瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

サティは誤魔化せない

2006年12月24日 | 瞑想日記
「自我」の目的志向や求道心から瞑想を始めたとしても、ヴィパッサナー瞑想のサティが徹底されるならは、結局、求め、渇愛する「自我」そのものへの気づき至る。サティとは元来そのようなものである。

昨日も触れたが、例えばサマーディ(三昧、禅定)を得たいという強烈な渇愛で瞑想を始めたとする。これは私の経験であるが、そんな時は、逆に猛烈な想念・妄想に苦しめられるのだ。

なぜだろうか。それは、ヴィパッサナー瞑想が元来、気づき(サティ)の瞑想だからである。ヴィパッサナーとは、心の内面も含めてあらゆる現象をありのままに観るという意味なのである。

瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させ、サマーディを完成させようとするのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。

これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の知覚や心に気づくというサティの訓練が中心になる。

気づきの瞑想なのに、自分の強烈な執着(「サマーディを得たい」)をしっかりと自覚し、相対化していなければ、 自分のいちばん中心的な動機に気づきが入っていないということになる。これではヴィパッサナー瞑想がうまくいくはずはない。根本のところでサティを誤魔化し、裏切っているのだ。

しかし、サティを続けていく限り、自分がどっぷりと浸かっていた動機をも相対化していかざるを得ない。それがサティだからである。

「自我」の狙いや目的志向は、結局は、今はない対象を求め、執着する。サティの動機がそのような執着だったとしても、サティは、そのような囚われも含め、今ここに起っている一切の現象に気づいていく方法である。
コメント (2)
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