている。

いつまたこんなことが起きるか予想だにできない。
やはり風化させてはいけない。
心の衝撃は風化することは決してない。