自立的、主体的、自覚的な思考もあるだろう。一切の前提を疑ってかかるような哲学者の思考はそのような思考と言えるかもしれない。
しかし、私たちの日常の大部分の思考・想念はそのようなものではない。受動的で、無自覚的で、「無明」に条件づけられ、突き動かされているのだ。一時間もサティを続ければ、それは歴然とするはずだ。
だからこそ、各々の想念・思考がどこから出てきたのかをラベリングしつつサティすることが大切だと思う。
「道元禅師様は『須(すべ)らく回光返照の退歩を学すべし』と仰せられた。念が出てきたら即、『この念、一体何処から出てくるのか?』とその念の起る本に注目するのである。一瞬の念の参究が禅修業である。これが修行者の日常でなければならぬ。」(井上希道著『座禅はこうするのだ』p189)
これには、強く共鳴する。私自身、日ごろ「念の起る本」に注目しようと心がけているからだ。自分の中のどのような「無明」から湧き上がってきた想念なのか、たえず意識的に捉え返していきたい。そんなときこそ、短い言葉でのラベリングが、重要な役割を果たす。
しかし、私たちの日常の大部分の思考・想念はそのようなものではない。受動的で、無自覚的で、「無明」に条件づけられ、突き動かされているのだ。一時間もサティを続ければ、それは歴然とするはずだ。
だからこそ、各々の想念・思考がどこから出てきたのかをラベリングしつつサティすることが大切だと思う。
「道元禅師様は『須(すべ)らく回光返照の退歩を学すべし』と仰せられた。念が出てきたら即、『この念、一体何処から出てくるのか?』とその念の起る本に注目するのである。一瞬の念の参究が禅修業である。これが修行者の日常でなければならぬ。」(井上希道著『座禅はこうするのだ』p189)
これには、強く共鳴する。私自身、日ごろ「念の起る本」に注目しようと心がけているからだ。自分の中のどのような「無明」から湧き上がってきた想念なのか、たえず意識的に捉え返していきたい。そんなときこそ、短い言葉でのラベリングが、重要な役割を果たす。