瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

素晴らしい「修練」

2006年12月23日 | 読書日誌
さらにガンガジの言葉。

「問題は、どこかへ行こうとする試みはみな、結局のところ、あなたはまだそこに到達していない、と示唆しているということです。実際、どこかへ到達するためにあなたがする行為も、常にそこに完全に実現しているものをあなたが最も深いところで認識するのを邪魔しているのです。」p144

「もしも精神的な修練が理性の活動を止めるのに役立つなら、それはあなたの強い味方です。

でももしそれによってあなたが、自分はまだここにはないと信じている何かを得るために、ある特定の修練を行っているある特定の人間だ、という思い込みを強めるように作用するなら、それは邪魔になります。その結果あなたは自分自身のまわりをぐるぐる回り続け、あなた自身の中へと理解を深めていくことができないでしょう。」p145

サティは、何かを得るための特定の修練として行われる場合もあるだろう。しかし、不思議なことに瞑想中そういう意識が強いと、猛烈な想念・思考に悩まされる。ところが、「ある特定の修練を行っているある特定の人間だ、という思い込み」に気づき、そこにサティが入ると、猛烈な想念から解放される。

以上は、ヴィパッサナー瞑想の10日間合宿で何回か、いやと言うほど体験したことである。

私たちは、時間の中に「自我」として迷っているゆえに、求道心と目的意識ももつ。今に満たされず、今にない何かを未来に求める。そういう満たされない「自我」としてサティを始め、行い続けるのだが、同時に、サティは、満たされない「自我」とその渇愛にも向けられていく。

時間の中に生きる「自我」は、時間の中で何かを求めてサティを行うが、一方サティは、求める「自我」の働きに気づいて行く。

サティは、理性(思考)の活動を止めるのに役立つ、素晴らしい「精神的な修練」であろう。

修行の矛盾、しかしサティ

2006年12月23日 | 読書日誌
ガンガジは言う、

「精神的探求を進める中で、取り除く必要がある障害の一つは、真実、完璧さ、あるいは覚醒を自分の外に求めようとする習慣です。」p57

自分の外に求めるとは、未来に、今ではないいつかに求めることと同じだ。今の自分にはない、しかし修行をすれば「いつか」それは手に入るだろうという抜きがたい思い!!

「けれども、特定の意識状態をほかの状態より重要視するのを、ほんの一瞬でも止めてみれば、意識(awareness)そのものは連続しており、すべての意識状態はこの意識から現れたり消えたりするのだということに気づきます。」p103

「いつでもここにあるもの(awareness)を保持しようとする努力するのは馬鹿げています。もうすでに永遠に確立されているものを確立しようとする努力など、お笑い草です。ありがたいことに、そんなことは不可能なのです。悲しいのは、もうすでに普遍的にここにあるものを確保しようという試みの中で、『今、ここ』が忘れられてしまうことです。」p100

もちろんここに「修行者」が直面する根本的な矛盾がある。真摯に道を求める多くの修行者がこの矛盾に突き当たる。

しかし、サティは昨日も書いたように常に私を「今、ここ」に連れ戻す方法である。思考が思考を追いかけ、思考を重ね始めたら、それに気づいて「思考」とラベリングする。そして「今、ここ」の知覚、感覚に戻る。今、私が気づいていることにラベリングする。

こうすることで無意識的、機械的な思考の衝動に気づき、そこから自由になる。「思考する私」が根拠のない幻影であることに気づく。

問題は、サティとラベリングを行いながら、それによって自分を変えようとか、より高次の意識を得ようとか、より高いレベルの修行者になろうとかいう心が常に入り込んで来ることである。

ちょっとでもサティがうまくいったりすると、すぐに「お、レベルがあがったな」などと思考する。私自身、それが修行の動機付けや張りになって毎日のサティを続けてきた。

それでどうするのか。答えは一つ。そういう自分にそのつど気づくこと。より高き者になろうとする意識が、修行者としての私の根底に横たわっている。しかし、それがある限り「今、ここ」は失われる。だからこそ「今、ここ」にある私自身の抜きがたい野心に、そのつど気づき受け入れる。サティしていく。

☆サティ:気づき、現在の瞬間をとらえる心。